繭の娘
『冬服の姫』は小説JUNE1992年4月号に掲載された嶋田さんの最後の作品です。この小説は、心臓が悪い少女の家族のお話で、恋愛物というよりは家族愛に近い女の子同士の愛情のお話です。
心臓が悪い花とかあさんのもとに真穂がやってきた。真穂は離婚した花の父親がつくったジェットコースターで母親を亡くしていた。そして、花の父親は病院で真穂に拳銃で撃たれていた。かあさんは一目見て真穂を気に入った。母親らしい行動をとるかあさんは、花にとって未知の存在だった。
真穂が来てから、花はまともに食事を家で作るようになった。真穂のためにかあさんは新しい制服やかたちのよい服をあつらえてやり、花にはフリルや飾りがたくさんついた服を与える。子供たちのイメージそのままに、人形を愛でるようにかあさんはふたりを愛する。その愛情に、ふたりは押しつぶされそうになっていた。
ふたりはときどき、埠頭までとうさんに会いにいく。ふたりはひたむきなとうさんのことが好きだった。とうさんはいつも自らそれと気づかずにジョーカーを引き当ててしまう人だった。真穂のとうさんにたいする愛情は、肉親の情というよりはもっとべつの感情に近いものだった。
オードリー・ヘップバーンが好きで、オードリーが着ていた服を洋服屋につくらせるかあさん。花は「大きくなったらこの服を借りてもいい?」とききますが、かあさんは「似合わないよ、花には」と答えます。
真穂がくるまで、かあさんは家事をすることがありませんでした。花はかあさんが台所が汚れるのを極端に嫌っていたからだろうといいます。好きで集めたカフェオレ・カップ、銀のスプーン、魚の形をしたまな板。潔癖とずぼらが同居しているかあさんは、輝くものの一級鑑定士だと花はいいます。かあさんが夢中になったのは、オードリーときれいな雑貨、エビネに真穂でした。
実の娘の花ではなく。
真穂の成長に合わせてかあさんは制服を新調します。真穂の制服姿は涼やかで賢そうでファンの数も多いと花はいいます。制服のない学校へ通っている花には、フリルや刺繍のボンボリがついた女の子らしい服があてがわれます。
かあさんがこんこんと愛情を注ぐ真穂にはかあさんの理想のイメージが重ねられ、自分の娘である花には、「女の子」らしいイメージが重ねられています。
かわいらしくてかよわい「女の子」としてのイメージ。
それはかあさんが好きな「オードリー」の対極にあるものでした。
かあさんが家事をするようになったきっかけは真穂でした。
愛されなかった(と思っている)花は、つねにかあさんの目が真穂へ向いていることに苦しんでいました。が、真穂がかあさんの愛情を受け止めているおかげでかあさんと家族でいられることにも気づいていました。
かあさんの愛情は非常に極端なものです。かあさんは、真穂以外の人間には不可解な暴君のような行動を取りますが、真穂にだけは献身的なよい母親になります。
が、相手を見ていないという点では真帆の扱いも花のそれと同じです。愛情の押し付けは一種の暴力になります。花と真穂はそれを知っていながらも、互いの方法でかあさんの愛情を受け止めようとしています。
それがどんな形であれ、母親の愛情であることに変わりはないからです。
花は「かあさんはずっと自分を否定しつづけてきた」と真穂にいいます。かあさんは心臓病持ちの、ぐずったれの娘なんかほしくはないのだと。かあさんは自分の自由になる、手ごろな娘がほしかったのだと。
それでも花はかあさんにハッピーエンドをあげたいといいます。
ほんとうは王女さま。すてきな貴婦人。輝く宝石よりすばらしい愛を見つけました。そんなハッピーエンドを。
かあさんは「母親」になりたくない人でした。
花がいなければ、かあさんは「少女」でありつづけることができたのかもしれません。そのことに気づいているからこそ、花はかあさんに「ハッピーエンドをあげたい」と言うのです。
時間をもどしてかあさんのなかに消えてしまうことはできないのですから、花は自分の繭にかあさんを入れて、かあさんの夢を育て直そうとするのです。
私たちの「かあさん」の世代は人によって違うのですが、「かあさん」に共通しているのは、いまよりも不自由な世代だったということです。
かあさんを戦後生まれと仮定すると、かあさんは男女平等に学校教育を受けた世代と言えるでしょう。が、「男は仕事、女は家庭」という現実のもとに、結婚するときに仕事か家庭かを選ばされた世代の人間でした。
男女平等だった学校教育のむこうがわには、「できる女」となって育児や結婚を放棄する「名誉男性」か、結婚退職をして家庭に入る「母親予備軍」という選択肢しかなかったのではないでしょうか。
家父長制の社会において、かあさんの世代の人が劣位の「女性」にならない方法はふたつ。
仕事に没頭して育児や結婚を放棄する「名誉男性」になるか、自分の女性性をアピールして条件のいい男性をつかまえる「名誉女性」になるか。
かあさんが真穂に仮託しているのは、賢くて美しい「名誉男性」的なイメージです。そして花に仮託しているのは、かよわくてかわいらしい「名誉女性」、あるいはたんなる「女性」としてのイメージです。
花の洋服につけられたぼんぼりやフリルは、花が「愛され、犯される」存在であることを意味しています。
「名誉男性」は自分たちの能力や努力によって「女性」から抜け出した存在です。だから「名誉男性」は「名誉女性」や「女性」の「愛され、犯される」属性を差別します。
自分たちは彼女とは違う。自分は「女性」であることではなく、自分の能力によって生きているのだ、と。
「名誉女性」も「名誉男性」や「女性」を差別します。
自分たちはかよわくも美しくもない彼女たちとは違うのだ、と。
家父長制の社会では、「女性」であることは自己嫌悪の対象となります。
そのようなことを言ったのは、私が知るかぎりでは『成熟と喪失』の江藤淳と、江藤氏に影響を与えたエリクソンです。
そういう社会の「母親」は、「名誉男性」となる可能性を放棄した存在、「名誉女性」となるための美しさを子どもを生むことによって放棄した存在となります。
「名誉男性」や「名誉女性」になりたかった「女性」が、社会の圧力によって「母親予備軍」に入るしかなかった世代。
そのような「母親」の子どもであるということは、自分が子どもであることによって「母親」の自己実現の可能性を潰したということではないでしょうか?
もし「母親」が子どもを生むことによって自己実現を果たしたのであれば、私はそれを問題にするつもりはありません。
ただ、「名誉男性」や「名誉女性」としての自己実現をめざしていた多くの「女性」に「母親予備軍」になる選択肢しか与えられなかったことや、「母親」になりたかった「名誉男性」が、仕事のせいで「母親」になれなかったことを不当だと思っているだけです。
私さえいなければ、「かあさん」にはもっとべつの選択肢があったのではないか?
花がかあさんに「ハッピーエンドをあげたい」という背景には、このような疑問があると思います。
しかし、真穂にはかあさんの願いが叶わないものであることがわかっています。
花のかあさんが求めているものなんか、この世のなかにはないんだよ。
どんなにあこがれても、どんなにのがれても、子持ちで、助産婦で、それ以上の世界は育ちはしないんだ、と。
現在は「かあさん」の世代よりもすこしずつ状況が良くなってきています。それは「かあさん」の世代の人々の努力の賜物です。
私は「母親予備軍」であることに留保をつけられる世代の子どもです。「女性」であることへのモラトリアムを保つことができる世代。「母親」になりたくなかった「かあさん」を見ていると、私には「かあさん」が神様に愛されなかった子どもであるように思えます。
花の「ハッピーエンドをあげたい」という言葉。それは「母親」になりたくなかった「かあさん」の子どもとして生まれついた花の、ひとりよがりでけなげな叶わぬ願いであるように見えたのです。
JUNE全集の小冊子で自分の子どもを「めちゃくちゃかわいいよ」といった嶋田さんは、もうJUNEの世界に戻ることはないのでしょうか。
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