scene45*「おばけ」


入院中、父親が持ってきてくれたCDの、ある曲の歌詞に何故か無性に感動した自分がいた。


その頃はまだ恋愛なんかもしていなかったし、むしろ自分は将来好きな女の子ができても悲しませてしまうかもしれないと思っていたから、この歌詞のように思うことなんかないんだろうなと思っていた。


これは死ぬためではなく生きるためなのだと医者からの説明に納得はしていたけれど、点滴から落ちる滴を見ては残酷なものだなぁと、歌詞カード片手にぼんやり思ったのを覚えている。


あれから何年もたって、ある時ふと自分が言った、もし俺がおばけになっても忘れずにいてくれる?っていうのは、あれは全くの冗談だったわけだけれど、これからはもうやめようと思う。




【45:おばけ】




「もう寝てる?」


俺は寝室に入り、妻の背中に静かに話しかけてみた。


もちろん子育てにクタクタな毎日を送る彼女だから、ぐっすり寝入っててもおかしくない。

けれどそのうち3回に1回くらい起きてる時があるので、毎回何となく声をかけてしまう。


そんなわけであまり期待をしていなかったのだけれど、彼女はそろりとこっちに向いて「起きてるよ。おかえりなさい。お仕事お疲れ様」と小さな声で反応した。


夫婦のベッドの隣にはベビーベッドがあって、5か月前に生まれたばかりの娘が寝ていた。

今のところ夜泣きはまだひどくなく、授乳もあまり飲まないのか自分まで起きることなく済んでいる。

それでも四六時中赤ちゃんの世話をしているのだからわずかな睡眠時間でも削っている暇なんてない。

だからこうして声をかけるのも忍びないのだけれど、つい声をかけて確かめてしまう。

恥ずかしい話、俺はそのくらいに妻の事が好きなのだ。


「ごめん、起こした?」

「ううん。帰ってくるちょっと前におっぱいあげたからさっきまで起きてた」

「眠れそう?」

「うん。うつらうつらしてたから……」


そう言ってあくびする声も本当に眠そうだ。

俺は布団に入って妻と隣りあう。

触れた肩はぬくいのに指先に触れるとひんやりしていたので、ぎゅっとあたためる。

温かいので自分もこのままウトウトしそうだと思った時、まるでねぼけているみたいな声で妻がぽつりと言った。


「……あのね、さっきちょっと夢見てたの。あなたと付き合ったときのこと」


そう言うと妻はちいさく微笑んで、懐かしかったなぁと呟いた。



妻とは高校の同級生だ。

と言っても俺は2年留年していたから、俺からしたら年下の同級生だ。

出会って20年近くたつだろうか。振りかえると長いようで本当にあっという間だ。

子どもが起きないように内緒話をするみたいに妻が話す。


「バレンタインだったよね。ちゃんと覚えてる?」

「……俺、断っちゃったんだよな、最初」

「そうだよ。だけどまさか、結婚相手になるなんてあの時はさすがに思ってなかったかも」

「ひどいなぁ、それ」

「うそうそ」

「よく言うよ」


小さくクスクス笑いあう。

いつもは疲れてそのまま寝てしまうから、こんな二人の時間は本当に久しぶりだと思った。

眠りそうな頭でゆるゆると記憶をひも解く。


言葉では茶化したけれど妻の言うとおり、まさか自分が将来結婚できるなんて本当に思っていなかった。

付き合った時より少し前はもっとネガティブだったし、それを考えたら今の生活が夢みたいにも感じる。



俺は高1のはじめに体を悪くして、治療が何だかんだ長引き2年留年してしまった。


彼女は俺が復学した翌春の2年生時のクラスメイトだった。

復学したと言っても体が本調子じゃなかったから頻繁に休んだりしていたし、お互い最初は本当に面識がなかったと思う。


自分もあまり接したことない2歳下のクラスメイトにどう接していいか分からなかったから、教室は好きだったけれどクラスに居場所があんまりない事を感じていた。



よく放課後に遅れた分の課題を提出しに行っていた。

ある日たまたま帰る前に天気が急に変わり、雷が鳴り始めていたから悪天が過ぎるまで教室で待つことにしたことがあった。


誰もいない教室で一人ぼんやりしていると彼女が偶然忘れ物を取りに教室にやってきた。

それで二人一緒に雷が過ぎるのを、他愛もない話をしながら待ったわけだけれど、それをきっかけに彼女と話すようになった。


彼女は休んだ分のノートをとってくれたり、クラスメイトとも話せるように取り持ってくれたりしてくれて、俺が3年に進級できたのもほとんど彼女のおかげだった。

そして友達のまま時間はすぎ、高校卒業する年のバレンタインに彼女のほうから付き合ってほしいと告白されたのだ。

初めて話した時のように、放課後の教室で彼女がチョコレートとラブレターの両方を携えてやってきた。

しかもラブレターを渡しながらの告白という2段階までつけて。


だけどその時、俺は彼女の気持ちを断った。


受験日前で余裕がなかっただけじゃない。


自分の病気の事、病気は完治したものの再発の恐れもあること、

もちろん今も様子を見て通院していること、

治療の段階で将来子どもが出来る確率が少ないこと、

再発となった場合は前回よりも危ないかもしれないということ、

何より彼女の両親を心配させてしまうこと。



全部ひっくるめて、自分は好きな女の子ができても将来不安にさせたり悲しませることが多いだろうし、幸せにできないかもしれない。


だから、改めて全部話して断ったのだ。


彼女は泣きながら俺の話を聞いてくれた。

けれど最後にこう言った。


「それでもいいよ。サイキ君の傍にいたいから。それに私が幸せとかそうじゃないかは、私が自分で決めることだよ」



2年間、ずっと傍にいてくれて良くしてくれて、本当は心の中で何度も彼女と付き合えたら嬉しいだろうなって思っていた。

だけど自分の体を知っている分、自分からは絶対に言いだせなかった。



そうして蓋をしていたのに彼女は、俺が勝手に築いた垣根をいとも簡単に飛び越えてきたのだから、彼女のまっすぐな心を抱きとめてあげないわけにはいかなかった。


お互い就職して落ち着いたころに結婚して、しばらく二人きりだったけれど奇跡的に子どもができた時は夢のようだと思った。

多分向こうも今それを思い出していることだろう。

付き合いが長くなると何も言わなくても何となく分かってしまう。


妻がさっきよりくっついてくると、温かさが増した気がした。

まるで湯たんぽみたいだ。


「こうして、とにかく一緒にいたくて、看護師までなっちゃった私は健気だなぁ」

「健気な奥様のおかげで、体も健やかですよ。俺も娘も」

「だって、二人が元気なことが今の私の活力だもん……それに、何が何でも産んでやんなきゃって一心だったし。まぁたまに疲れてあなたに八つ当たりしちゃうけど」


結婚して10年近くは子どもが本当にできなかった。

両方の親も諦めていて、正直俺たちも諦めていた。

妻の両親も変わらず親切にしてくれるだけに、本当に申し訳ない気持ちでいっぱいだった。


そんな俺に彼女は「夫婦二人でも仲良く楽しく生きていこうよ。色んなところに行こうよ」と明るく接してくれて本当に救われていた。

もう多くを望まない。

二人で仲良くいればいい。

そう決めてしばらくしたときに、奇跡がおこったのだ。



お互い涙を流して抱き合って喜んだ。

そして無事に産まれてくるまで何がなんでも大事に大事に育てようと、俺と子どもの為に彼女はよく気を遣ってくれた。

子どもができないのは全部俺の体が原因だと親戚の誰かが言っていた場に妻が偶然居合わせてしまったことがあり、それがあったからなおのこと彼女は「絶対に無事に子どもを産む」ことに一生懸命だった。


立ち会い出産だったけれど、子どもが生まれた瞬間は本当にテレビドラマみたいに「オギャーッ」という声が聞こえて、一瞬どこか別の部屋で生まれたのかな?と思ったくらいにその時は実感がなかった。


だけど先生がニコニコしながら、濡れた真っ赤な子ザルのような我が子を抱えながら言った。


「生まれましたよ!元気な女の子ですよ!おめでとうございます!」


まるで世界がスローモーションのようだった。

妻が抱き、俺が抱き、家族のみんなが無事にここにいることに感動して、二人して泣いてしまった。

思い出しただけで胸が熱くなる。

そして、どれも失いたくないと強く思う。


今この手のひらに感じる熱がたまらなく愛おしくなる。



「……俺は君と子どもが無事であるなら何でもいいよ」


祈りを込めてそう伝えると、彼女はぎゅっと手を握り返す。

すると彼女はいたずらっこのように笑って言う。


「もう、おばけになったらなんて、言わない?」


その言葉にハッとなる。

彼女を見ると子どものようにくしゃっと笑った。


「よく、何か不安なことが自分にあると、あなたそう言ってたから」


その言葉を聞いて、情けないことに胸がつままれたように痛くなる。

ばつの悪さが表情に出てたらしい。

彼女はまたちいさく笑う。


「ふふ、ごめんね。でも、約束して。もう言わないって」


彼女と付き合ってから、何度か口にしたそれ。


『もしおばけになっても、俺の事忘れずにいてくれる?』


いつか急にまた体を悪くして、彼女をひとりにしてしまうかもしれない。

自分が思うより早く置いてってしまうかもしれない。

彼女は明るくて強い人だから、すぐに恋人ができるかもしれない。

もっと体が丈夫で、うんと心も逞しい男と出会えるに違いないし、子どももすぐにできるかもしれない。


だけど、そうしたら俺の事なんてすぐに忘れてしまうかもしれない。

そんな不安と寂しさがよぎるたびについ口にしていたのだ。


「そんなこと、もう言うわけないだろ」

「ホントかなぁ。あなた結構女々しいから」

「女々しいのは認めるけど……今度ばっかりは絶対に二度と思わないし言わない。だって、おばけになったら先が見れなくなるだろ」



拗ねたように言ってみると、妻が思わずふきだした。

一体どこが面白かったのか分からないけれど、何だか楽しそうだからいいか。

つられてこっちも笑顔になると、妻は確信に満ちた声で言ってくれた。


「まぁ、もしおばけになっても、絶対に忘れるわけないよ。だって私あなたの子どものお母さんだよ?子どもがいる限り忘れるわけないよ。……じゃあ、今度こそほんとに約束だね」


今でもありありとあの光景が浮かぶ。

壊れてしまいそうなほど小さいのに、案外強く僕の指を掴む小さな手の熱を感じた瞬間。

ふにゃふにゃな赤子を抱えて退院した日。


その日はすごく晴れていて、若葉の緑が力強く、世界がとても美しいものに見えてしょうがなかった。

とても眩しくて、妻の笑顔がとても綺麗で、本当に心から初めて「生きていて良かった」と思えた。



絡めた手をほどくと、今度はいっぱいに妻を抱きしめて、耳元ではっきり宣言した。


おばけになったらなんて、もう絶対に口になんてしないよと。





( 明日は通勤時にGLAYのTHINK ABOUT MY DAUGHTERを久々に聴こうと思う )

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