scene55*「お風呂」

「いい?」


「入ってくればぁー?」



お言葉に甘えまして、いざ、湯煙へ。



【55:お風呂 】





帰宅すると浴室の電気がついていた。

あんまりにも静かなので、おそらくいつものように彼女が風呂に入りながらゆっくり読書でもしてるんだろう。


そしてこれもいつもの事。



「いい?」

「入ってくればぁー?」



いつもよりも甘く響く声。

浴室に入ると髪をおだんごにした彼女が湯船に浸かりながら本を読んでいた。


その様子を見て、いつも器用だと思う。 俺だったら絶対に本を濡らしてしまうからだ。

シャワーの水しぶきや石鹸の泡が彼女の本にかからないようにしながら体を洗い終える。そして一緒に湯船に浸かっても、それでも彼女は読書をやめない。 換気扇をつけたけれど、広いとは言えない浴室には当然のように湯気が霧の如くたちこめていた。 もちろん本にとっては良くない事だけれど彼女はおかまいなしだ。



「何読んでるの?」

「ユダヤ人 金儲けの知恵」


何とも胡散臭そうな本だと思いつつも彼女は真剣だ。

彼女の本の趣味は一風変わっていて、俺が読まなそうなものばかり読んでいて感心してしまう。……って俺は本なんか読まないのだけれど。


「金儲けでもすんの?」

「そうじゃないけど」

「面白い?」

「まぁね。何か諺とか出てくるし」

「ふーん」


ぷい、と背中を向けられてしまった。これは「邪魔しないで」の合図。

何だよ。入ってくればって言った癖に……と思いつつも 、それもいつもの事なので気にしない……ように努める。

そんな心を見透かされたのか、突然彼女がニヤリとしながら俺のほうを振り向いた。


「ヨシユキってさ、甘えん坊だよね。実は」

「え?」

「甘えるなんて何かあったのー?」

「そんなんじゃないし」

「じゃーおっぱい揉むのやめてよ」


そう、笑いながら突っ込んでくる。それが悔しくてやめたくなくなり、やわやわと触り続けてしまう。



「入っていいよって言った癖に構ってくれないし」

「もぉー。落ち着いて読めやしないんだから。……あーもー熱い暑い!」



俺の手を振り解くようにザバッと立ち上がり、本をタオルにくるんで濡れないようにそれをイスに置いた。

そして向かい合うように、バスタブのふちに座った彼女は菩薩のごとく優しく微笑む。

それを見て、自分のものにしたいような衝動にかられた。どうやら今日は本当に疲れているらしい。早く彼女に触れたくてしょうがなくなってしまう。



「キスしても?」


「断ってもする癖に」


笑いながら、もう目を閉じて待っている。

そして、唇を寄せると小さな声で言われた。



「ほぉら、やっぱり甘えんぼじゃん」



しっとりしている彼女の唇は、水の味がした。




( 今宵の湯煙の旅も、仲睦まじきことかな )

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