2018.10 TEXT 幼女であり老女である

■2018.10 幼女であり老女である


 然し私は生き残つた娘たちのために泣きたい


 やがて人妻となり、やがて子供を生み

 やがて小鳥も花も唄も忘れる娘たちのために泣きたい                      小唄 ギイ・シャルル・クロス


 心のなかに、高慢でわがままな少女を飼っている。

 自分を枉げることを嫌い、おそろしく偏食で、生きていくために透明な空気しか吸っていないような少女。森茉莉の『甘い蜜の部屋』のモイラのような。モイラは決して弱い少女ではなかったが。

 私はその少女が嫌がることはいっさいしない、そんな人生を選んできた。高慢な少女をこっそりと飼うために、一見従順なうわべの人格を身に付けてきた。おそらくは夢を食べて、地に足がつかないまま死んでいくのだろう。茉莉よりは才能のないぶん、世間と折り合いをつけるだけの小器用さも持ちあわせている。


 茉莉は森鴎外に溺愛されて肥大した自己愛を抱えていた。

 存在するだけで愛される子供のしぶとさと、高慢。それはもっとも幼児期に必要な愛情だが、そこに道徳性や社会性という枠が入らなければ、子供の心は単なる肥大した自己愛となる。

 父親は茉莉に社会性の枠を被せなかった。「泥棒してもお茉莉は上等」といって、子供のなかでひとりだけ茉莉を「男でも女でもないふしぎな生き物」に育て上げた。


子供という言葉は常に茉莉の方から出る言葉であるが、感受性、感性はたしかに子供並みの敏感さと、吸取紙が即座に吸収して抜き難くなるのと同じ反応力を持っているものの、並み以上に複雑に入り組んだ思考経路を持つ人と私は見ている。( 『ぼやきと怒りのマリア』小島千加子編 筑摩書房 1998年 P433)



 茉莉の担当者であった元編集者の茉莉評である。

 無条件の肯定を失ったあとの不安定な「愛の肉食獣」だった茉莉。

 世間ズレしていないところ、(おそらくは)息子に騙されて土地を奪われたところなどを、茉莉は幾度となく「子供」と称されてきたのだろう。

 小倉氏は茉莉を単なる「子供」としては見ていなかった。が、茉莉に無条件の愛情を要求されて疲弊するさまが、前掲の本に出てくる。


 存在するだけで愛され、肯定されるのは幼児だけだ。無条件の存在の肯定は、幼少期には必要な愛情だが、次の段階では、自己愛を抑制して社会性を身につける必要がある。自己愛の角を取り、他者への愛情を持つようにすること。それがふつうの子供が育つ過程である。


 幼少期の無条件の愛情が足りないと、子供はさまざまな弊害を起こすようになる。

 茉莉の場合、それは充分すぎるくらい足りていた。が、神のごとき父親の死によって、その愛情は永久に失われてしまった。高すぎるところへ昇った梯子をいきなり外されたようなものだ。茉莉は終生、父親の愛情の代替物を求めてさまようことになる。


 茉莉は女性のエッセイストによって、ひとりで生きていく女性のロールモデルのように崇め奉られてきた。

 が、彼女たちが心酔するのは主に茉莉のエッセイで、茉莉の男性の同性愛を扱った小説群は、彼女たちからは尊敬されつつも遠ざけられてきた、あるいは透明なもののように無視されてきた。

 茉莉の小説の文体を賞賛したのは、私が知るかぎり笙野頼子だけだ。


同性愛でなく男子でない森娘が幼時の記憶だけを手掛かりにこのもどかしい程に抑圧とも欺瞞とも付かぬ自分でこしらえた癖に出方の判らぬ、錯綜した感情の迷路を通り抜け切れずに、どの位混乱して、文を大回転大車輪文体逆上がりさせてくださるかだなー。それを見たい。実に、実に見たい。(『幽界森娘異聞』 笙野頼子 講談社 2001年 P132)



 これが賞賛? と首を傾げられるかもしれないが、私はこれが笙野氏の賞賛だと思う。

 

 茉莉の一見男性の同性愛を扱った小説は、茉莉がアラン・ドロンと ジャン・クロード・ブリアリの写真から妄想した「見立て」の小説であった。そもそもの始まりが二次創作のようなものだったのである。

 実在の男性の同性愛者を「薄汚い」と称し、自分の小説がソドミーだと言われたことに腹を立てた茉莉。

 それはこのご時世ではLGBT批判に取られかねないような発言だが、茉莉のなかで自分の小説は美しい夢であり、この世には存在しない「ファンタジー」だった。


 私は茉莉の理想的な読者ではなかったが、茉莉の神髄がわかるのは、茉莉と同じ「ファンタジー」を共有する者だけだと思っている。

 茉莉の都合のいい部分だけを摘まんで尊敬する頭のいいエッセイストたちには、「ファンタジー」に耽溺しながらも「ファンタジー」ではない現実に苦しみ続けた茉莉の根源的な不安がわからないのだ。


 茉莉の潔癖症は、茉莉と同じ「ファンタジー」を夢見る者にも向けられる。


私の本を読む若い女の中に、私の《へんなゆめ》と、彼女たちのユメとを混同してゐるのがゐていやになる。それがわかると、まづい、まづい、いやな食物をむりやりに口に圧しこまれたやうな、咽喉の内側を羽毛で逆撫でされて吐きさうになるやうな、そんな気分に襲はれる。さうかといつて彼女たちのユメと私の《へんなゆめ》との異ひを判らせることは全く不可能である。(ゆめの崩壊 『森茉莉全集7 ドッキリチャンネル(II)』  筑摩書房  1993年 P551)



 この孤独。この高慢。この矜持の高さに、彼女と似て非なる《へんなゆめ》を持つ私は圧倒される。

 茉莉のなかにいるのは、無邪気で残酷、高慢で気まぐれで、自分の心に正直な王様のような、剛毅で繊細な少女だ。

 

 私が飼っている少女は、世間一般で言われる「美しい」少女ではない。

 精神的に纏足された、砂糖菓子のような少女には、私はまるで興味がない。

 世間一般では嘲弄されるような「ファンタジー」を貪って生きる、「男でも女でもないふしぎな生き物」だ。


 私を知っている人でその少女の存在を知る者はいない。知らせる必要もないと思っている。

 この世界のなかでふつうの人に紛れながら、ひっそりと自分の少女を飼っている人たちの気配とその息づかいを知るだけで、私は満足する。

 そして気まぐれに、わかる人にしか解読できない暗号のように、私はネットの水辺でこのような文章を書き送っている。

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