第6話 グランディアHDコレクション(Switch)

「冒険」。その言葉がこれ以上似合う作品を、俺は知らない。


 一九九七年、そのゲームはセガサターン用に発売された。発売元はゲームアーツ。スクウェアとエニックスの二強時代の中、見事な一石を投じたその作品と会社名は、今もなお語り継がれている。


 そのゲームソフトの名は『グランディア』。言わずもがな、RPGの名作である。


 俺は、新型Switchでプレイするゲームの二作目に、その懐かしき作品を選択した。


「ダウンロード版」や「アーカイブ」という言葉がゲームの世界に流通して久しいが、これまで俺には馴染のないものだった。完全なるパッケージ派であったためである。データのみという不安定な商品など、到底信じることができなかった。


 インターネットストアでは、最新作から過去作まで、実に様々なゲームデータが並ぶ。Switchだけではなく、PS4でもそれは同じだ。過去の良作が手軽に、しかもセールなどのタイミングでは、安価で購入することができる。


 ケチな俺にとっては嬉しい限りなのだが、どうにも受け付けなかった。どうせ買うならパッケージで購入し、手元に置きたい。昭和のゲーマーには、きっと共通する感覚だと思う。


 しかしながら、現代では「ダウンロード専用」というものがあり、そもそもパッケージ版が発売されないことがしばしばあるのだ。過去作品のデジタルリマスター版などに多く、ドラクエやFF、ロマサガなど、魅惑的なタイトルに心惹かれることもあった。


 それでも俺は、SFCなどの互換機で原作を楽しむことで、その誘惑を振り切ってきた。中には追加要素がある作品なども存在したが、見て見ぬふりをしてきた。


 だがここで、その状況が一転したことに俺は気づく。


 今、俺の家には、新型Switchがあるのだ。その意味は、ただ単にSwitch用のゲームがプレイできるというだけではない。


 今更ではあるが、ニンテンドーSwitchはその名の通り、テレビ接続と携帯ゲームを自由に切り替える(スイッチする)ことができるのである。つまりは、これまでテレビ画面という巨大な物体によって拘束されていたゲームのプレイスタイルから、解放されるだけではなく、気分や状況によって、大画面と携帯機を選択することができるという、画期的な発明なのだ。


 携帯ゲームがしたいというわけではない。それなら、これまでもゲームボーイやDSなどがあったし、それこそスマホ版をプレイすれば良い。だが、元々遺伝的に悪い上に、ゲームやパソコンなどで酷使され、加齢も重なったこの目には、もうあれらの画面は小さすぎるのだ。それを俺は「目を自殺させる」と表現している。まだ爼倉にしか言ったことはないが。


 ともあれ、その選択可能なプレイスタイルと「アーカイブ」による過去の名作が融合した時、世界は変わった。それは「夢が夢でなくなった」とさえ言えるくらいの大事件である。


 ドラクエが、FFが、ロマサガが、聖剣伝説が、そして『グランディア』が、寝ながらでもプレイできる。それはあの頃の俺たちの夢であり、不可能の代名詞でもあった。


 購入に迷いはなかったが、一度は抵抗した。念のためパッケージ版の存在を確認してから、ダウンロードした。


 この『グランディアHDコレクション』には『グランディアⅡ』も含まれているが、正直『グランディア』だけでも購入しただろう。それだけ、あの頃の思い出は強い。


 一九九七年と言えば、俺は思春期真っただ中だったが、アニメ・声優オタクだったこともあり、周囲の同級生より相当に幼かった。背が低く、小太りで、顔も整っていないため、恋愛に対しても悲観的で、画面の中の世界に救われていた部類の人間だった。


 そんな俺を通しても『グランディア』はやや子どもじみていたような印象があった。それはおそらく、主人公のジャスティンと、幼馴染のスーによるものだろう。


 伝説の光翼人をめぐり、世界を冒険するという大まかなストーリー、壁の上から見た「外の世界」、そして一部のキャラクターの幼さ。それが、俺の中に残っていた『グランディア』の欠片だった。


 そのように言えば、大したことはないと思われるかもしれない。だが、その中の「冒険」という欠片は、先に挙げた幼い印象を遥かに凌駕する。もしそれに形があったのなら、山に祀られるレベルの巨石と道端の小石くらいの差がある。そう言っても過言ではない。その冒険は、他のRPGに比べても、圧倒的だったのだ。



 物語はまだ序盤。亡くなった父と同じ「冒険者」を目指し故郷の町を出たジャスティンとスーが、船上でヒロインのフィーナと出会い、新しい大陸に降り立ったところだ。


 ここまでですでに、予想よりも長く感じてしまっていた。欠片の一つである「壁の上」はまだまだ先のように思えた。当時は先駆的だった戦闘システムは、少々面倒にも感じた。


 年齢を重ねて『グランディア』に対峙することに、若干の怖れがあったことは否定できない。


「あの頃」の想いが強すぎることと、それをあまりにも長く寝かせてしまったことが原因だ。ドラクエⅢやⅤなどのように、移植されたものを全て、しかも何度もプレイするようであれば、短期的にその作品に触れることができるため、想いが異常肥大することはない。


『グランディア』も後にPSに移植されたが、手を出さなかった。理由は覚えていない。おそらく移植された一九九九年当時は、まだ家のセガサターンも現役だったので、買う必要がなかったのだろう。


 ストーリーは、まだ世界の異変や危機といったシリアスさは表に出ず、新しい大陸での冒険に心を躍らせるジャスティンと、おしゃまなスーの掛け合いが続く。


 俺の中にはすでに、それを飛ばしてしまいたいという感情が生まれていた。


 購入時に脳裏を過った若干の不安は、やはり当たっていた。


 俺はもう「あの頃」のように、この「冒険」に胸を躍らせる純粋さを失ってしまっている。


 当然だ。あれからもう、二十五年も経っている。四半世紀も変わらなかったら、それこそ異常だ。大冒険だと思っていた物語は、少しだけちっぽけに感じるし、タウンフィールドとダンジョンフィールドのみで構成されていることには、狭苦しさも感じる。


 あの頃と体格はさほど変わっていないが、年月を経て俺の中に蓄積された様々な経験がそうさせるのだろう。だがその変化を「成長だ」、「世界が広がった」などと、一言で片づけてしまうことには、抵抗がある。本当に俺は「成長」したのだろうか。本当に俺の「世界は広がった」のだろうか。見えにくくなったもの、感じにくくなってしまったものが、たくさんあるのではないか。「成長」し「世界が広がった」はずの俺の中に燻る、この自分に対する若干の落胆と淋しさは、一体何なのだろう。


 新しいゲームに馴染めずに、レトロゲームに手を出し、懐かしい作品をたくさんプレイした。それで分かったことが二つある。


 一つは、今回のように「あの頃の自分」の消失に気づいてしまうこと。


 もう一つは、語り合える友人の存在が、想像以上に大きい要素だということだ。


 同居人の爼倉尊宣は年下ではあるが同年代なので、レトロゲームについては話が合う。一人でプレイするのも楽しいのだが、あれやこれやと当時を振り返って会話をしながらプレイすると、その楽しさは倍増する。


 だが、そうではない場合、一人ではモチベーションを保つのが難しくなる。


 爼倉は『グランディア』を未プレイだった。


 所謂初見であった彼の眼には、やはり序盤のキャラクターに幼い印象を受けたようだ。


 八歳の女の子であるスーは、戦闘ではかわいらしいリズムと掛け声で踊り、全体のHPを回復してくれるのだが、爼倉はその真似をして、馬鹿にするのだ。


 そのことに、俺は憤慨することはない。未プレイ者には伝わらないことがあるというのは、これまでの経験でもわかっている。ただ少し淋しく、やる気が削がれるというだけの話だ。


 怒ることもないが、反論もしない。いや、できない。『グランディア』はそういうものではないのだと、素晴らしい作品なのだと、伝えたいのに、知っているはずなのに、そうできない自分が、あの頃の熱意がもう自分の中にないことが、淋しく、そして悲しい。


 一瞬だけではあったが、爼倉が知らない作品を自分が知っていることに、愛したことに、妙な優越感を得ることもできた。だが、それも無理やりの言い訳にすぎず、慰めにもならないものだとわかっている。



『グランディア』は確かに幼い。序盤は大冒険に憧れる主人公が能天気に突っ走っていく。やがて、世界を左右する大きな陰謀に巻き込まれ、挫折と絶望を味わいながら成長し、最後には、世界の命運をかけた戦いに挑む。


 詳細は忘れてしまったが、大まかにはそのようなストーリーだったはずだ。まさに王道である。


 そう、それが王道だったはずだ。


 無理に、序盤からシリアスである必要などない。


 十四歳のジャスティンと八歳のスーが、不自然に大人びている必要もない。


 そう思ってみれば、最近のRPGは主人公がやたら冷めていて、よほどのこと(演出)がないと動じず、淡々と冒険を進めていくことが多いような気がする。


 ストーリーも、序盤からシリアスな展開で、必要に迫られて旅に出るといったことも多いかもしれない。それはそれで王道と言えるのだが、逆に『グランディア』のような始まりは、稀有な存在とも言えるのではないだろうか。


 俺はこの作品のプレイを急いているが、それは決して早く終わらせたいからではない。この先の冒険を、彼らの成長を、強力な術技を、強大な敵との戦闘を、楽しみにしているからだ。


 そして、確認するためだ。『グランディア』は、やはり偉大な作品だったと。


 同居人にわかってもらえず、たった一人で、変わってしまった自分との対峙しながらのプレイは、純粋に作品を楽しむこととは程遠いものかもしれない。


 それでも、確実にエンディングまでプレイする。それはもう分かっている。

どうしても、俺はまた会いたいのだ。


『グランディア』を素晴らしいと心から感じていた、あの頃の自分に。

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