2001.09 TEXT 残酷な楽園
■2001.09 残酷な楽園
これは中島梓氏の『タナトスの子供たち――過剰適応の生態学』の部分的な書評です。
あと、この雑文はサイト『蜜の厨房』の「BBSやおい夜話」の第二夜『タナトスの子供たち――過剰適応の生態学』の「(6)やおいは騙しである」の意見に自分の意見を付け足したものなので、オリジナルの意見ではないことを最初にお断りしておきます。非常に面白い対談なので、最初にやおい夜話をご覧になることをお勧めします。
※2018/06/12追記
『蜜の厨房』は2018年現在閉鎖されています。
『蜜の厨房』はやおい評論の草分けのサイトであり、私はこのサイトから多大な影響を受けておりました。
いつか復活されることを望んでいます。
□中島氏とフェミニズム
『タナトスの子供たち』を読んだときに疑問に思ったことがありました。
なぜ中島氏はフェミニズムを軽視するのだろうか、ということです。
中島氏がフェミニストを批判している部分を要約すると、こんな感じになります。
日本のフェミニストたちは「男権社会」を仮想敵国として攻撃しているが、男性にも外見で選別されるなどの抑圧が生じており、女性だけの抑圧が存在しなくなった以上、その攻撃はすでに時代遅れになっている。
フェミニストと栗本氏の違い。
男権社会・家父長制という現実を変えようとしたのがフェミニストで、虚構のなかで現実を変えることで男権社会に抗議したのが栗本氏だった。
方法論は違っても目的は同じであるフェミニズムを、中島氏はなぜ批判するのでしょうか。
フェミニズムが「役に立たなかった」かどうか、私には判断する能力がありません。が、トップダウンで社会制度を変えようとする思想よりも、草の根の活動から社会を変えようとする思想のほうが成果を上げているのではないかと思います。
しかし、中島氏のやおい少女の定義は、強力な男権社会に逆らうほどの強烈な自我と能力をもたず、社会に選別されることに傷ついた「弱々しい少女」という、強者の男性と弱者の女性というフェミニズムの見方をそのまま踏襲しています。
そして、その「やおい少女」には中島氏は含まれていないようなのです。あるいは昔は「やおい少女」だったが、いまは違う。その根拠はのちほど述べます。
中島氏はなぜフェミニズムを軽視するのだろうという問いに、私は答えを出すことができなかったのですが、その問いの答えがサイト『蜜の厨房』の「BBSやおい夜話」の以下の発言にあったのです。
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この本、男権社会・消費社会を批判するかにみえて、実は批判なんて少しもしていないんですね。「少女が生きにくい原因は男権社会と消費社会のせいである、でも私はそれを批判しない」というスタンスが、タイトルにまで及ぶ矛盾の原因なんじゃないかと思うんです。
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タイトルの矛盾というのは「タナトス」と「過剰適応」の矛盾のことだそうです。社会が「滅びてなにがいけないの」という論理と、消費社会を「売りまくり買いまくる」過剰適応で発展させるという論理の矛盾。
そして、中島氏が男権社会を批判しない理由は、
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中島さんは(中略)男権社会の構造から恩恵を受けてて、あまつさえそれを自慢にしている「名誉男性」
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だからです。その根拠は、『タナトスの子供たち』の以下の文章にあります。
まあ栗本薫のごとく、本当に圧倒的パワーを持ってますと、旦那さんを奥さんにして家事をやらせちゃう、という大逆転ケースにまで到達してしまうんですが(大爆)(P51)
「夫を『妻』にする」ことは、男権社会・家父長制に適応しないことではありません。
立場が逆になっただけで、弱者を奴隷にする家父長制を迎合していることに変わりはないからです。
「名誉男性」というみつさんの言葉は本当にその通りだと思いました。
中島氏はマジョリティの権力側に移ってしまったのか、自分が「やおい少女」とは違うということを主張したかっただけなのか。『タナトスの子供たち』は天狼パティオの連載の体裁を取っているせいか、前作の『コミュニケーション不全症候群』よりも論旨が渾沌としている印象があります。
□依存症としてのやおい
私は百鬼夜行に突っ込むような気分で『タナトスの子供たち』を読み返しました。
突っ込みたくなる箇所も納得できる箇所もたくさんあるのですが、それは後日また書いていこうと思います。
今回とりあげるのは、私がもっとも違和感を感じた箇所のお話です。
中島氏は、ヤオイは「二人ひと組のディスコミュニケーション」(P66)であり、読者を巻き込まない安全な共同幻想であると述べています。そして「もっとも無害でもっとも強烈で、しかももっとも安全でもっともよくできた麻薬、もっとも安全な依存症、もっとも現代の女性にフィットした現実を受入れるためのドラッグ」(P203)であると述べています。
ちなみに、中島氏が「もっとも安全で無害な依存症」と述べたのは、「ディスコミュニケーションのファンタジー」である「現在のやおい」のことで、「コミュニケーション」が存在していた「栗本薫のヤオイ」ではありません。
そして、「私は「依存症」というコトバを、わるい意味ではまったく使っていない」(P203)、「私は「依存症」というものを、実は必ずしもわるいものだとは思っていない。どころか、どちらかというと「いいもの」としてとらえています。」(同)とつづきます。
この後、中島氏はアメリカの依存症への恐怖感についての批判をはじめます。長いですが、以下はその批判の引用です。
実は、日本人たる私がなんともいえぬほど不思議な感じがしたのは、「なんだってそんなに**しすぎちゃいけないわけ?」ということでした。どうして買い物しすぎてはいけないか? むろん、クレジット・カードで破産するのは困ります。食べ過ぎてはいけない、これはもう、肥満に悩むアメリカ女性にとっては大変な問題なのでしょう。アルコール、これは日本でも大問題。男性依存症、恋愛依存症、セックス依存症、いずれもたしかに人生をめちゃくちゃにするには違いない。でも、「なんで、そんなに人生がめちゃくちゃになったら困るんだろう」(P205)
結局のところこれらのクイック・フィックス依存症脱出本(『愛しすぎる女たち』『買い物しすぎる女たち』等)には、どうも「人生とはなにか」という根本の洞察がその、いささかアメリカ的に欠落しているような気がする。(P206・カッコ内深緑注)
人間であるというのは、依存症であること。そう思ったっていいんじゃないでしょうか。(P207)
「依存症であってもいいじゃない」という理由として、中島氏は、
『ジェットコースター・ロマンス』とか『愛しすぎる女たち』などを読んでると、「でもなんで、こんなドラマチックで楽しい人生をおくってはいけないんでしょうか」という、とっても不思議な気持がする(P209)
ということを挙げています。
クイック・フィックス。依存症の元となるもの。
アルコール・食べ物・恋愛・セックス・買い物。ここで挙げられていないものでは麻薬・ギャンブルなど。
中島氏がおっしゃるところの「人生とはにか」という洞察の欠落というのは、その対象が「依存症」ではなくて「マニア」であれば私は正しい意見だと思います。
「依存症」と「マニア」の違い。
「依存症」は依存する対象そのものを必要としているのではないのに対し、「マニア」は依存する対象そのものを必要としているということです。
「マニア」とは私が仮につくった概念ですが、「マニア」はアルコールや恋愛そのものを楽しむことができ、それを深く必要とする人たちとします。その「マニア」を「依存症」として批判することが「人生の深い洞察に欠ける」というのであれば、私はその通りだと思います。
でも、「依存症」が「ドラマチックで楽しい人生」というのは違うのではないでしょうか。
文中にも挙げられている齋藤学氏の本によると、依存症は以下のような特色をもっています。
依存症の根底にあるのは、、自分に自信がないこと、自分のパワーが認められないことであり、かれらは自分の力を確認するために依存する対象を必要とします。アルコール・食べ物・恋愛などは、依存する対象やまわりの人々をコントロールするための道具です。それらをコントロールすること(コントロールしようとして挫折をくりかえすこと)でその人は自分のパワーを確認しますが、それらが本当に自分の心を満たすことはありません。アルコール・食べ物・恋愛は一時的に自分を満たしてはくれますが、本当の自分の力ではありません。だからかれらは何度も同じ行為をくりかえすのです。
依存症は、依存する対象(アルコール・食べ物・恋愛など)によって永遠に満たされることはありません。
私は、依存症の人々が「満たされる快感」と「満たされない絶望」をジェットコースターのようにくりかえす人生を「ドラマチック」だとは思いますが、永遠に満たされない人生を「幸せ」だとは思いません。
依存症の人間のまわりには、かなりの確率で「依存症を支える人間」や「被害者」が存在するといいます。
依存症の人間によってコントロールされた人間。それが広義のAC(アダルト・チルドレン)です。
中島氏が依存症を「いいじゃないの幸せならば」と評しているのを読んだとき、私はふたつの疑問を持ちました。
永遠に満たされない依存症であることが、どうして幸せなのか。
『終わりのないラブソング』の作者が、どうしてアダルトチルドレンを作りだす原因である依存症を肯定するのか。
中島氏は依存症を認める理由として、「いいじゃないの幸せならば」というマイノリティの意見が、「健全でなければならない」というマジョリティの意見に押しつぶされている、ということを挙げています。
私は、かならず「健全でなければならない」という思想が全体主義的であるという意見は理解できるのですが、「依存症」が「人生がめちゃくちゃになっても本人が幸せならよいこと」だということが理解できないのです。
依存症を本人がほんとうに望んだのであれば、それでいいのかもしれませんが(周囲にアダルトチルドレンを発生させてしまうという問題は残りますが)、永遠に満たされない「依存症」が満たされるときの強烈な快感を「幸せ」というのは、
――それは餓鬼であることを認める思想ではありませんか?
□過剰適応→タナトス
餓鬼であることを認める思想。「依存症」であることは、本来は現在の消費社会に則したものであると中島氏は指摘しています。
中島氏は、現在の社会は「選別の論理」「商業主義の論理」「自由競争社会の論理」を押し付けてくる全体主義的な社会であると述べています。
そのなかで人々はなんらかの依存症であることを求められている。
これほどまでにいまの私たちの社会が「正常であること」「依存症でないこと」を称揚するのは、私たちの社会が日本のみならず世界的に――といってもいわゆる西欧型の文明をもつ《先進国》というやつだけですが――「何が正常であるのか」を見失うほどに万事において過剰となり、はてしなく膨張をくりかえさなくてはならなくなり、暴走しはじめているからこそではないでしょうか。(P255)
中島氏はやおい少女が「AC(アダルトチルドレン)」、虐げられた少女であると述べています。そして、社会の歪みを無意識に察するほど鋭敏ではあるが、何千年もつづいてきた男権社会に対立するほどの強い自我と能力をもっていない存在であると。
私は中島氏が指摘されるほどやおい少女が傷ついた存在であるとは思いませんが(個々の性格や経験によって違うのでは)、現在の男権社会・家父長制になんらかの違和感を持っているのではないかと思います。
中島氏は、やおいは「性愛の自給自足サイクル」であり、もっとも無害な依存症であるがゆえに、《もっとも個人的な革命》でもあったと述べています。
やおいは「生殖できない愛」であり、種や血統を残す繁殖を拒否することで社会へのタナトスをあらわしている。
中島氏の「依存症であってもいいじゃない」という考えは、「もっとも無害な依存症であるやおい依存症であってもいいじゃない」ということだと思います。
中島氏は、社会に虐げられたやおい少女がやおいに「依存症」になることで社会に「過剰適応」した存在になったと述べています。拒食症の少女たちが社会に「過剰適応」した存在であるのと同じように。
社会に「過剰適応」すること。みずから「商業主義の論理」に組み込まれ、過剰に消費をくりかえすことによって、社会を暴走させ崩壊させること。それが中島氏が言うところの「タナトス」なのでしょうか。
□免疫としてのやおい
中島氏は、あとがきで天狼パティオで行われた議論のKさんの発言を掲載しています。
社会というものは目障りな現象を拡散させ、受入れてうすめてゆくことで免疫を作るのではないか(P353)
Kさんの発言は、非常に薄めたウイルスで免疫をつくることで、毒性の強いウイルスを排除する、この免疫が「現在のやおい」ではないか、というものです。
中島氏もP341から342で同主旨の発言をしていますが、これは非常に鋭い発言だと思います。
「現在のやおい」は社会に認知されない状態でマーケティングに取り込まれ、小説や漫画・ドラマなどの消費を亢進させる装置のひとつになっています。踊らされている人間が言うことではないですが。
そして「現在のやおい」にはもうひとつの利点があります。
やおいは男権社会に意識的・無意識的に不満のある読者を癒す鎮静剤になりますが、同時に不満を癒してしまうことで男権社会を存続させる緩衝材にもなります。
男権社会への不満を癒してしまうことで、現実への不満を失わせる。男権社会を存続させる道具になるのです。
依存症であるやおいは読者を癒しますが、決して根底から読者を癒すことはありません。読者の不満が癒されても、社会が変わることはないからです。根底から癒されない読者はふたたびやおいを手に取ります。
こうして「強い毒性」社会への不満をもっていたやおいの読者は、「薄いウイルス」やおいによって毒性を薄められ、社会に取り込まれていきます。あらたな消費の担い手として。
以上の文章をまとめると、このような意見になります。
最初は家父長制の資本主義社会・自由競争社会への抵抗によって生まれた「栗本薫のヤオイ」が、社会の免疫機構にとりこまれ、社会への不満を麻痺させる麻薬「現在のやおい」になった(中島氏は、「栗本薫のヤオイ」は最初に社会にぶつけられたタナトスであるから、それは社会に反抗するためのアナーキズムたりえたと述べています)。
しかしそれは社会の免疫機構にとりこまれ無力化した別物になってしまった。その別物は個々の「依存症」のように社会を過剰に促進させ内側から社会を滅ぼしていく癌細胞のようなものであった。
「依存症」であり「過剰適応」の少女たちは、男権社会の消費社会を「早回し」することで社会を崩壊させる「レミング」の先鋒となります。
「現在のやおい」は弱者が強者に反抗するアナーキズムなのか。
滅びに無自覚な「レミング」の群れ。それは永遠に増殖することで宿主を滅ぼす癌細胞のようなもので、自覚的な社会への反抗ではありません。
しかし中島氏は「現在のやおい」の依存症ではないので、やおい少女が「レミング」であることの予言者であり、「レミング」そのものではありません。
中島氏は「現在のやおい」を「依存症であってもいいじゃない」と認めることで、「レミング」を先導し社会を溺れさせていくのでしょうか。
「レミング」の群れとともに。
□もうひとつの可能性
ここまで中島氏の「依存症」→「社会への過剰適応」→「タナトス」という過程を見てきましたが、中島氏がここで示さなかったもうひとつの可能性があります。
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この本、男権社会・消費社会を批判するかにみえて、実は批判なんて少しもしていないんですね。「少女が生きにくい原因は男権社会と消費社会のせいである、でも私はそれを批判しない」というスタンスが、タイトルにまで及ぶ矛盾の原因なんじゃないかと思うんです。
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BBSやおい夜話の発言のくりかえしになりますが、中島氏が直接男権社会を批判している箇所はあまりないように思います。
中島氏は、
「男性社会のなかで敗者である男性」というのが、「女性に対して勝者」となることで自分の立場を確保しようとする。(中略)ひとを圧殺し差別化することによってはじめてかれらは自分の位置というもの、自分の居場所というものを確保しているわけなのです。(P132-133)
と述べていますが、男性も抑圧され差別されている、資本主義社会の競争原理によって生きにくくなっているという理由で男性を直接批判しようとはしません。
ダイエットに使われる先進国の費用が、発展途上国の飢えた人々を救う費用の額を越えていることが「異常」だという指摘はありますが、「ダイエット」をするな、「依存症」になってはいけない、というような、消費社会を直接抑止する言動は見られません。
さきほど読んでいた本のなかで、「西側先進国で遣われるダイエット用品の毎年の売上は、世界の飢餓を救うのに必要な金額を超えている(中略)……こんな状況下では、真の問題は、なぜある少女が拒食症になるかではなく、なぜもっと多くの少女がならないのか、だといわざるをえない」という文章がありました(筑摩書房刊『世界を食いつくす』ジェレミー・マクランシー著・菅啓次郎訳)。これがどれほど狂気じみたことか、私がここでいってもたぶんあなたはかたむける耳ももたないでしょう。(P255)
この後中島氏はこの世界そのものがクイック・フィックス依存症であり、ヤオイ依存症というのはこの世のすべての依存症のなかでもっとも「無害」な依存症である、と述べています。
本来このあとへつづく文章は、「だから拒食症やダイエットはおかしいのだ」「消費の不均衡や差別を起こす過剰な「資本主義」「自由経済」がおかしいのだ」、ということではないでしょうか。
『小説道場』で中島氏は、やおいは「いつかは卒業しなければならない」サナトリウムの物語と言っておられたのではないでしょうか。
そして「弱者」が「強者」をくつがえすアナーキズムを失ってはならない、と。
なぜ中島氏はやおい少女に「世界を自分の意志で変える」方向性を提示しなかったのでしょうか。
それがまさに中島氏が「時代遅れ」と称したフェミニズムが試行錯誤している方向性であり、フェミニズムも明確に答えを出せずにいる男権社会をくつがえす理論を中島氏が提示できないからではないでしょうか。
家父長制や資本主義・自由競争社会にかわる強力な理論は本来フェミニズムの範疇を超えたものであると思います。なのでその理論を提示することは非常に難しいことでもあります。
私たちができることは、男権社会をくつがえす理論を考えることよりも、もっと草の根的な活動のような小さいこと、社会の違和感を生活のなかで「これはおかしい」と考えつづけること、主張すること、ではないでしょうか。
頂点から強力に世界を変えていく理論よりも、底辺からすこしずつ世界を変える理論を積み上げていくこと。
本来やおいは「依存症」になって世界を滅ぼしていくものではなく、「世界」を変えることを考える契機を与えてくれるものではなかったでしょうか。
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