2002.10 TEXT 神の脆弱な顔

■2002.10 神の脆弱な顔


 王は奴隷を必要とするが、奴隷が王を必要とするとはかぎらない。

 それでは、奴隷に王を必要とさせるにはどうすればいいのだろう。


 『ヨブへの答え』は、旧約聖書の「ヨブ記」のヤーヴェとヨブをめぐる心理分析の本である。

 以下はその心理分析の概要である。


 聖書の「ヨブ記」は、ヤーヴェがサタンに敬虔なしもべであるヨブを称賛するところからはじまる。

 サタンは「ヨブといえども理由なしに神を畏れたりするものですか」といい、結局は自分の利益のために神を信じているだけではないか、という。ヤーヴェはサタンと賭けをする。その内容は、ヨブがどんな境遇に陥っても神を信じることができるか、というものであった。


 ヨブは家畜を奪われ、しもべや子どもたちを打ち殺され、病気で死の淵をさまようことになる。ヨブの妻や友人は間違ったことを言うように仕向けられ、彼の正義は閉ざされる。


 ヨブはみずからの義を主張する。ヨブの友人たちは神を疑うヨブを責める。ヨブは自分の潔白を主張し、ついには神に挑戦することを選ぶ。


 ヨブは神の内的な二律背反を認識する。それによって彼の認識は神のヌミノース(ヌミノーゼの形容詞形。一方では魅惑的であるが、他方では戦慄的な恐ろしい性質のこと)な性質にまで達する。

 ヨブは神を否定したわけではない。が、ヤーヴェは七一節の長きにわたって哀れな犠牲者に世界創造主の力を見せつける。


「無知の言葉をもて

神の計りごとを暗かしむるこの者は誰ぞや?」


 ヤーヴェはヨブの忠誠が揺るがず、サタンが賭に負けたのを見たはずである。それでもヨブを責めるのは、何者かが彼の全能を疑っているという暗い予感があるからである。

 ヨブは抗議をしている間に、彼の義が少しも問題にされていないことに気づいた。ヤーヴェがヨブのことには何の関心もなく、自分のことに夢中であることはあまりに明らかであった。


彼は神の顔を、そして神の無意識の矛盾を、見てしまったのである。神が認識されたのである。(『ヨブへの答え』 P56)


 ヤーヴェは一方では自然災害やそれに似た不可解なことを真似して無茶苦茶に振舞い、他方では愛され、敬われ、祈られ、正しいと称賛されたいのである。

 神は恐ろしい二重性を持っている。訳者解説では、ヨブが見たものは神の暗黒面であり、全知全能で正義と裁きの神であるというふれこみとは似ても似つかぬ、野蛮で恐ろしい悪の側面であったという。


 ヨブは神の暗黒面――神自身が気づいていない悪の側面――を知覚することで神を超えてしまった。彼の被造物が彼を追い越したからこそ、ヤーヴェは生まれ変わらなければならない。その「人間となった神」がイエスである。


 ユングはヤーヴェのことを次のように述べている。


ヤーヴェの性格を判断すると、それは客体によってしか自分の存在感をもてない人格に相当することが分かる。主体が自己反省をせず、したがって自分自身への洞察を持たないときには、客体への依存は絶対である。(P21)


 ヤーヴェの予想もつかない気紛れや破壊的な怒りの発作は昔から有名であった。彼は嫉妬深い道徳の番人として知られ、とくに義に対しては敏感であった。それは古代の王の性質によく似ている、とユングはいう。


 ヤーヴェを人間と仮定すると、かれは境界例、そのなかでも自己愛性人格障害と同じパーソナリティを持っているのではないだろうか。


 境界例とは、神経症と精神分裂病との境界のことで、幼児期の親との分離が親に見捨てられるという不安で困難になった子どもに多く発症する症状である。ジュディス・ハーマン(後述)は、幼児期に慢性的に虐待を受けていたPTSDの子どもが境界例に分類されていることがあるという。

 境界例の特徴は、「見捨てられる」不安による過剰な他者へのしがみつき、不安定で激しい対人関係(自分のすべてを受け入れてくれる味方か敵。その中間がない)、リストカット・自傷行為、感情の変わりやすさ、抑鬱と怒り、など。

 そのなかでも自己愛性人格障害は自分の“特別”さを誇張して他人の過剰な賞賛を求めるという特徴がある。ほかには、対人関係で相手を不当に利用する、他人への共感の欠如、他人への嫉妬(あるいは他人が自分に嫉妬していると思い込む)、尊大で傲慢な行動や態度、など。


 「客体によってしか自分の存在感をもてない」全知全能の存在・ヤーヴェは、“義人”ヨブに、たとえヨブが罪を犯したことがなくても、神が与えるいかなる不条理にも耐えなければならないということを要求する。

 ヤーヴェは「自分のすべてを受け入れてくれる」人間を求めている。人間に完全な自己放棄を迫っている。


 もしヤーヴェが全知全能の神であり、ヨブがかれを裏切らないことを最初から知っていたのであれば、ヤーヴェはヨブを呪いつくしたあとで殺すべきだった。

 この世でもっとも残酷な方法で。

 ヨブが死んだあとでも、神はヨブの忠誠が神のもとにあることを知ることができたはずである。

 しかしヤーヴェはサタンに、「さあ、彼をお前の手にまかせよう。ただ彼の生命は助けてやれ」と告げた。

 なぜヤーヴェはヨブの生命を奪わなかったのだろう。


 ヤーヴェの「暗い予感」は、ヨブにいくら肯定されても払拭されるものではない。

 神の全能を疑っているのは神自身であるが、神はそのことに気づいていないからだ。

 神を裏切ったのは自分自身である。が、神がそのことを知覚することはない。

 「暗い予感」を払拭させるために、ヤーヴェは無意識ではヨブが裏切ることを望んでいる。


 ヤーヴェがヨブの生命を奪わなかったのは、ヨブが神を裏切るまでヨブを呪わなければならなかったからではないだろうか。

 ヤーヴェは、ヨブに神を裏切らせることで、みずからの裏切りを隠蔽しようとする。

 意識的には相手に受け入れられることを望みながら、無意識では相手が自分を裏切ることを望んでいる。

 そうすれば、自分の「暗い予感」は相手の裏切りを察したものであり、「裏切った」相手に自分の正当性を主張することができるからだ。


 なぜ相手を裏切らせてまで、自分の正当性を主張しなければならないのか。

 自分の正当性を信じていないのは神自身であるからだ。

 神は「客体からの称賛」によってしか自分の正当性を認めることができない。

 みずからの疑いに気づくことなく不安を解消させるために、神は人間に神を裏切らせ、その不実さを責めるのである。


 というロジックを今までに何度か使っている。これは依存症のロジックをそのまま使っているだけなので、私のオリジナルの意見ではない。


 自分を認められない者が、自分を承認するために「称賛する他人」を必要とする。

 しかしそれは、自分を認められないのが自分であるということに気づかなければ、他人に延々と承認を求めつづける暴力となる。暴力はエスカレートし、ときには承認を得るために他人を滅ぼしてしまうこともある。

 他人に究極の承認をもとめた自分は、そうすることによって「称賛する他人」そのものを失うことになる。


 「楽器の体温」で引用した川の寓話をくりかえす。川の両岸がたがいの空白を埋めるべく近づこうとすると、川は潰れてしまいもはや川ではない。川の両岸は進むべきか渋滞し続けるべきか。いずれにせよ甲斐のないことではないのか。

 川の寓話は「不可能なことを可能にする方法」を模索している。川が引き裂かれているのは当然のことであり、それを「引き裂かれている」と感じる感性を問題としなければならない。川の対岸をもとめる脆弱さを。「不可能なことを可能にする方法」を求めて積み上げられていく膨大なロジックを。


 「ヨブ記」の神と人の関係は、現在でも配役を変えて上演されている。

 親と子、夫と妻、恋人たち、すべての支配するものと支配されるもののあいだで。


 最初に私は疑問を投げかけた。

 奴隷に王を必要とさせるには?


 奴隷に「自分は王の奴隷だ」と永久に認めさせればいい。


 ある本を読んでいたとき、『ヨブへの答え』を思い出したことがあった。

 長くなるが、以下はその引用である。


 犯人の最初の目的は被害者の奴隷化であると思われる。犯人はこの目的を達成するために被害者の生活のあらゆる面に専制君主のような支配力を行使する。ただ単に言うことをきくだけでは犯人は満足しない。犯人にはどうも自分の犯罪を正当化したいという心理的欲求があるらしい。このために犯人は被害者の側の肯定を必要とする。だから犯人は倦まずたゆまず被害者から尊敬、感謝、さらには愛情の表明を要求しつづける。犯人の究極の目標はどうも自発的な被害者をつくり出すことらしい。人質も政治的囚人も、被殴打女性も、奴隷さえ、監禁者の被害者への奇妙な心理的依存が起こることについて触れている。(『心的外傷と回復』 P113)


 ジュディス・ハーマンの『心的外傷と回復』は、PTSD研究の名著である。ベトナム帰還兵の戦闘神経症と女性のレイプの後遺症が同じ症状であることから、児童虐待や犯罪の被害者の症状・治療などについて書いた本である。


 ハーマンは、人質、政治的囚人、強制収容所の生存者たちが人間の奴隷化について語る報告は気味がわるいほど同じである、という。


 加害者がまず行うことは、断絶化、すべての対人関係からの切り離しである。加害者は被害者を他の一切の情報源、物質的援助、感情的支持から遮断して孤立させようとする。そのうえで加害者は、被害者と人々とのつながりの内的イメージをも破壊しようとする。

 被害者の完全な孤立化。そのあとで行うのが被害者の無力化である。


 恐怖を増大させるには、また、暴力を規則性がなくて予見できない形で爆発させるとか、どうでもよい細かな規則を気まぐれに強制するという方法がある。このようなテクニックの目的は詮じつめれば被害者に犯人は万能であり、抵抗は無益であり、その生死は絶対の服従によって犯人の歓心を買えるかどうかにかかっていることを思い知らせることにある。犯人の目的は被害者に死の恐怖を叩き込むことだけでは足りず、生かしていただいているのをありがたく思えということを叩き込まずにはおかない。家庭内監禁であれ政治的監禁であれ、その生存者は時々、すんでのことで殺されるはずだったが最後の瞬間にまぬがれたと思い込まされるような目に遭ったと述べている。「確実に死ぬはず」を取り消してもらうということを何度かくり返されると、被害者は犯人を命の恩人だと思う倒錯に陥ってしまう。

 恐怖を起こさせるだけでなく、犯人は被害者の自立性の感覚を粉砕しようとかかる。そのためには被害者の身体とその働きとを細々と詮索した上でこれを支配すればよい。犯人は被害者が何を食べるべきか、いつ眠るべきか、いつトイレットに行くべきか、どういう服を着るべきかまでいちいち監督し指示する。被害者に食物、睡眠、身体の運動などを許さないコントロールは身体の障害を起こさせる結果になる。しかし、被害者の基本的な身体的欲求を適切に満たしてやる場合でも、この身体的自立性への攻撃は被害者に恥辱感を生み、その士気を打ち砕く。(『心的外傷と回復』 P116)


 被害者は孤立してゆくにつれてますます犯人に依存的となる。脅えがひどければひどいほど、被害者は許されている唯一の人間関係にしがみつきたい誘惑に駆られる。他のものの見方がないところにいる被害者はどうしてもそのうちに犯人の眼をとおして世界を眺めるようになるだろう、とハーマンはいう。


被害者の心理的支配の最終段階は、被害者がみずからの倫理原則をみずからの手で侵犯しみずからの基本的な人間的つながりを裏切るようにさせてはじめて完了する。これはあらゆる強制のテクニックの中でもっとも破壊力の強いものである。屈服した被害者は自己を嫌悪し憎悪するようになるからである。脅迫下の被害者が他の者を犠牲にする行動に加わるのはこの時点であり、ここで被害者はほんとうに「背骨が折れる」(『心的外傷と回復』 P126)


 被害者が加害者に好意をもつ精神状態を「ストックホルム症候群」という。

 1973年にストックホルムの銀行に強盗が押し入ったとき、監禁される時間が長くなるにつれて、人質に取られた被害者たちが自発的に犯人に協力したり、犯人に好意を持ったりするようになったという。


 加害者への同一化、ということは、継続的に虐待を受けている子どもが示す逃避行動のひとつである。虐待の被害者であった子どもが大きくなってから加害者へ転じるときには、これらの症状が影響していることがあるという。


 長々と人間の奴隷化の方法について引用したが、この方法は、「被害者が加害者の奴隷化を拒んでいる」ことを前提として成り立っている。

 が、もし被害者が加害者の行動をすべて受け入れていたとしたら、この方法はどうなるだろう。

 完全な自己放棄は、究極の恋愛のようにも見えるのではないだろうか。

 奴隷化=自己放棄、であるから、当然といえば当然のことなのだが。


 セックスという行為が受け身の愛情ひとつで「合意の上での行為」か「強姦」になるように、加害者の行為もまた、被害者の愛情ひとつで「同一化」か「奴隷化」になる。

 前述の「人間の奴隷化」の引用を被害者に加害者への愛情があるものとして読み返してみると、それは受け身の人間の完全な自己放棄の方法、完全に他人の意識と同調する方法であるようにも見える。

 加害者との完全な同一化。

 それは「対立物との結合」という、けっして起こりえないことを叶える、究極の詐欺の方法である。

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