2019.03 TEXT 人間が野菜に見える病気

■2019.03 人間が野菜に見える病気


 私は前作(十三年前のことになる)の雑文『針を呑む』に人間の顔が野菜に見える少年の話を書いた。

 佐々木禎子さんのJUNE小説『野菜畑で会うならば』の立野くんである。


 JUNEとは現在のBL(ボーイズラブ)の前身で男性同士の恋愛を扱った作品群のことを指す。JUNEはBLよりもコミュニケーション不全の感覚が強く、心の繋がりを重視した作品が多かった。BLから入った方には奇異に映るかもしれないが、JUNEに心の救済を求める読者もいたのである。私もそのひとりだった。


 立野くんはあるきっかけで人間の顔が野菜に見えるようになる。立野くんの一種異様な世界で話は進んでいく。その詳細は『針を呑む』を参照してください。

 今回の主人公は立野くんではない。が、私はある本を読んで「リアルに立野くんがいる」と思ったのだ。


 ある本とは哲学者の中島義道氏の『カイン』である。


 『カイン』は中島氏のところへ相談に来たT 君との書簡という体裁を取っている。T 君はかつての中島氏と同じように生きづらさを抱え、大学卒業後の進路に迷っている。中島氏はT 君に自分の少年時代を語り、「弱い」自分がいかにして強くなったかを語る。


 その強くなる方法が「あらゆる他人を完全に消すこと」だった。

 自分の周囲には「人間」という名の自分に似た動物がたくさん生息しているが、他人は「存在」しない。それは「表象」にすぎない。

 他人も、森羅万象も自分の表象にすぎない。だから、自分は誰からも危害を加えられない存在になった。完全に安全になった。中島氏はこう語る。


 私は『カイン』を読んで、「ああ、ここにも立野くんがいる」と思った。

 他人の存在に敏感すぎて恐怖を覚える、感受性の鋭すぎる人間が、自分の自我を保つために張る防壁。あるいは目くらまし。

 彼らは「人間が野菜に見える目」と「人間が自分の「表象」にすぎないと考える思考」を持たないと、この世界では生きていけないのだ。

 それは、「他人を理解することの絶望的な困難さ」を彼らが骨身に沁みてわかっているからである。


 以前私は『針を呑む』に「私たちには自分が野菜扱いしている人間の顔が「人間」に見える。ただそれだけのことだ」と書いた。

 問題は「野菜として扱っている人間が「人間」の顔に見える」「人間を「表象」化させなくても無意識に人間をないがしろにできる」善良でふつうの私たちの鈍感さではないだろうか。


 私はすべての人間を人間扱いする必要はないと思う。

 ただ、「人間」に見えている人間と「野菜」として扱っている人間の違いとか、自分が人間を「野菜」化していることに自覚的でありたいと思うだけだ。


 そして立野くんのように、自分が他人を「人間」として見たいと思うのならば、「野菜」に人間の顔を描き続ければいいのだ。

 それが、立野くんや中島氏のように鋭敏な感受性も本質的な思考も持たない私ができる精一杯のことである。


 自分の孤独城にいる中島氏からはこざかしいと思われるかもしれないが一応書いておく。

 中島氏は「かつての弱かった自分」や「かつての自分に似た若者」のために文章を書いている。もし人間がすべて「表象」であるならば、中島氏はこのような文章など書く必要はないはずだ。

 人間を「表象」だとする中島氏のなかにも、なんらかの思いの欠片のようなものがあるのではないだろうか。愛情というと言葉が重すぎるが、私は『カイン』のなかに、異端者としてしか生きられない者への中島氏の愛情を見る。

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