2006.01 TEXT 性を「汚れ」とする感性

■2006.01 性を「汚れ」とする感性


 榎本ナリコ氏の『センチメントの季節』のなかに「降り積む雪」という話がある。以下ネタバレあり。

 援助交際している女子高生が相手のサラリーマンに年下の少年への好意を告げる。が、その少年が同級生の少女とキスをしている場面を見て、援助交際している自分と少年とがつりあわないことに嘆く。そのようなお話である。


 以前私はこの話が好きだった。が、あとでこれは性を「汚れ」とする感性を持っていないとわからない話かもしれないな、と思った。そして、自分にもそれを自明とする感性があることに気づいて複雑な気分になった。

 たしかに彼女は、自分の性を援助交際に利用しており、それを「汚れた」ことと感じている。が、その女子高生の「好き」と少年の「好き」は経験の多寡で一概に測れるものではない。

 性を知るまえの純粋さを信奉する感性は、性を知ったあとの純粋さを否定する感性につながる。

 女子高生を買ったサラリーマンは、純粋だったころの自分で彼女に出会いたかったという願望に気づく。それはサラリーマンが彼女を好きになる瞬間でもある。が、女子高生はサラリーマンの思いにはまったく気づかず、サラリーマンの「好き」は宙に放り出されたままで終わる。

 それは女子高生と年下の少年の関係の反復でもある。 


 最近、野火ノビタ(榎本ナリコ)氏の『君の顔に射す影』を読んで、やはりこの話も性を「汚れ」とする感性が通奏低音になっていると感じた。

 『君の顔に射す影』は男子高校生の三角関係の話である。以下ネタバレあり。


 三和は友人の加藤に好きだと告白する。加藤は以前と変わらない態度で三和とつきあっていたが、三和にほかのクラスの友人・保科を紹介する。保科は三和と同じ(同性愛者)だからと加藤はいうが、それは婉曲的な三和の拒絶でもあった。保科は三和への好意をかくさず、加藤にふられた三和をなぐさめる。

 保科は加藤が三和を好きであることと同時に、加藤が自分の嗜好を受け入れられないことも知っている。保科は加藤に「自分の手は汚さずに 愛だけを受けたかったんだ」と詰め寄る。


 この話は加藤のホモフォビア(自分がホモセクシャルであることを嫌悪する感情)がキーになっている。

 加藤は三和と相思相愛であることを知りながらも自分がホモセクシャルであることを受け入れたくない。だから自分の性癖を受け入れている保科に三和を譲ることで保身を図る。

 が、保科もけっして自分の性癖を素直に受け入れているわけではない。三和が保科を性的に欲しがらないゆえに、保科も三和を好きでいられるのだ。三和が保科を性的に受け入れることで、保科は三和を「汚した」と感じる。


 加藤は三和の心、保科は三和の身体を手に入れる。

 が、ほんとうは保科は加藤のポジションになりたかった。


 保科は加藤に、自分と三和のセックスを見せる。加藤は、セックスが終わったあとの三和に一部始終を見ていたことを告げ、三和を強姦する。

 加藤は、三和の告白を受けるまえのふたりの関係を「たからもののように思っていた」という。

 が、三和に欲情する自分はすでにあのときの自分ではない、と。


 その日から加藤は不登校になり、自分の殻に閉じこもってしまう。

 加藤がしたことは、自分の精神と身体の分離である。性的な欲望を自分から引き剥がし、三和とのセックスを欲しているのは「自分ではない自分」だという。


 加藤はさいしょ、保科にその「自分ではない」部分を押し付けようとした。が、それによって、三和が性的な欲望をもった他者だということに気づいてしまった。

 加藤は、三和を保科に任せることによって、無意識に三和が純粋な人間ではなくなることを願っていたのではないだろうか。意地の悪い見方だが、私にはそう見える。

 純粋さを信奉する人間は、純粋ではない存在には無神経なところがある。

 『すでに汚れているものは汚してもいい』。三和の強姦にはこのような感性が垣間見える。


 三和はあるていど自分の性癖を受け入れている。だから、「お前がしっているオレは本当のオレじゃない」といって、加藤に好きだと告白することができる。

 が、加藤が三和と同じ言葉を口にしたのは、三和を強姦したときだった。三和が知っている純粋な自分が「本当のオレ」で、三和を強姦したいと願う自分は「本当のオレ」ではない。加藤はそう三和に告げる。


 加藤は性を否定する「純粋な自分」と性を肯定する「汚れた自分」を切り離したい。

 あるいは、性的な欲望は三和という他者がもっているものとして自分を免罪したい。

 そうまでしないと、加藤は性という「汚れ」を自分で受け入れることができないのだ。


 三和が加藤を受け入れて赦すことで加藤はようやく自分の性を受け入れる。三和に失恋した保科も性を「汚れ」とする感性をもっているが、かれが加藤とちがうところは、自分よりも他人の気持ちを優先して考えるところである。だから作者も保科に同情心をもっているのだろう。

 加藤は他人に性の「汚れ」を押しつけなければ、自分の性を受け入れることができない人間である。

 私は、性を「汚れ」とする感性を解消しろとまでは言えない。が、加藤には性を自分の「汚れ」として背負う道と、性を「汚れ」としていっさい受け入れない(性交しない)道があったのではないだろうか。

 そのどちらもせずに他人に自分の「汚れ」を背負わせる加藤を、私は安易だと感じる。

 それと同時に、そうすることでしか自分の性を受け入れられない人もいるのではないか、とも思う。


 私が性を「汚れ」とする感性に疑問をもっているのは、それが性を管理する者にとって都合の良い概念だからである。

 性を管理する者は、管理される者(モノ)に、自分がきれいであること、無使用であること、そしてそれに無自覚であることを望む。

 私は、この作品は非常に真面目に書かれていると思う。が、私がキャラクターの葛藤に疑問を感じるのは、それが既存の男権社会を受け入れたうえでの葛藤であるように見えるからである。

 男権社会において、管理される者(モノ)が純粋さを信奉する感性を受け入れると、自分が純粋でなくなったときに自分の価値が下がった/あるいはなくなったと感じる。自分を苦しめる概念を志向するのは、自縄自縛につながる。これは他律的な見方で、自律的な物の見方ができる人にはわからない感性だと思う。

 私は自縄自縛のうえに成り立つ純粋さに疑問を持っている。しかし純粋さを志向する(純粋さを求める話を好む)自分もいて、私はそこに割り切れないものを感じる。

 しかし、安易に自分の性を肯定しても、この社会の概念を変えることはできない。

 自分のなかの性を「汚れ」とする感性をどうするか。それは私がいまだに答えを見つけられない問いである。

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