隣のニートさん
番茶
第1話-1
―――トントントン……
包丁がまな板をたたくリズミカルな音で目を覚ます。いつもと同じ朝。
毎朝この音で目を覚ます。目覚まし時計や携帯のアラームよりは目を覚ました時、落ち着く。
真璃は大きく伸びをすると、ベッドから起き上がりカーテンを開ける。きれいに晴れ渡っていて清々しい。ハンガーにかけてある高校の制服に着替え、顔を洗いに洗面所へと向かう。
洗面所へ向かうため、自室の扉を開けると香ばしいみそ汁の香りがほのかに香ってきた。今日は和食か。
顔を洗い終え、台所へ向かうとそこにはエプロンを着て右手に菜箸を持ち、コンロのグリルに並んだ鮭の切り身の焼き加減を見ている父がいた。
「おはよう、お父さん」
「おはよう真璃。もうすぐできるから、箸を並べてくれる?」
「うん」
朝の挨拶もいつも通り。
父は真璃が物心ついたころから家族の食事を作っている。真璃の母は真璃が生まれてからしばらくして病気で亡くなっている。なので必然的に父が料理をしなければならなかったのかもしれない。父とそういった話をちゃんとしたことがないので詳しいことはわからないが、料理が嫌いということはなさそうだ。
その証拠にちゃんと一日三食作ってくれるし、父の料理は美味しい。本人に直接味の感想を言ったことはない。なんとなく気恥ずかしいからというのもあるが、そもそも、最近父と会話らしい会話をしない。昔はよく喋ってた気がするから思春期というやつなのかもしれない。
真璃は食器棚から箸を取り出そうとしてふと、台所の中央にある食卓テーブルに並べられた食器を確認した。
(三人分……?)
ちなみに、安野家の家族構成は父と真璃の二人だけだ。ということは、用意されている朝食の数は一人分多い。真璃は鮭の切り身を皿に移している父の方を振り返った。
「ねえ……お父さん、ご飯一人分多くない?」
「ん?ああ、ごめん伝え忘れてたね。実は……」
―――ピンポーン
父の言葉を遮るように玄関の呼び鈴が鳴った。こんな朝早くから誰だろう。
「はーい、私が出るよ」
「あ、真璃!ちょっと待って……」
父の制止よりも先に体が動いていた。玄関に向かう。扉をゆっくり開けると外の光が薄暗い玄関を徐々に明るくしていく。
扉を開けた真璃の目の前にいたのは新聞配達の人でもなく、宗教勧誘の人でもなかった。
「あ、えーっと……おはようございます……あの、安野さんいますか?」
太陽の光を浴びてきらきらとまぶしい金髪を気まずそうにポリポリと掻きながら真璃の前にいる青年は気恥ずかしそうにもじもじと喋りだした。
「安野はうちですけど……どちら様ですか?」
真璃は状況がいまいち呑み込めず、いぶかしげに金髪の青年の頭から足先までじろじろと観察した。全体的にヒョロヒョロとした体躯で、ボサボサの金髪にパーカーにジーパン、素足にサンダルとラフな格好である。真璃が初見で思ったのは全体的にくたびれているという印象だった。
すると、後ろから静かに足音が近づいてきた。
「おはよう高橋君。待っていたよ。どうぞ上がって」
父がにこやかに青年に家の中に入るように促した。真璃は何が何だかさっぱりわからず玄関の靴箱のあたりで思考停止し、固まっていた。高橋君と父に呼ばれたいた青年はお邪魔しますと小さな声で言いながらサンダルを脱ぎ、台所へと向かった。
「真璃も、ご飯食べながら説明するから台所に行こう?」
高橋君とやらが台所へ向かった後、父が真璃の肩をポンポンと優しく叩きながら台所へと促してくれたおかげで思考停止していた頭が動き出した。
「あ、うん…?」
***
台所へ向かう父の背中を追いかけながら真璃の頭の中は疑問であふれていた。
父の背を追いかける真璃の後ろで玄関の扉がパタンと小さな音を立てて閉まり、いつも通りの薄暗い玄関に戻った。
台所の食卓に並ぶ本日の朝食は鮭の塩焼き、菜の花の御浸し、金平ごぼう、ひじきの煮物、わかめと豆腐の味噌汁、白米と純然たる和食だ。味噌汁の湯気が鼻をくすぐる。しかし、今日はまだ朝食に手を付けられない。
いつもなら空席である真璃の正面の席に座る人物についてまだ何もわからないままだからである。いや訂正しよう。“高橋君”という名前である事は唯一わかることである。先ほど父が彼をそう呼んでいたからだ。
金色に染められた髪の毛が目のあたりまで伸びていて表情がはっきりとはわからない。しかし口を真一文字に結んでいるため緊張しているということは辛うじて分かった。
こほん……と、右斜め前に座る父は沈黙を追い払おうとわざとらしく咳払いをした。
「まあ、まずはご飯を食べよう。食べながら説明するよ」
そう言うと両手を合わせ「いただきます」と厳かに言うと箸をとり、味噌汁をすすりだした。
「……いただきます」
真璃も父を怪訝な目で見ながら手を合わせ食前の挨拶を済ますと箸をとり、味噌汁をすする。遺伝なのかわからないが、やはり和食は味噌汁からというのは譲れない。
「……い、いただきます……」
真璃が味噌汁をすすりだしてから慌てたように手を合わせて高橋君も箸をとり、味噌汁をすすりだした。高橋君は完全に二人につられて味噌汁から手を付けたな…と真璃は密かに観察しながら思った。
「あ、高橋君、言い忘れたけど無理に全部食べようとしなくていいからね。残しても大丈夫だから、好きなものを好きなだけ食べるといいよ」
父はふと気づいたように顔を上げると高橋君にそう言った。心なしかとてもやんわりと優しい語り口だった。
「あっ……はい。ありがとうございます」
父の言葉を受けて、最初はびっくりしているようだったが、次第に強張っていた頬が緩んできたようだ。少しずつではあるが、白米とおかずを交互に食べ始めた。
(父と高橋君はいったいどういう関係なんだろう?)
真璃の疑問は膨らむばかりである。無意識とはいえ、真璃がじっと高橋君を観察している事に父が気付いたようで、一旦箸を置いて口を開いた。
「高橋君には伝えていたけれど、こちらが私の娘の真璃です。それで、真璃、こちらの方はお隣の部屋に住んでいらっしゃる高橋君」
父がにこやかに高橋君のほうに手を向けた。それに気づいた高橋君が慌ててご飯茶碗と箸を食卓に置くと、背筋を伸ばして真璃の方を向いた。
「えっと、高橋です。高橋誠之助です。……二十五歳です」
高橋君がもじもじと恥ずかし気に自己紹介をした。傍から見たらお見合いの様である。これはもしや……。真璃の内に段々と不安が募ってきた。
「安野真璃です。高校二年生です。……それで、お二人はどういったご関係で…?」
真璃は恐る恐る二人を交互に見ながら聞いた。というのも、最近クラスの一部の女子たちがキャッキャしながら見ていた男性同士の恋愛話が詰まった漫画や小説の話を高橋君と父のやり取りを観察していて頭の中にふと湧いてきたのである。もしそれであれば娘の自分は妙齢の女性を紹介された場合よりもっともっと気まずい立場である。
「どういう関係といわれても……隣人同士?」
父は困惑と疑問が混ざり合ったような顔をして答えた。
「高橋君は隣の部屋で一人暮らしをしてらっしゃるんだけど、先日から会う度に顔色が悪くてね……。昨日、アパートの階段の下で蹲っていてね。大家さんが心配していたから彼の部屋まで付き添ったんだけど、何日も食事をしていないと言っていたから、どうせだったら家でご飯を食べないかと誘ったんだ」
「すみません……ご迷惑をおかけして……」
高橋君はシュンと肩を落とし、下を向きながら謝りだした。
「いいんだよ、高橋君。食事の提案をしたのもこちらだし、むしろお節介だったかもしれない。でも、ちゃんとご飯食べれるようで安心したよ。」
「安野さんのご飯が美味しそうで……食べれたのは自分でもびっくりしてます……」
なぜ高橋君はご飯が食べれなくて、安野家で朝ご飯を食べなくてはいけなくなってしまったのか、真璃はイマイチわからない。しかし、とりあえず自分の思い込みが間違っていたようで、恥ずかしさが込み上げてきて黙って箸を動かすことを再開した。
「よかったら、夕ご飯も食べに来るかい?お昼ご飯は私も真璃もここにいないから用意することはできないけれど」
真璃の頭の中はさらに混乱した。朝食だけでなく、夕食も?しかも、お昼ご飯の心配をするということは、日中もこのアパートにいるということなのだろうか?ご飯が食べれないというのは金銭的に?仕事は?聞いてもいいことなのか聞いてはいけないことなのか、真璃にはわからなかったのでとりあえず黙っていた。
「そんな……悪いです。申し訳ないです……」
消え入りそうな声で高橋君は首を横に振りながら言った。首の動きと一緒に顔までかかる金髪も揺れた。
「そんなことないよ。二人分作るのも三人分作るのも変わらないから。もし、食べれそうだったら夜の八時過ぎくらいにさっきと同じように呼び鈴鳴らしてくれればいいから」
父は食後の煎茶を湯のみ三人分に注ぎながらやはり優しそうに高橋君に言った。
「……はい」
どこかほっとしたような返事を高橋君がしたのは気のせいだろうか?真璃は食後の煎茶をすすりながら高橋君を盗み見た。長く伸びた金髪の隙間から見える高橋君の目は優しそうだった。顔のつくりは整っているが外人ではなく、れっきとした日本人の様だった。そのまま視線が高橋君の後ろの壁かけ時計に移った時、真璃は目を疑った。七時五十分、いつも家を出る時間だった。
「嘘!もう行かなきゃ!ご馳走様でした!」
真璃は手を合わせてすぐにお皿をまとめ、流し台に置くと慌てて自室に戻った。机の下に置いてある通学カバンをひっつかむとあわただしく玄関へと向かった。
「行ってきます!」
靴を履きながら台所に聞こえるように大声でそういうと、勢いよく玄関から飛び出した。
「行ってらっしゃい」
父の言葉が徐々に閉まる扉の隙間から聞こえたような気がした。勢いよくアパートの階段を下るとふわりと優しい四月の風が真璃の頬を撫でるように通り過ぎて行った。
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