2006.02 TEXT 存在の根源的な不安

■2006.02 存在の根源的な不安


 この文章は『ぼやきと怒りのマリア』(小島千加子編 筑摩書房 1998年)の書評である。

 『ぼやきと怒りのマリア』は、森茉莉の小説や随筆を手がけた新潮社の編集者・小島氏に宛てた茉莉の書簡集である。初期の小説作品から『甘い蜜の部屋』までの創作過程、茉莉の日常生活、交友関係などが書かれている。


□「見立て」の感性


 茉莉は『恋人たちの森』をブリアリとアラン・ドロンの写真から想像して書いた。そして『甘い蜜の部屋』やほかの小説を書くためにも大量の写真の切り抜きを使用していたという。視覚的なモデルがないと小説が書けなかったという茉莉の性質は、自分の身辺から小説を書き始めたこととなにか関係があるだろうか。『アラビアのロレンス』のピーター・オトゥールをチェックしているあたりがさすがJUNE小説の元祖である。以前にも書いたが、俳優ふたりの写真を恋愛関係に「見立てる」ところはパロディの感性に通じるものがある。栗本薫氏の初期のJUNE小説もある俳優の「見立て」だったことを考えると、JUNE小説と現実の「見立て」にはなにか深い関係があるのだろうか。いまこの問題は知識不足で扱えないので、また後日考えてみたい。


□存在の根源的な不安


 茉莉の性格は、自己愛性人格障害のそれとよく似ている。中島梓氏にもその傾向があると思うのだが(そもそもJUNEは自己愛の変形に端を発していると思う)、自己愛性人格障害の根底には、母親に見捨てられるのではないかという分離不安があるという。中島氏には不安の要因がある――弟さんが障害者であり、母親に放置されて育てられた――のだが、茉莉にはその要因が見当たらない。母親との関係はそれほど悪くないし、男根のある母的存在の鴎外が終生茉莉を見捨てることはなかったからだ。

 鴎外の何もかも受け入れてくれる愛情が、茉莉の分離不安を生むのではないだろうか。

 茉莉は適切な時期に母的存在から離れることができなかった。母的存在との融合を果たしていた茉莉は、鴎外の死後その楽園から放り出されてしまう。

 ふつうの母子関係では、母と子の分離は段階的に行われる。が、茉莉の場合は、その予行演習がいっさいなかった。ゆえに、茉莉は鴎外という母的存在から一生分離できなくなった。

 茉莉は鴎外の死後、自分のすべてを受け入れてくれる人を捜した。そして、鴎外の身代わりを求めて人から拒まれつづけた――おそらくは。

 茉莉は生涯“呑気で楽天家で、しつこさが無い”鴎外の忠実な愛娘でありつづけた。なにをしても「お茉莉は上等」――そんな自分を愛することを周囲に強要しながら。


 茉莉が自分の同性愛の小説を雑誌に「男色小説」と書かれて怒るシーンがある。茉莉のエロティシズムは母的存在との分離不安を解消するために(ナルシシズムの範疇で)存在しており、他人にエロスを感じる段階までは至っていないと思う。

 小島氏は、茉莉には「人間の熱情は、せんじつめればサド、マゾの領域に踏みこまずにすまされるものではない」という考えがあると指摘する。茉莉の小説のサド/マゾ観は、サド(攻め)がマゾ(受け)を愛しすぎて殺してしまう、というものである。中島氏は『新版 小説道場1』で「枯葉の寝床」について、「どうしても「他の存在を独占したい」「他の存在の内側に融合したい」ならばさきにいったとおり、アナルではなくて内臓そのものをつき破ってアナロジーとしての「内部」を侵してしまう以外ないだろうし、そうすればもちろんその相手は死にます。(P244)」と述べている。

 茉莉のサド/マゾ観はマゾ(受け)を滅ぼすほど強い愛情を欲しがっている、ということだろう。そして、愛情の絶頂期に死を迎えたい、愛情が失われてしまうまえに自分が滅んでしまいたいという願望でもあるだろう。

 もう二度と鴎外がいないという冷徹な現実のなかに置いていかれないように。


□鴎外の身代わり


 茉莉は他人に自分を庇護し、愛しつづけることを要求した。茉莉は、自分の作品を擁護した三島由紀夫氏や室生犀星氏を鴎外の身代わりにしている。

 もっとも茉莉の犠牲となったのは、編集者の小島氏である。茉莉は手紙のなかで再三にわたって小島氏が「愛情をもつて笑つてくれる人」であることを求めている。

 小島氏は、「作品に対する熱意を、茉莉はすぐ人に対する親愛(茉莉に言わせれば愛情)と同一視する。それが甚だ厄介である。(P285)」と述べている。

 茉莉は自分の人格と作品を分離することができない。なので「自分の作品を好きな人=自分を好きな人」と思い込みやすい。その逆もしかり。


 ロマンブックス事件にも、茉莉のその性格が表れている。

 ロマンブックス事件とは、茉莉が「恋人たちの森」を初版の版元である新潮社にことわりなく他社から出版しようとしたことを指す。新潮社の編集者であった小島氏が茉莉に苦言を呈したところ、茉莉は小島氏が自分の元夫の悪口を信じた、○○さんにだまされた等、被害妄想のような長い手紙を送ったという。

 茉莉には小島氏にすこしでも否定的な要素があるとそれを敏感に察知し、小島氏を責めるところがある。小島氏が茉莉から目を離すと、茉莉はつねに長い手紙を送っている。

 その件から、小島氏は、茉莉の性格について「何れにせよ、一風変った、表には見えない茉莉の気質、性格がここにはっきり現れている。茉莉が自身についてよく言う、“呑気で楽天家で、しつこさが無い”というのとは全くウラハラの気質である。(P233)」と述べ、のちにそれを「精神の暗黒面」とも述べている。

 その「全くウラハラの気質」とは、「相手に見捨てられることを恐れる、過敏で、執拗な」性格であり、その根底にあるのは「不安」である。


 この本には萩原朔太郎の娘、萩原葉子氏と茉莉の交流と別れが描かれている。

 茉莉と葉子氏の著作は小島氏が編集していた。茉莉と葉子氏の仲がいいうちは茉莉と小島氏の関係も良好であったが、葉子氏の変節によって、茉莉は小島氏に不満をぶつけるようになる。

 この件には、葉子氏の小説の変化が大きく関係している。それについてここでは詳述しない。

 小島氏をめぐる茉莉と葉子氏の関係は、鴎外をめぐる兄弟との確執の反復でもある。私には、茉莉が小島氏の愛情を一身に受けるために葉子氏を非難しているようにも見える。そこには作家として葉子氏に置いていかれそうな茉莉の「不安」が窺える、と小島氏は言う。


 茉莉は人間の両義性を理解していない。なので、自分にとって悪いことを言われると、即「自分が嫌い」だと思い込んでしまう。

 茉莉は小島氏に鴎外のような「完全な庇護者」であることを求めている。茉莉は「小島さんを、育てる人、忠言者、促進者、愛情をもつて笑つてくれる人として持つてゐるといふ満足とよろこびを意識しないでゐる時はほんの少しもない。(P181)」というような内容をくりかえし手紙に書いている。これは小島氏にとっては恫喝のようにも見える言葉である。

 この「愛の肉食獣」の攻撃をまともに受けて小島氏が疲弊しているさまがあとがきに書かれている。


□芸術家としての特性


私たちが茉莉を“子供と甘く見ている”と思っていたとは意外であった。私も伊藤も、茉莉を世間ずれしない純な人、とこそ思え、“子供”とは見ていない。世間に疎いのは単に世間智に欠けるということであって、即、子供ではない。子供という言葉は常に茉莉の方から出る言葉であるが、感受性、感性はたしかに子供並みの敏感さと、吸取紙が即座に吸収して抜き難くなるのと同じ反応力を持っているものの、並み以上に複雑に入り組んだ思考経路を持つ人と私は見ている。(P433)


 という小島氏の文章がある。小島氏や伊藤氏(新潮社の編集者)は茉莉を子供とは見ていなかったが、それは茉莉の文学を理解していたからである。

 茉莉の文学を理解していない者にとっては、茉莉の生活能力のなさイコール茉莉の子供らしさである。

 が、自分が興味をもつものに深く傾倒できる、そしてそれ以外にはまったく興味を示さない、という性質は芸術家としての特性である。

 それを理解できる人は茉莉を正しく評価し、それを理解できない人は茉莉を「子供」として扱っていた。おそらく茉莉はその違いをわかっていなかったのだろう。


 私は、このご時世にBLではなくJUNEを志向する人には、自分の存在に対する根源的な不安があるのかな、と漠然と思っていた。

 『ぼやきと怒りのマリア』は幸福な作家の記録である。小島氏が茉莉の小説を深く愛し、信頼してくれる編集者でなければ、茉莉がこれだけ赤裸々に自分の創作過程を語ることはできないだろう。

 しかしその根底には、小島氏に見捨てられることを恐れる茉莉の根源的な不安があった。それはJUNEを志向する人に共通する性質のひとつである(かならず持っている性質とはかぎらないと思うが)。

 茉莉の作品は、自分の不安を覆い隠すための虹色を帯びた巻貝の殻のようだ、と思う。巻貝の殻を残せることは幸福なのか不幸なのか。私にはよくわからない。

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