scene74*「風の中」


それならいっそこの風に巻き込まれてしまおうか。

目の前の儚くも綺麗なこの人が、あの日、僕に決めてくれたように。


もしかしたらチェロに引き上げられたあのバイオリンの音が、僕の本当の心の音色だったのかもしれない。




【74:風の中】




びゅう、と吹いた春風に思わず体を持って行かれそうになる。

気を抜いていた僕は咄嗟に足に力を込めて踏みとどまった。

突然の東風はざわざわと周囲の木々を蹴散らすように揺らしては、沿道を歩く人々を驚かせていく。


隣を歩く、クラスメイトのスガヤが「うおっ!風すごっ!」とはしゃいだように言った。

「春にしても台風みたいな風だね」と僕が笑うと「台風で学校ってなかなか休みにならねーよな!まぁ台風で公演も中止ってのにもなんねーけど」と文句を言った。

風が一通り吹き終わると街路樹からハラハラと葉が舞い落ちた。


「立ち止まってる場合じゃない。ゲン、俺ら相当急がないと遅刻確実だ」


スガヤはスマホで時間を確認するなり僕を急き立てた。

それに思わずムッとする。そもそもこんな時間になってしまったのは僕のせいではないからだ。


「それ言うのは僕のセリフだっての。そもそもお前が二度寝するからいけないんだろ。これで席がなくなったらお前恨むから」

「俺の席がなくなるのは分かるけど、お前はなくなることないだろ。うちの学校きってのチェリストだし」

「オーボエがいなくても困るだろ」

「俺はみそっかす奏者なんで」

「よく言うよ」


二人で言いあいながら学校まで走っていく。

学校まではあと少しで、他にも僕らと同じように遅刻ギリギリの生徒たちも同じように学校へ向かっていた。

中には歩いている生徒もいるけれど今日の僕たちにそれは許されない。





僕が通う学校は規模の大きな総合学園で、僕らはそこの音楽科に通っている高等部の2年生だ。

僕はチェロ、友人のスガヤはオーボエを専攻している。


今日は午後から新入生歓迎会という学校の全体行事が行われる。

プログラムには2年と3年の生徒で編成されたオーケストラコンサートもあって、僕らはそのオケメンバーに入っている。


オケメンバーは今日は朝からリハーサル練習が入っているのだけれど、まさか今日に限って寝ぼすけな友人のおかげで朝からこんなに焦るとは思わなかった。

本番前のオケ練で遅刻するかもだなんてどうかしてるし、僕だけさっさとくればよかったと薄情な事を少しだけ思った。

実際、大きなチェロを背負いながら走るというとばっちりを受けているのは僕の方なわけだし。

そのことを中等部からの仲であるスガヤに正直に言っても怒られやしないだろう。

走りながらもまた風が吹き始める。これはいよいよ春の嵐だ。

僕はスガヤの頭をはたきながら追い抜いてやった。



「あ――――間に合った!」


バタバタと慌ただしい音をさせて教室へ滑り込んだ直後、先生が教室へ入ってきた。

僕は慌てて楽器ケースを教室の後ろに立てかけてすぐに自分の席につく。

ギリギリな僕らにとっくに気づいてる先生はチラリともの言いたげに一瞥したけれど何も言わずに出席をとりはじめた。

間一髪、と思わず後列にいるスガヤに振り向けば、奴は能天気にも変顔をした。



HRで今日のスケジュールについて先生から改めて確認が終わると、オーケストラ選出組は楽器を持って講堂へ向かうよう指示された。


通称『ホール』と呼ばれる音楽科の為に作られた音楽講堂は、入るたびに感嘆と緊張のまじったため息が出てしまう。

音が良く反響するように作られたステージは広く立派だ。

ステージ裏倉庫には、音が澄んでいる事で有名なメーカーのグランドピアノが2台もある。それを知った時はさすが私立の総合高校だと感じたものだ。


新コンのオーケストラ演奏は音楽科の生徒全員が出れるわけじゃない。

教師の選考を経て2年生と3年生の中からメンバーが決まる。

もちろん3年生で固まるパートもあれば2年生にソロが任されたりもするので、本当に学年関係ない実力主義のオーケストラだ。

チェロだって4人のうち僕以外は全員3年生で、前後2列の配列も本当は後列にさりげなく座りたかったけれど、予め席は指定されていたので隠れることも適わず少々プレッシャーに感じているところだ。


ホールにはまだ3年生きておらず、僕たち2年生は先にポジションに座り始めるとしばしの雑談が始まった。

ステージはもう2日前からセットしてあるので、気にする事と言ったら譜面台の位置くらいだろう。

僕がチェロをセットしているとステージ中央奥、僕からすると右斜め方向のオーボエ席からスガヤが話しかけてきた。


「ゲンの兄ちゃんも新コン出てたよな、ファーストで。あれ、コンマスだっけ」

「うん。今回の選抜のこと報告したら、腕はリュウセイ君のが上だけど人間性でまとめ役を勝ち取ったって、そんな思い出話聞けたとこ」

「わ、スギタ先輩を下の名前で君付けしてみてーわ。たしかにスギタ先輩はコンマスって感じじゃないわな。あの人ずっとアッチだろうから会える機会ないけどさー」


スガヤの言う『アッチ』とはもちろんヨーロッパだ。

僕の兄もここの音楽科出身でバイオリンコースに在籍していた。

今は国立の東央藝大に4年生として通っている。

リュウセイ君というのは兄の同級生で、彼は音大に入るや否やはじめからヨーロッパの音楽院に留学が決まっていた。

それからずっと向こうを拠点に今では学業と並行してプロの演奏活動もしている。


リュウセイ君はうちの学校出身とだけあって校内にファンが多いし、僕から見ても超天才型のバイオリニストだ。

兄とリュウセイ君は今では仲良いけれど在学当時はライバル視していたのでギクシャクしていたと後から聞いた。

そして、その仲を取り持っていたのはピアノコースに在籍していた、兄の彼女のフユカさんだったらしいのだから、僕と比べてずいぶん青春な高校時代を送っていたんだなぁと思う。


「リュウセイ君って言ったってしばらく会ってないよ。なかなかこっち帰ってこないし」

「そういや俺、スギタ先輩のインカメ、フォローしてるんだけどめっちゃ面白れーよ。こないだは若手演奏家の豪華メンバーで餃子パーティーの写真アップしてたし」


するとビオラパートの女子が話に入ってきた。

「うちも何気にフォローしてんだけど、あれめっちゃすごいよね。みんな世界で活躍してる若手だし、ヨーロッパの音楽院メンバー豪華すぎだよ」

「でもさスギタ先輩のすごいとこって媚びてそれじゃなくて、ほんとにスギタ先輩の人柄で集まっちゃってるってとこだよな。日本人なのにパリピ全開だし見た目とかヤンキーっぽいのに不思議だよな」

「スガヤ、それ今度リュウセイ君に言っとくわ。会ってはないけどサッカーのリーグ中継にスカイプでしょっちゅう話してるし」

「ゲン!」


そうこうしているうちに3年生がホールに入ってきたので僕らはおしゃべりをやめて、椅子から立ち上がって先輩たちに会釈をした。



* * * * * * *



新入生歓迎会コンサート、略して『新コン』では2曲を披露する事になっている。

曲目はドヴォルザークの交響曲「新世界」より第4楽章、ガーシュウィンのラプソディ・イン・ブルーだ。


3年生は本当なら音大受験に向けて学校行事に割く時間はないと思うのに、新コンメンバーに選ばれている先輩たちはそんなことを1ミリも感じさせないくらいに真剣に、熱く演奏に取り組んでいた。

かえって音の浮付きが目立つ2年生ばかりが注意されてしまう次第だ。


リハーサルをみっちりやっての最後の10分休憩に入ると、隣に座る3年のモリカワ先輩に話しかけられた。

チェロパートにおいてトップを務めるモリカワ先輩は、長い髪をポニーテールしたのがよく似合っていて、僕の弾き方が甘いとさりげなく上手に注意してくれたりする、すごく感じの良い人だと思う。


「キリハラ君っていつくらいからチェロやってるの?」

「チェロは8歳くらいからです。それまでバイオリンやってたんですけど」

「うひゃあ!じゃあまだ8年ちょっとしかやってないわけでそれ?私立場ないな~」

「何言ってるんですか。モリカワ先輩には言われたくないですよ。実際よく注意してくれますし。あ、もちろん助かってますよ」

「あら、私の方にも注意してくれたっていいんだけどなぁ。正直、キリハラ君センスあるからメキメキと腕上げたらすごいと思うよ。それに私が言ってるのは単なるコツ程度のもんだし」


モリカワ先輩は口をとがらせながら弓を少しいじり始めた。

僕は自分の体で抱くようにしているチェロの指板を指先でなぞる。

弦はバイオリンよりも太く、強い。指で弾くと深い震えが体に響いた。

そういや先輩は4歳から始めたと言っていた。やはり親戚に音楽関係者がいると前に言っていたことを思い出した。


「キリハラ君のお兄ちゃんって東央藝大だよね?私もあそこ記念受験しようと思ってるんだけど、ストレートで入るのってやっぱり至難の業よね。やっぱりコンクールでぼんぼん優勝しないと厳しいんだろうな」

「うーん、兄もコンクールで優勝してなかったですよ。むしろリュウセイ君……スギタさんが端から賞を総なめに搔っ攫ってっちゃったんで、兄の時はみんな優勝氷河期だったと思います」

「そういえばそうだね。今やスギタ先輩も超人気の若手音楽家だもんね。すごいなぁ」


そう言って、モリカワ先輩は顔をうっとりさせた。

正直、少なくとも学年の誰よりもチェロを弾ける事は自覚しているし、コンクールでもちゃんと成績も残している。

けれど最近ずっと思っていることがある。いや、気付いてしまったと言うべきなのかもしれない。


それは自分が何のために音楽をやっているのかということだ。


もちろんチェロが嫌いなわけではない。

気がつけばやっていたことだから、考えたって仕方がないのは今更かもしれない。

けれど僕は思うのだ。


自分は一体何の為にチェロを弾いているんだろうと。



僕の家は母が講師をするピアノ教室を開いているし、兄はバイオリン、姉はピアノ、僕はチェロ。

それが当たり前だった。自分で気づくよりも既に楽器を触っていた。

母は僕が末っ子だからかもしれないけれど、僕のやりたいことを何でも尊重してくれた。

小学生の時も中学生の時も友達と遊びたければ遊んでいた。練習についても僕ら兄弟には取り立ててうるさい事も言わなかった気がする。

それでも、楽器に触らない日はなかった。

母に言われたわけでもなし、僕も「やらなきゃ」というより「今日も触っておこう」程度に何となく弾いて今日まできている。


センスって一体何なのだろう。

分かるようで実体のないそれは、例えば確かにそこに存在しているのに手には掴めない空気のようだと思う。


センスや才能なんて誰だって喉から手が出るほどに欲しい。


才能だけではなく血のにじむような努力を積み重ねないと音楽なんて続けていられない。

そこに向き合っている兄やリュウセイ君の努力を近くて見て、僕もそれには負けたくないと思ってはいるし、こうして自分の努力も実ってオケメンバーにもなれた。

結果はきちんと僕の努力が反映されているしそこに何の不満はないはずなのに、それなのに自分の中に巣食っているこの停滞感のおかげで、実のところ心はあまり晴れやかではなかった。



10分休憩が終わって、今日のプログラムを最後に一度合わせた。

気持ちは軽やかじゃないのに指も手首の調子も何ともないくらい順調で、僕のこの気持ちは音にも響かない。

調子が悪ければ音が乗らないのが普通だと思っていたけれど、これじゃあ心と体が切り離されているみたいだ。

一体僕は何のために弾いているんだろうかなんて、兄やリュウセイ君はこんな想いした事あるんだろうか。

けれど、今になってこんなことを親しい人に相談したいとも思えない。


グダグダ悩む半面、冷静に指揮と楽譜を目で追っている自分が何だか別の人間のように思えた。




新入生歓迎コンサートの本番は勿論滞りなく進んで、普通科はもちろん、とくに音楽科の1年生たちはキラキラした目で僕らを見ていた。

もちろん全員がそうではないけれど(当然厳しい目つきの子もいた)、1年前の僕らもあそこにいてあんな目でステージを見ていたと思うとこそばゆかった。


「キリハラ君、お疲れ。あとはこのメンバーに1年生がちょっと加わって夏に演奏会だね」

「そうですね。また一緒にやりましょう」

「あー、その楽しみが終わったらすぐに受験だなんて考えたくないよー」



演奏が終わり全体の挨拶と反省会と呼ばれる講評の後、モリカワ先輩と他愛もない今日の感想を言い合いながらホールを出ようとした。

すると、出口のところにモリカワ先輩の名を呼びながら手招きしている人がいた。リボンのラインを見るあたり、モリカワ先輩の同級生のようだった。

モリカワ先輩は「ミライじゃん!どうしたの?」と嬉しそうに彼女の方へ駆け寄った。


ミライと呼ばれた彼女はすらりと背が高く、とても線の細い人だった。

肌の色も抜けるように白く、溌剌としたモリカワ先輩とはあまりにも対照的で、何だか美しい幽霊のような印象がした。

僕はそのまま二人に会釈をして通り過ぎようとしたところ、モリカワ先輩が僕の名を呼んで手招きした。

僕は驚きながらも二人に駆け寄る。

モリカワ先輩は僕にミライさんを紹介した。


「キリハラ君、この子美術科に通うスズキさん。3年生で、私とは前に委員会が一緒になったことあって科は違うけど仲は良いの」

「こんにちは、キリハラ君。……あの、スズキだとこの名字沢山いるから、ミライって下の名前で覚えてもらえると嬉しいです」

「2年のキリハラって言います。よろしくお願いします……?」


ミライさんは印象に違わず声も控えめで細かった。

少し鼻に抜けるような高い声は、まさしく名字の一部みたいに鈴が鳴っているように魅力的な声だった。

突然ふられた自己紹介に僕は他に何も言えず、どこか中途半端になってしまった。

けれどそんなのは関係なく、モリカワ先輩はミライさんを促すように言った。


「それでね、ミライがキリハラ君にお願いがあるんだって」

「僕、にですか?」

「ほら、ミライ」


ミライさんはちょっとだけ気まずい表情で言いづらそうにしながらも僕を真っすぐ見据え、言った。


「……デッサンのモデルをやってほしいんです。君と、チェロの」

「えっ!?」


意外な申し出に僕は思わず戸惑う。

デッサンモデルなんて、つまり僕が絵に描かれるってことだ。何だか恥ずかしい。

けれどミライさんは真剣に続けた。


「人物はもちろん、楽器を触ってる人を描きたくて。……女子はもうモリカワのを描いてるから、男子を描きたいなって思っていてそれで君にお願いしようと思って」

「でも、僕も練習あるんであんまり時間取れないかもしれないですよ」

「デッサンというか、スケッチだけでもいいの」


あんなに控えめだった口調が、急に芯の強いものに変わったと思った。

僕はちょっとだけ考えて、「……昼休みとかでも大丈夫ですか?」と提案をしてみたら、何かに弾かれたかのようにミライさんの瞳が一瞬輝いた。

本当に一瞬だったけれど、まるでそれに射抜かれたような感覚がした僕は何故か体が動けなくなった。


「君が良ければ、是非お願いしたいです。どうかお願いします」


そう言ってミライさんは頭を下げた。ショートカットからのぞくうなじは白く細い。

上級生に頭を下げられると言うのは何だか居心地が悪い気がしたので、僕はすぐに「いえ、こちらこそ僕でよければ」と言うと、ミライさんは顔を上げて少しホッとした表情になった。

安心しているんだろうけれど、ますますそれが儚く見えて、フッと息を吹きかけたらすぐに白く細い煙に変わってしまいそうな小さな灯りのようだった。


モリカワ先輩は「じゃあ早速メッセ交換しなよ」と僕らを促し、連絡先を交換してポツリポツリと言葉を交わした後に解散した。

モリカワ先輩とミライさんの後ろ姿を見送ったところで歩きはじめると、今度はスガヤが声をかけてきた。


「見たぞ、ゲン。あれ3年のユーレイさんじゃん」

「は?見てたの?いつから」

「お前と戻ろうと思って女々しく待ってた。だって先生にダメ出しピンポイントで俺貰っちゃったからさヘコんでんの」

「お前本番だと力みすぎるよな」

「こう見えてもあがり症てやつでして。で、ユーレイさん美術科の人だよね?珍しくね」

「モリカワ先輩の友達らしい。なんかデッサンモデル頼まれたから今度から昼休みはスガヤの事構えないからよろしく。って、ユーレイさんってなんなの?たしかにまぁそんな雰囲気だけど」


男の割にはミーハーで情報通な友人に聞くとフフンと得意げに鼻を鳴らした。


「まぁあのまんまだよね。美人なんだけどちょっと雰囲気が妖しいっていうか。描いてる絵も和風?な感じらしいし。でも色んな賞とっててめちゃくちゃ上手いらしいよ。あの人も東央藝大の美術科に行くんだろうな」

「へー。しかしユーレイさんってあんまりにも失礼だろ」

「けどあんまり人とつるまないしクラスでもぼっち気味って、他の先輩が言ってたしそれに……」


スガヤにしては珍しく最後のほうを言い淀んだものだから、僕は気になって「それに、何だよ」と促した。

スガヤはちょっと躊躇って、周りを少し気にしてから小さな声で素早く言った。


「美術科の先生と不倫してるって噂」

「はぁ!?」

「いや、噂、だけどホントっぽい。現に俺の友達で、ユーレイさんと先生がラブホ入るとこ見た奴いるし」

「……それってダメだよな」

「まぁ、アウトだけど、上でうまく揉み消してんのか職員会議にもその話すら出てこないらしい。だから逆に俺はお前が心配」

「だってただのデッサンモデルだけだし。時間も昼休みだし心配するところなくね?」


そうあっけらかんと言うと「分かってねぇなぁ~ゲンは坊だかんな~」と同い年で恋愛経験だってどうせ僕と同じくらいしかない癖に、スガヤはちょっと偉そうな口調をした。


「ユーレイさんあの通り変に綺麗な人じゃん?お前が好きになって演奏に響かないかが心配なんだよ」

「スガヤ……」

「なんだ?」

「お前、それ何かの漫画かドラマの見過ぎじゃね?だってどうせチェロ持って座るだけでしょ」

「…………ドラマが好きなのは否定はしない」


そう言うと二人して一緒に噴き出した。

そのままケタケタ笑いながら教室まで向かい、とりあえずスガヤの忠告は親友からの親心ってことで頭の隅にでも置いとこうと思った。




* * * * * * *



ミライさんからの連絡はその日の夜にきて、もう翌日の昼休みからさっそくモデルをすることになった。


彼女から指定された美術棟の準備室前に行くと誰もおらず、するとミライさんのほうがほんの少し遅れてやってきた。


「ごめんね。この部屋キープするのに申請書出してた」

そう言って鍵を開けて部屋に案内される。石膏像の物置と化している小部屋は6畳くらいのスペースしかなくて本当に狭かった。

しかしミライさんがカーテンを開けると柔らかい光がさしてきて、壁もテーブルに置いてある石膏像も全てが白いので部屋がすごく明るく感じた。


「この部屋ね、日当たりがそこそこよくて陰影つけたりするのにもすごく勉強になるの。だからたまに集中して作品仕上げたい生徒に貸してくれるんだ。イーゼルや椅子なんかもあるし」


ミライさんは饒舌に、窓際に椅子をセットするとそこに僕を座るように促した。

そう広くない部屋でチェロを出す事に何とも思わなかったわけではないが、自分と楽器のショットが写真じゃなく絵に残るのはそうあることではないし、良い記念になるだろうと考えながら座った。


僕がそうしている間にミライさんはイーゼルと呼ばれるキャンバスを置く木枠のような台に、すごく大きなスケッチノートをセットしていた。

隣のテーブルに出した工具箱のようなプラスチックケースを開けると、沢山の鉛筆や消しゴムがあって、そこから必要なタイプの鉛筆を何本か出した。


「弓、構えたほうがいいですか」

「最初はそれだと腕が疲れちゃうから楽にしてみて。デッサンって言っても短時間スケッチみたいな感じだから、気持ちもあんまり構えなくて大丈夫」

「……はい。じゃあそうします」


僕は言われたとおりに楽な姿勢にした。

チェロを包み込むような姿勢で座り、右手は迷ったけれど弓を下げて演奏待機中と同じようにした。


狭い部屋に鉛筆を走らせる軽快な音が際立つ。

ミライさんは僕と目の前のスケッチを交互に見ながら描きすすめる。

時折、長い針金のような棒を掲げ僕をじっと見たり、チラチラと点滅するようにやってくる視線に、僕は普通にしているという事はとても難しい事なんだと初めて知った。


「この部屋ね、元々はウチの先生が空き時間に自分の制作をこっそりするので使ってたみたい」

「そうなんですか……」


その先生って、ミライさんと仲が良いという噂の先生なんだろうか。

でもそんなこと聞けるわけでもなく僕は何も言わなかった。

ミライさんも短時間で絵を描くつもりだから集中して言葉を発しなかった。


昼休み特有の喧騒がこの小部屋にいるおかげで遠く感じた。何だか非日常な空間に妙な錯覚を覚えそうになる。

何か話しても大丈夫か確認を取りたかったけれど、ミライさんがあまりにも真剣に描いていたから何も言えなかった。


鉛筆の音だけがする15分はとても長く、ミライさんが「……こんなもんかなぁ」と自分に呟くようにして一息をついた。


「キリハラ君、ありがとう。今日はとりあえずこのへんにしようか」

「もういいんですか」

「うん。短時間で正確に描く事が目的だから。やっぱり楽器と人物のバランスは難しいけれどね」


ミライさんはそう言って、また長い針金のようなものを掲げて、まるで推し量るように僕を片目で見た。


「それ、何ですか。長い針金みたいなの」

「え?ああ。これね計り棒って言って、モチーフの長さや大きさのバランスをこれで確認して描くの」

「この棒で分かるんですか?」

「慣れるとこれが結構役に立つのよ。ただの長い棒なんだけどね」


ユーレイさんと言われているし声もとても控えめだけれど、喋ると意外とフランクなところがあるのかもしれない。

なんだ、スガヤが心配していることなんかなさそうだ。むしろイメージに周りが振り回されてるんじゃないだろうか。

僕はこの流れに便乗して、本当は一番初めに彼女に聞きたかった事を尋ねてみた。


「……今更なんですけど、何で僕、だったんですか」

「え?」

「だってチェロ弾く男子生徒なんてうちの学校には沢山いるのに、どうしてだろうって。モリカワ先輩ともオケくらいしか共通がないし……」

するとミライさんはほんの少し思案した風にしてから、ぽつりと言った。

「……たまたま、かな」


僕はどうしてかちょっとだけショックだった。

いや、むしろモリカワ先輩の隣になったことが先生の計らいとはいえ、僕からしてもたまたまだったのだからしょうがないのだけれど。

しかしミライさんはそんな僕に気付いてか、自分の選んだ言葉が失言だったと思ったようで付け足した。


「たまたまっていうか……元々楽器を持つ男の子を描きたかったのは本当。だけど昨日、君が走って追い抜いて行ったから……」

「昨日?」

「そう、昨日の朝」

「……あ!」


僕は昨日の登校事を思い出した。

朝っぱらの春の嵐の中、僕とスガヤが追い抜いて行った学校の生徒の一人にどうやらミライさんがいたようだ。

ミライさんは昨日の事なのにどこか懐かしそうな目をした。


「強い風が朝から吹く中で、その大きなチェロを背中に揺らしながら走って行った君を、何となく頭で覚えてたの。そしたら昨日の新歓コンサートで自分の友達の隣に君がいた。すぐに、朝のあの子だって思った。……それで声をかけたの」


僕も昨日の朝を思い出す。

強く生ぬるい温度の東風を受けて、ミライさんが僕を頭の隅に止めてくれていた時間を。

僕は失態をやらかした友人のおかげでそれどころではなかったけれど、まさかその瞬間で僕が誰かの意識に置かれていたなんて思いもよらなかった。

けれどそれはとても嬉しいと思った。

本当に、たまたまないきさつだったけれど、少しショックだった僕の心はその説明で帳消しになった気がした。

ミライさんがどこか不安そうに微笑んだものだから、失言だなんて思って欲しくなかった僕は笑顔を作ってきちんをお礼を言うと、ミライさんは静かに微笑んでくれた。


どこか弱々しいそれに、心を掴まれるように見蕩れた僕がいた。


それからはお互い道具や楽器をしまいながら次の予定のことを聞いて、結局お互い5限の授業の都合もあるので、時間割を考慮したうえで曜日を固定して週3ほど協力する約束をした。



* * * * * * *




ミライさんとのスケッチの時間は10分から15分程度で、その間何かを話したりするときもあればだんまりな時もあった。

モデルのポーズも最初は視線をどうすれば良いか戸惑っていたが次第に慣れて、じっとしている間にも頭の中では曲の暗譜や個人レッスンでさらった部分をおさらいしていた。


ミライさんの話によると彼女はどうやら高校からの編入組らしい。

うちの学校は3分の2がだいたい中学からの持ちあがりで、残りが外部受験の枠だった。

昔から絵を描く事が好きで、子供の頃は飼っていた猫をよく描いていたと話していた。



僕はミライさんと話すと毎回新鮮な気持ちになった。

美術科の友人がいなかったのもあるが、多分同じクラスだとしてもミライさんとはあまり関わらなかったかもしれないと思ったからだ。

そしてミライさんは今でこそこうして僕と話をしてくれているけれど、何となく教室では物静かに一人でいそうな気がした。


ミライさんはスケッチが慣れてきたのか1枚を仕上げるペースが速く、短時間で2枚ほど描くようになっていた。

点滅するようにくる視線は相変わらず僕を動けなくさせる。だから僕はミライさんと目を合わせないようにしていた。

日常の音が遠くに聴こえるこの白い部屋は、学校とは全くの別の空間に錯覚してしまいそうになる。



その日、ミライさんは珍しく「音楽、聴いていい?」と描きながら僕に尋ねた。

とくに何も思わなかったので「ミライさんが集中できるなら良いですよ」と答えると、ミライさんはその答えがはじめから分かっていたかのようにポケットからスマホを出した。おそらくミュージックアプリでも立ち上げてるのだろう。


操作が終わってケータイを立てかけると「私、これ好きなの」と言って音楽を再生にした。


彼女がかけた曲は、ドヴォルザークのスラヴ舞曲第10番だった。バイオリンとチェロのバージョンだ。


「これどこか物悲しそうだけど、少し身勝手にも聴こえて好きなの」




絡み合うようにバイオリンとチェロが響く。


音に引き寄せられたと思った次には、滑らかに踊りだす。

僕は何となく女性的というより男性からの視点のようだと捉えていた。


手を繋ぎながら絡ませながら近づいたり離れたりする様は、まるで実直なチェロが華やかで身勝手そうなバイオリンに恋をしているようだ。

時には跪いて愛を乞い、音の穴へと堕ちそうになるバイオリンの手首を引き上げる。

かと思えばバイオリンは自由に踊り出してまた離れていき叫ぶように高らかに歌い上げ、ときおり震えそうな声を奏でる。



何だか、今の僕には正直苦手な曲だと感じた。


もちろん美しい旋律だとは思う。

それでも何となく心に引っかかったのは、高みに登っていくバイオリンを見るだけしかできないような置き去りにされた気持ちになったからかもしれない。




「ミライさんはクラシックとか聴くんですか」


僕はふいに尋ねたくなった。

本当はそんなことを知りたかったわけではないのに何となく聞いていた。

ミライさんは手だけ動かしながら「ううん。君のこと描かせてもらうようになってからチェロの曲を少し気にするようになっただけかな」とサラリと答えたので、僕としては何てリアクションしたらいいのか分からなくて少し気まずくなった。


「そもそもあんまり音楽って聴かないかも。とりたてて好きなアーティストがいるわけじゃないし。……でも知り合いによくクラシック聴く人がいるんだよね」

「それって彼氏ですか」


よくある質問のように聞くと、ミライさんは手をピタリと止めて僕を見た。

いつもの冷静そうな顔立ちがいくらか呆けている感じがして何だか幼く見えた。

けれどそれも一瞬で、ミライさんはクスクスと笑いだした。


「彼氏……じゃないけど、憧れてる人かなぁ」

「彼氏じゃないんですか」

「だってこの学校の先生だもの。内緒ね」

「…………」

「私ね、ここの学校にはその人追いかけてきたの。私が小さい頃通ってた絵画教室で、講師のバイトしてた藝大生のおにーさん。今はここの美術の先生」

「……それって……」

「それが周りにどう誤解されてるのか知らないけど、私のは単なる一方通行。ただの憧れだから、恋愛とは違うけどね」


本当に?

そう聞いてみたかったけれどミライさんが「じゃあ今日はこのへんにしよっか」と言ったので、僕はそれに頷くしかなかった。


午後の授業でも僕はミライさんにした質問を思い出しては後悔していた。

僕はどうしてあんなことを口走ってしまったのだろう。

もちろん純粋な質問だったのは本当だ。でもよくあんな不躾な事を聞けたと思う。

おかげで授業の出来も散々だった僕は、先生から曲を楽譜におこす聴音(ソルフェージュ)の課題を放課後居残りでするようにと言い渡されてしまう羽目になった。



課題を音楽科の教務室へ出す際にも先生に少し注意を受けた。

もちろん今日の上の空はもちろん、最近の実技の面でもそれとなく上手くこなしてはいるけれど気持ちがどこか乗っていないのがバレていた。

けれど先生からすると沢山の生徒を見てきている経験からかよくある事のようで、スランプの原因の気持ちを突き止めて向き合うようにと、やんわりアドバイスされるだけで終わったのでホッとした。


教務室を退室するため、先生に一度礼をしてドアへと体を向けると、ちょうど廊下からノックする音が聴こえた。

先生は来訪者を知っていたかのように「入りなさい」と声をかけると、「失礼します」と女の子の声がした。

入ってきた人を見て僕は驚いた。そして向こうも。

何故なら兄の彼女のフユカさんだったからだ。


「あれ?ゲンくん久しぶり」

「お久しぶりです。あれ、どうしたんですか」


フユカさんは地元の音大の4年生で、ピアノを専攻している。

少し久々に会った彼女は、雑誌にでてきていそうな品の良いお姉さんみたいな装いだった。

少し癖っ毛の栗色の髪は胸元で綺麗にカールしている。

雪うさぎのようなほんわりとした人懐っこい笑顔は相変わらずだ。


先生は「なんだ、キリハラも知り合いなのか」と笑うとフユカさんは「先生もとっくに知ってるくせに~」と、間接的に僕の兄の彼女である事を言っていた。


「実は大学の教職課程の関係で、夏休みの間だけ講師補助をさせてもらうためにご挨拶と書類を提出しに母校に来たんだ」

「そうなんだ」

「ねぇ、ゲンくん良かったらちょっと待っててよ。せっかくだから帰りくらいお茶しようよ」

「なんだなんだ、兄貴をさしおいて女子大生とデートかキリハラ」

「先生、逆よ逆。私が男子高生ナンパしてんの」


分かりきった冗談にみんなして笑う。

僕はせっかくだからフユカさんの提案に乗って、一緒に帰る事にした。居残りも悪い事ばかりじゃないなと初めて思った。




* * * * * * *



フユカさんとは家の方向が反対なので学校で使う最寄駅の傍にあるファストフードの店で話す事にした。


サンドイッチチェーンのお店なので、僕がドリンクの他にスモークサーモンとクリームチーズのバケットサンドを頼むとフユカさんは「えー、夕飯食べれなくなっちゃうよ」と言いつつも自分もしっかり同じものを頼んでいた。

何だかんだ集中して授業を受けたりするとどうしてもお腹がすいてしまうよねと、お互い笑いあった。


店内には意外にも学生が多くウォークマンを聴きながら勉強したり、または何時間もそこにいるであろう主婦の人がぺちゃくちゃと話をしている中で、僕たちはわりと静かそうな人の近くを選んでようやく腰を落ち着かせた。


二人してむしゃむしゃと食べながら、ここのサンドイッチのこれは本当に美味しいよねだとか、さっきの教務の先生はちょっと意地悪なところがあったりするよねとか、フユカさんたちの頃の新歓オケの話とか他愛もないことを話す。


僕はフユカさんが男女とかそういう意味ではなく、純粋にフユカさんが好きだ。

初めて会った時からとても感じのよい人で、そういう人が僕の兄の恋人になってくれて良かったし、兄とは遠距離恋愛だけれどちゃんと付き合い続けてくれてありがたいと思っている。

このままいったら兄と結婚するんだろうか。

そうなったらいいなと実はうちの母も言っていたけれど、まだ若いしプレッシャーになるだろうからとその事は黙っておいた。


ひとしきりくだらない話をして落ち着くと、静かな時間がおとずれた。


「僕、実は今、美術科の人のスケッチモデルをやってるんです」

「そうなの?ゲン君、顔可愛いしそれはぴったりそうな話だね」


何となく、話したくなった。

スケッチモデルのこと、それと今の僕のことを。


「フユカさんは、何のために音楽をやってるんだろうって考えた事ってありますか」


唐突な質問にフユカさんは目を丸くした。

そして「うーん」と困ったように小さく唸る。しばらく考えた後できっぱり言った。


「ない、かな」

「ですよね……」


「多分あったのかもしれないけれど、きっと考えたのも一瞬過ぎて忘れちゃってるだけかもしれないけれど。私はおばあちゃんが小学校の音楽教師だったし、気がつけばずっと傍にあったものだから取り立てて考えた事もなかったな。……この音楽のレールに乗っているのが自分の中では普通になっていたことだから。……ゲン君、音楽嫌いになった?」


「いや、そういうわけじゃないです。好きですよ。弾いててすごく楽しい……いや、楽しかったって感じかも」

「過去形?」

「うーん、嫌いとか練習したくないとかじゃないんです。ただ、気持ちが乗っからないっていうか……先生にはスランプって言われちゃいました」

「チェロ教室の先生からは何か言われてる?」

「うーん、僕の師事してる先生はそこんとこあんまり突っ込まないからなぁ。曲へ気持ちの持って行き方は言うけど、メンタルって言うのとは少し違うし」


僕は気持ちの行き先が定まらず、話しながらストローの抜け殻の紙筒を指先で結んだりして遊ぶ。

するとフユカさんも、飲んでいるカフェオレに入れたシュガーの紙筒を同じようにして遊んだ。

そして懐かしそうにしてぽつりと微笑んで語り始めた。


「ちょうどゲン君と同じころにね、リツ君も同じようなことがあったよ」

「兄ちゃんが?あの?超生真面目な完璧人間が??」

「君ぃ~今度それリツ君に言ってみなよ。私が面白いから」

「フユカさん!」

「あははは。多分、超真面目な完璧人間だからだと思うよ。まぁリツ君の場合はスギタ君っていう壁が目の前にずっとあったからね。1年の時から」


僕は自分に置き換えた。

けれどどう考えてもスギタ君のような超天才型の弾き手は自分の周りにはいないと思えた。

するとフユカさんは僕の気持ちを察してどんぴしゃりを当てた。


「逆にゲン君は、目の前の壁がないからじゃない?それはそれで悩みもんだよね」


当てられた答えに、ぐうの音も出なさ過ぎて僕は何も言えなかった。

そんな僕を見て一息ついたフユカさんは教えてくれた。



自分の中の音を新たに模索して、今の自分を超えるっていうのは、どんな感情でも燃料にしなきゃいけない。

それは上手くなりたいっていう純粋な自己対面の場合もあるし、人より上手くなりたいっていう比較や嫉妬がバネになる場合もある。

多分リツ君は後者で、私は前者。

あとは……スギタ君と私の友達のユアちゃんは両方かな。

あれはお互いを嫉妬してる部分もあるから、あの二人はトクベツかも。


それでも、それだけじゃやっぱり音楽ってだめなんだよ。

心のものだから。

聴いている誰かがいないと成り立たないから、結局は自分と、他者ありきのもので昔から存在してきたのが音楽だと思うのね。

だから一番の解決策って『誰かに届けたい、聴かせたい』って“想い”のような気がする。

……ざっくり言うと、きっとそれって“恋”みたいなものだよね。



フユカさんはそう言うと、明るく微笑んだ。ミライさんとは正反対の微笑み方だった。


フユカさんのが、まわりを温かく包み込んで春にさせる笑顔なら、ミライさんは冬の雪が一滴、一滴、ぽたぽたと融けていくようなそんな感じ。

僕は、じゃあまだ恋をしていない状態なんだろうかと思った。

届けたい、聴かせたい、そんな風に思った事がなかったから。

それなのに、どうして今、フユカさんの笑顔とミライさんの笑顔を心の中で比べてしまったのか分からなかった。


「ゲン君は、届けたい人がまだいないのかな。本当に?」

「考えた事ない、です」

「そうかなぁ。そういう風に考え始めてるってことは、何かそういう悩みがあるのかなって思っちゃった」


僕は曖昧に笑い返す。

スケッチモデルの描き手だってそれが女の先輩だなんて僕は一言も言っていない。

けれどフユカさんは何となく気づいていそうだと思った。




フユカさんと店を後にし、駅の改札コンコースで別れることにした。

電車を見るとお互いの電車が来るまでほんの少しだけ時間があった。


「夏の定期演奏会、行けたら観に行くね」

「また連絡します。その頃には兄ちゃんも帰ってくるとちょうどいいんだけどなぁ」

「リツ君も傍らでやってる楽団の指揮者枠、そのまま狙ってるみたいだけど多分院でみっちりやりたいって言ってたからご両親の説得に近いうち帰ってくると思うよ」

「えっ、そうなの。指揮科に入った時はまさかと思ったけど……ピアノもできるしバイオリンもできるし我が兄ながらクソ真面目だね」

「でも本当は高校の頃からずっとシンフォニーやりたかったみたい。好きな曲もシンフォニー寄りだしね」

「うちの両親そういうとこ寛大だからなぁ。遠いけどお祖父ちゃんも現役で医者やってるし、うちの大人ますます喜んじゃいそう」

「あははは。一番のスポンサーが身内ってキリハラ家はすごいよ。ウチなんて普通の一般家庭だから羨ましい」


こういうあけすけな事情もフユカさんだからこそ話せると思った。

すると僕の乗る都心方面の電車がくるアナウンスが構内に響いた。

今度こそフユカさんに「じゃあ」と告げて歩きかけた僕にフユカさんは、本当にさらりと言った。


「ゲン君は、もう好きになってるのかもしれないね」

「えっ?」

「んー、何となく?スケッチの人のこと。頑張ってごらんよ」

「…………」

「ほら、電車もう来ちゃうから急いで。ご家族にもよろしくね。じゃあね」

「あっ、はい」


まるで最後は煙に巻かれたようにうやむやにされてしまった。

多分兄はいつもフユカさんの手のひらにいるに違いない。

それを気付かせないくらいにちょうどよい距離を保ってくれているフユカさんが、僕はやっぱり好きだと思った。

電車に乗って見えなくなるまで、フユカさんは陽だまりのような笑顔で僕に手を振り続けていた。



僕は、フユカさんと話した日からミライさんの事を考えていた。


レッスンで弾いている時も、スケッチしている時の彼女が浮かんでいた。

いや、心に浮き出てきたと言うほうが正しいかもしれない。


これは恋なんだろうか。


それだったら心なんて単純すぎやしないか。

会話だって頻繁にしているわけではないし、そもそもミライさんには好きな人がいる。

相手は学校の先生だし、僕だってそれを聞いた時に「ふーん」と内心思っただけのはずだ。


突然お願いされ、小さな空間に二人きりの15分間。

それを何回か繰り返しただけなのに、気になるようになるなんて恋というのはこんなに単純なものなんだろうか。


それでもどんなに練習を重ねても、絵に向かう彼女の視線は僕の頭から離れなかった。



* * * * * * *


その日はスケッチの約束をしていない曜日だったのに、僕は自分の気持ちをどこかで確かめたくて何となくスケッチの部屋にいった。


もちろん行ったところで鍵なんか開いているわけがないしミライさんにも会えるわけがないと分かっている。

それでも足は向かっていた。


すると、開いていないはずの部屋から人の話し声が聴こえた。

男女が談笑する声だった。


クスクスと、鈴のこぼれるような密やかな笑い声は今の僕がよく知っているものだ。

しかしもう一人は?

落ち着いた穏やかな、大人の男の声だった。


「15分スケッチのわりにはどれも描けてるじゃないか」

「今はざっとだけど2枚描けるようになりましたよ、ほら」

「うーん、でもこれはちょっと雑すぎやしないか」

「でもデッサンは狂ってないはずですけど」


ミライさんの声は明るい。

それだけで、何にもないと言ったけれどミライさんにとっては何でもなくはない事が分かるほどに。


僕は思いきってノックしドアを開けた。すると二人が少し驚いて僕を見た。

ミライさんの白い頬はいつもと違って嬉しそうに上気していた。


二人とも、手には僕が描かれたスケッチを持っていて、二人の体は近すぎもせず遠くもなかった。

どこからどう見てもただの教師と生徒の距離だ。

そしてその距離の分だけ、多分先生にとっても気持ちの上ではそうなんだろうと思った。


僕は、「ミライさんの声が聞こえたので、いるのかと思って」と、自分でも何となく白々しいと思いながら先生に会釈をする。

ミライさんは慌てたように先生に僕を紹介すると、先生は「見れば分かるよ。モデルの子でしょ」と何でもないように僕とミライさんに笑いかけた。

とても爽やかだった。


この人がミライさんの片想いの相手なんだ。


線の細い、若いお兄さんのようだった。

左手の薬指にはシンプルなシルバーリング。

白いシャツと動きやすそうなベージュのズボン。

髪はセットしているんだろうけれど寝癖っぽくて、メガネの奥の瞳は穏やかだった。


見るからにマジメで、いい人そうだった。

ミライさんが「おにーさん」と言った事が分かるくらいに。

この人は、この人が着ている、洗いざらしの白い麻のシャツそのもののような存在だと感じた。




僕は先生へにこやかに表情を返しながら、頭の隅でおちゃらけた友人のアドバイスを思い出していた。

そして、それはもう意味がない、と悟った。



ミライさんは決して自分には向かないこの人の心を欲しいと思っている。


人を好きになると言う事は苦しい事なんだ。

ましてや自分に向かない心を好きでい続けてしまうことって、自分にとって一番残酷な行為だ。

けれどそれをミライさんは分かってやっている。


はたしてこの二人の仲は、「誰かが見た」という「みんなの噂話」のどこまでが本当で、どこからがミライさんの主張する「嘘の噂」なのかわからない。

そしてこの、人の良さそうな先生が、どのくらいミライさんの本心に気付いているのかも。



スガヤ、ごめん。


お前のアドバイス、本物知ったら全然意味がないや。

だってそんなの、本物の気持ちの前には全く歯が立たない。立つわけがない。


こんな感情は初めてなんだ。

彼女の心を、目の前のこの人でなく、僕に惹き付けたいと思った。

あの点滅するたびに射るような瞳を、先生でなく僕に向けて欲しいと思った。


それならば、僕が出来る事はミライさんに気付いてもらうしかない。

この想いを伝えるために、飛ばすために弾くしかない。

自分の気持ちを疑いながら弾き続けるより、ぶつけて弾いた方がずっと楽だ。

自分の気持ちをただぶつけているだけだとしても、少しでも僕の事を見てくれるかもしれないチャンスがあるのなら、それでもいい。



「君は音楽科のキリハラ君だよね。音楽科の先生が君の事よく褒めてるから職員室でも有名だよ」

「そうなんだ。考えたらオケに選ばれるくらいだもの、すごいに決まってるよね」


先生は同僚教師の情報で、前から僕の事を知っていたらしい。

でも逆にそれがありがたいと思った。

知られているほうが何となくフェアな気がしたからだ。


「ミライさん、今度のコンクール。よければ聴きに来てください」



ミライさんが先生の事を想うように、僕もミライさんを想いはじめている。

自分の音を人に届けたいと想う初めての相手が、ミライさんだなんて思いもよらなかったけれど、想いも寄らない事だからこそその中で見つけた僕だけの音は違う高みへと登らせて行ってくれるのかもしれない。


僕の気持ちがざわめきだす。

まるであの朝に吹いた強い風のように。

蹴散らすのは、自分の中にくすぶっていた雑念だ。


もう自分の気持ちに置いてきぼりにされてなるものかと思った。


どんな不純な理由だとしても、誰かの為の音楽を弾く。

それがこの恋に対する僕の唯一の武器だ。



ミライさんは僕の気持ちに気付かないまま、微笑みながら頷いてくれた。

その微笑みは美しく儚かったけれど、僕はそれに見蕩れていた。



早くこの人の心を僕に向かせたいと、強く思いながら。






(  初恋だからって、“またうどな犬、ふみつけて猫の恋”のままでは終わらせない。 )

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