引っ越し準備とお休み

 父を見つめること、数秒。


「お父さん……私、引っ越してきたばっかなんだけど……」

「わかっている。だが、日当たりも悪いし、ここに来るまでの間に見回したが、夜は危ないと感じた。それに……」

「それに?」

「こんなに近くにいるし、今まで一緒に暮らせてなかった分、少しでも長く紫音といたい、一緒に暮らしたいと思ったらダメなのか?」

「それは……」


 確かに父の住所を見た限りここからかなり近いし、居酒屋などが何件かあるしカラオケもあるみたいで、夜は酔っ払いや騒ぐ人もいて煩い。線路が近いところにあるせいか壁が薄いってわけじゃないけど、それでも築年数が嵩んでいる分、電車の音や人の声が聞こえて来ることもあって、どっちにしろ眠れない日もあったのだ。


「……本当のことを言えば、私だってずっとお父さんたちと暮らしたかった。お姉ちゃんやお兄ちゃんたちが羨ましかった」

「紫音……」

「今さらそんなことを言われても……って思うけど……。いいのかな……。もう大人なのに……」


 本当はこんなことを言うつもりじゃなかった。だけど、つい出てしまった言葉は、今まで一緒に生活できなかったことに対する愚痴だった。

 そんな私の心情がわかっているのか、父が近寄ってきてギュッと抱きしめてくれた。それは、とても懐かしい感蝕で涙が滲んでくる。


「大人だとか子どもだとか関係ないんだよ、紫音。俺にとって紫音はいくつになっても子どもだし、途中の成長が見られなかったから、これからそれを埋めたいだけなんだ」

「お父、さん……っ」

「お前がいつ結婚するのかわからんが、それまで一緒に暮らそう……。な?」

「……うん」


 父の言葉が嬉しかった。まさか、この年になって一緒に暮らせるとは思っていなかったから。

 母の血が濃いかもしれないことを考えると結婚なんて考えていないから、父が定年退職するまでずっと一緒にいられるし、引っ越す時も一緒についていける。

 だから素直に頷いた。

 金曜日は父も休みだと言うので、不動産屋さんに一緒に行ってくれることに。まさか引っ越してきて一ヶ月もたたないうちにまた引っ越すことになるとは思わなかったよ……トホホ。

 まだ閉店時間前だからとさっき買ったお店に父が電話してくれて、エアコンの取り付けの住所変更をお願いしている。もう……急に言うから……なんて思ったことは内緒。

 まあ、取り付けてからすぐに外すよりはいいかと、自分を納得させる。

 そんなにほどいていないとはいえ、また荷物を詰めなきゃなあ……なんて考えながら、ご飯を食べに出かける。駅まで戻って昨日入った駅ビルとは違う、南口にある駅ビルに行き、今日は韓国料理を食べて帰ってきた。

 家まで送ってくれた父と別れ、昨日干したものを取り込んでから洗濯物を干し、取り込んだものを畳む。洗濯物は何があるかわからないから、部屋干しにしている。


「明日までに長袖が乾くかなあ……」


 乾かないだろうなあ……と遠い目をして明日も半袖でいいかと諦め、今日買えなかったTシャツは明日仕事の帰りか明後日兄と待ち合わせ前に買うことにして、布団を今日買った羽毛に変える。

 どうせ引っ越すことになるからとホットカーペットを出すのは諦め、お風呂に入るとさっさと布団に潜り込む。

 途中で姉と兄たちから【親父と一緒に住むことになったってホントか⁉】って内容のメールが三人同時に来て、「お、お父さん……話すの早すぎ……!」と呟いてから、三人に【ほんとでーす】とメールを返す。

 引っ越しの時期とかまだ決まっていないけど、父のことだからすぐに言いそう……なんて思っていたら、昂兄から明後日の待ち合わせ時間をメールしてきた。


「お? 午後からかー。なら、午前中にTシャツを買いに行こうっと」


 お昼ご飯を食べようと言ってきたのでそれにも頷き、シフト表を見る。新しいシフト表も明日確認しようと考えて目覚ましをセットし、目を瞑る。

 羽毛布団の上に毛布をするとあったかいからと父はお高い毛布も買ってくれたんだけど、お高いからなのか、あるいは羽毛だからなのか、昨日まで使っていた布団とは違って軽くてあったかくて……。いつの間にか眠っていた。


 翌朝起きると、すぐに洗濯物を確かめる。やっぱり乾いてないかと今日も半袖を着ることにし、出かける準備をし、出勤。

 そして掃除は昨日と順番を変えて、まずは調味料入れやそれらが乗っているトレーを回収して配膳カウンターに置くと、テーブルを拭きながら椅子を引いた状態のままにする。

 こうすることで障害物が無くなり、早くお掃除できると考えたのだ。

 テーブルを拭き終わると椅子を拭き、床を掃いたあとはモップをかけながら椅子を戻す。食堂にある時計を見ると、昨日よりも二十分早く終えることができた。


「おー! 新記録!」


 小さな声で呟いて一般食堂をあとにすると、同じ要領で幹部食堂も掃除する。こっちも二十分短縮することができた。

 のはいいんだけど、今度は何をしよう……。金本さんに聞いてみようか。


「あの、お忙しいところ申し訳ありません。金本さん、食堂のお掃除が終わったんですけど、他に何かやることってありますか?」

「へ?」

「え?」

『えええええっ⁉ もう終わったの!?』


 金本さんに声をかけたのに、そこで昼食の準備をしていた田中さんや木村さん、他の自衛官たちにまで驚かれてしまった。え? だって遅いよりはいいじゃん。


「……確認してもいいかな」

「はい」


 早いから手抜きをしたと思われたんだろうか。……失礼な。

 教わった通り、綺麗に丁寧にお掃除しましたとも。


「……ちゃんと綺麗にお掃除してるね」

「おー、それはすごい。紫音ちゃん、何をどうやったら時間短縮なんてできるのよ?」

「え? えっと……」


 田中さんに聞かれたので今までのことも踏まえて今日やったことを話すと、「業者みたいだ」なんて名前を知らない自衛官に言われてしまった。


「じゃあ……業務に入ってないことで申し訳ないんだけど、手の届く範囲で構わないから、窓枠を拭いてくれるかな。今ぞうきんを渡すから」

「わかりました」


 十一時まででいいからと言うので頷き、ぞうきんを渡されたあと綺麗に掃除した。

 窓枠はほこりがすごかった、とだけ言っておく。

 もちろん幹部食堂もやり終えたあたりでちょうど十一時になったので、ぞうきんはどこにしまうか聞いてから休憩。窓用って書くから渡してと金本さんに言われたので渡した。


「うーん……ご飯、今日も先に食べようかな……」


 ご飯を先に食べて、外でチヌークを見て、午後の休憩はお昼寝した昨日のパターンのほうが、午後からの仕事も楽だったのだ。今日もそうしようと決めてご飯を食べると日向ぼっこしつつチヌークを眺め、今日は兄と乙幡さんに声をかけられて中に入った。

 洗浄機前の戦場(と勝手に命名)で戦い、休憩時間はスマホと毛布を出して眠る。午後も午前中と同じように時短に成功し、金本さんたち自衛官を唖然とさせた。

 ……今度の出勤の日は、もう少しスピードを落とそうと思う。

 で、夜の戦場と戦って今日も微妙に焦りながら途中で交代してもらい、着替えて家に帰った。

 帰って来てから洗濯をして干してあったものを畳み、いつ引っ越すかわからないからと当面使う予定の服だけを出しておいて、それ以外はダンボールにしまいこむ。箪笥を買ってなかったし、押入れとクローゼットに使う必要のない夏服はダンボールに入れっぱなしだったから、それほど準備しなくても助かったのもある。

 明日は兄夫婦と会うし、午前中にTシャツを買って、安い箪笥でも見てこようかな……なんて考えながらご飯の用意を始めようとした時だった。


「はーい」


 玄関チャイムが鳴ったので返事をすると、返って来たのは父の声だった。


「あれ? お父さんどうしたの……って、お兄ちゃんまで!?」

「ああ、ごめんな。荷物があるなら、先にある程度親父の家に持って行くとか言い出してな……」

「は!?」

「いいじゃないか。善は急げって言うし」

「そうじゃねえだろうが、親父」


 まさか、昨日の今日で荷物って言うとは思わなかった。


「で、紫音、荷物はどこだ?」

「えっと、押入れに夏服が入ってるダンボールがあるよ」

「箪笥はどうした?」

「持ってない」

「じゃあ、俺が箪笥を買ってあげよう」


 嬉々としてそんなことを言わないで、父よ……。


「親父、それはあとにしてくれ。紫音、持って行っていいものを渡せ。車で来てるから、運んでやる」

「……お父さん、本当にいいの?」

「ああ。紫音がいつか来るのを想定して、お前の部屋もあるんだ。だからそこを使えばいい」

「ありがとう……。じゃあ、お兄ちゃん、こっち。この押入れのやつをお願い」

「わかった」


 あがってもらって押入れやクローゼットに入っていた、今は着ない洋服を持ち出してもらう。ここに引っ越して来る時にいらないものは捨てて来たので、そういったものがないのが救いか。

 ダンボールは全部で六つあって、冬服のもふたつほどあったけど、真冬用のだったので持って行ってもらう。食器も先日買ってきたものしかないし、お鍋やレンジ、冷蔵庫やポットは父の家にあるし、お弁当箱以外は兄がもらってくれたり処分してくれるというので、お願いした。

 ただし、何があるかわからないからポットだけは置いておいてもらった。冷蔵庫は後日また取りに来るという。


「紫音、一度家に行ってみるか?」

「うーん……ご飯がまだだし、引っ越す時でいいよ」

「そうか。なら、ご飯を食べに行くか?」

「ずりぃ……俺も行きてぇ……」

「お前は明日会うんじゃなかったのか?」


 父に突っ込みを入れられて、兄は黙ってしまった。父との夕飯も連日だからと断り、二人は荷物を持って帰っていった。

 鍋も食材もないし、買ってくる気にもなれず、ストックしてあったカップラーメンを取り出して用意する。待っている間に室内を見回すと、ガランとしていた。

 ホットカーペットも持って行ってもらったから、部屋にはない。


「この分だと、不動産屋さんに行ったあと、すぐに引っ越すとか言いそう……」


 スマホを見ながらラーメンをすすり、ふとそんなことを呟く。

 いつの間にか洗濯も終わっていたのでそれを干し、お風呂に入りながら掃除もする。そんなに使っていないから、前のところよりは楽だ。

 お風呂からあがったあとは少しだけテレビを見たけど、面白いのがなくて見るのをやめ、布団にもぐりこんでSNSでチヌークを探したり、フォローしている人に話しかけたりしながら時間を潰す。

 そしてシフト表を見ながら仕事の日をスマホのカレンダーに記入し、それに合わせてアラームが鳴るように設定してから眠った。


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