第57話 空白の池袋⑤


 安寧あんねいを得ることは難しい。暴力はさらに大きな暴力に駆逐される。


 狩る人間はいつか狩られる。修羅に生きる男には常に不安が付きまとう。


 今日もまた暴力の逆転が起こった。一人の男が追い詰められていた。万物流転。




「落とし前は自分でつけなさい。まだ弁解する気なら舌を切り落とす」

明白了わかりました。ビッグダディー、……あなた様の言いつけは絶対です。『がぁぁぁぁぁぁあああ』ハァハァ『がぁぁぁぁぁぁあああ』ハァハァ『あがぁぁぁぁぁぁあああ』…………うぅ……」


「ジャンさんっ、なにもそこまで!」


「やり方はこちらの流儀で……高橋さん。ご迷惑をおかけする気は毛頭なかったですが、行きがかり嬢……行きがかり異常……いきがかり……でトラブルになったことをお詫びいたします」


「早く病院に! ……しかしまさか、眼球をくり貫くだなんて……だがそれと問題の本質とは……謝罪のお気持ちは十分に伝わりましたが」


「重ねて申しますが、日本の組織に対してご迷惑をかけるつもりはありません。……ですが、池袋の華僑、華人はすでに一万五千人に達する。それは一つの中国の街だ。レッド怒羅魂ドラゴンと懇意にしていることは存じ上げておりますが、どうぞ、同族のもめ事は同族で。でなければ、先程のお約束も守れなくなる」

 エイの腹のような顔でそう宣言され、暴力団の幹部と言うより口調も物腰も温和なサラリーマンとしか見えない高橋と呼ばれたその男は、不承不承うなずくのだった。


 それから地下にある開店前の古酒バーで、テーブルに椅子を積み上げてぽっかりとあいた空間に、去り際、階段をあがる高橋と組員の足音だけが暫しの間、鳴り響く。








「ぷはー。ジャンさん日本語上達したな! 発音ばっちり。ちょっと噛んでたけど」

 俺は血糊をシャツで拭いながら起き上がった。


「ヒロユキ! 『がぁぁぁぁあああ』の回数が多すぎる。演技過剰で疑われないかと冷や冷やしたぞ!」

 中国人のフリをしていた青木が、カツラを外しながら不服そうに言う。


「実際、めん玉くり貫いたらあれくらい叫ぶんだよ。こっちは一度経験ずみだぜ?」



 ちょっとした問題が起こった。池袋で最大級の暴力団と偶然ではあるがトラブルになったのである。それをたった今、小芝居で切り抜けたところだった。



「これで済んだと思うか? ヒロユキ」

 一芳イーファンが物陰から現れる。素性はよく知らないがロンジョイの右腕であり、池袋のビジネスを取り仕切る実質上の責任者である。


「さぁね? 羅森ラシンちゃん、そのあたりどうなの?」

「暴力団としては池袋で最大だが、表の仕事で十二分に潤ってる。暴力を背景とした荒稼ぎはもはや必要ない。腹一杯の山羊だ。目障りだろうが、小さなチャイナタウンの非合法なシノギ欲しさに手を入れにくるとも介入するとも思えない」


「だってさ、一芳イーファンさん。羅森ラシンの調査能力は世界一ぃぃぃ」

 俺はキャンディー貿易商会で買った安物の義眼セットをナイフが突き刺さったままリノリウムの床に投げ捨てた。 



 あたりまえの話だが、アンダーグラウンド経済は、本体の影なのだ。


 窃盗、恐喝、違法売買、性的搾取、強制労働、いずれの違法行為も巨大な表経済のあだ花に過ぎない。池袋華僑経済の主役はあくまでも華人系企業で、ベッドタウンとして有名な埼玉の通称、新華僑団地などから埼京・京浜東北線に乗って通勤してくるまじめなサラリーマン達なのである。

 そんな日陰のジメジメとしたシノギにそれよりも更に先鋭化されたフロント企業が合法的に収益を上げてる日本の暴力団が積極的に関わりたいと、普通は考えない。

 問題はすべて解決した。





 そのまま新宿で足取りを消し、焼きそばを食ってジャンさんと二人、電車に乗る。


「ふぬぅぅ~」車窓にひたいを押しつけ、ジャンさんが悲しげな顔をする。小型犬か?




 この人は物心がついた頃には、身無し子だったそうだ。


 12歳でセックスを覚え、16歳で女達に子供を産ませた。


 だがこの男は逃げ出さなかった。


 近隣の窟に頼み込み、日本に出稼ぎにやってきた。数奇な運命。


 


「ふぬぅぅ~ヒロユキ」

「どうしたよ、さっきから?」

「焼きそばだけじゃ腹いっぱいにならない。酒も飲みたい」


「……ぶっ! わかったよ。奢ってやるよ。雪香シュエシャンの店でなんか飲もうぜっ!」






 

 

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