第6章 秘められた遺書

 私たち三人は、丸柴まるしば刑事なじみのラーメン店の暖簾のれんをくぐった。ラーメンだけでなく、丸柴刑事おすすめの餃子二皿も注文した(ひと皿は丸々理真専用だ)。私は宣言どおり味噌ラーメンを。丸柴刑事はあっさり塩ラーメン。理真は、「ワンタンと餃子が被るだろ」という私の忠告を無視して、大盛ワンタン麺を平らげていた。

 満足のいく昼食を済ませると私たちは、事件当日ステージ裏の通用口の番をしていた人物に話を訊くべく、南区にあるホールに向かった。


「ああいったコンサートの裏方なんかは、ほとんどがアルバイトで、そういう仕事を専門に扱う業者があるそうなの」


 丸柴刑事が言う間に、覆面パトは目的地である文化ホールの駐車場に入った。

 正面玄関に入ると、ひと昔前に人気を博したフォークソング歌手の公演ポスターが貼り出されている。今夜にここで、この歌手のコンサートが開かれるのだ。今日は平日だが、この歌手の客層は、恐らく時間的な余裕があるお年寄りがほとんどのため問題はないのだろう。その会場設営などの裏方仕事を請け負ったのが、ジーリオンの公演を担当したのと同じ業者で、そのときのアルバイトメンバーの多くが、ここでの仕事にも当たっているという。

 担当者に声を掛けると、すぐに目的の人物に話を訊かせてもらえることになった。



「どうも」と頭を下げながら、二十代半ばくらいの男性が部屋に入ってきた。会社名の入ったグレー色をした薄手のジャンパーを着ている。私たちと対面する席に座ると、さっそく理真りまが、事件当日のことを話してくれるよう頼んだ。


「僕は会場の外にいたので、事件が起きたことには気が付きませんでした。あのホールは防音がしっかりしているので、ロックバンドのような大音量を出す公演でも、外まで音が漏れてくることはほとんどないんです。何か起きたのを知ったのは、救急車とパトカーがサイレンを鳴らして走ってきたのを見たからです」

「あとから、犯行の起きた大体の時刻を聞きましたよね。その時間帯にステージ裏に出入りした人物はいましたか? 怪しいか怪しくないかは問わずにです」

「いえ。公演が始まると、ステージ裏の通用口が使われることはほとんどありません。誰も出てくることも入ってくることもありませんでした」

「そうですか……では、公演が始まる前はどうですか?」

「それは、色々な人が出入りしますよ。バンドの関係者や、僕たちのようなバイトまで」

「出入りが可能な人物というのは、どうやって見分けているのですか?」

「基本的に、首に提げた関係者パスがあるかどうかです。それと、僕らのようなバイトであれば、この」と男性は自分が羽織った上着を引っ張って、「ジャンパーを着ているかどうか、ですね。バイトひとり一人にまで、いちいちパスが配布されたりはしませんから」

「バイト同士であっても、顔で判別することはないのですか?」

「ええ。というのも、こういったバイトは、業者に登録されたメンバーの中から、当日に働きたいと応募してきた人が先着順で採用されていくので、毎回同じ顔合わせになるとは限らないんですよ。中には、正職に就く間の繋ぎとして、数日だけ働いてそれで終わり、なんていう人もいますから。ジャンパーだけがバイトを見分ける手段だと言ってもいいですね」

「なるほど。それで、公演前にステージ裏に出入りしたのは、間違いなく関係者とバイトだけだった、と」

「ええ……」


 男性の歯切れが悪くなった。理真もそれに当然気付き、


「何か、怪しい人が出入りしていたのですか?」

「いえいえ」と男性は顔を横に振って、「そういうことではないんです。でも、バンドの関係者の中には、面倒くさがってパスを持たずに外出する人もたまにいるんです。僕ら、基本的に出て行く人間はノーチェックですから。あくまで不審人物の会場内への侵入を阻止するというのが仕事なんで。だから、そういう方が帰ってくると、当然ですがパスを持っていないわけです」

「道理ですね。そう言う人に対しては、パスがないと会場内には入れません、と足止めするわけですか?」

「いえいえ」また男性は大きく首を振って、「一応、パスをお持ちですか? と訊きはしますけれど、向こうも『関係者です。パスは忘れました』って言うだけなので、結局普通に通しちゃうわけです」

「パスの意味がありませんね」

「ええ。でも、仕方ないんですよ。僕らは下請けで、バンドの関係者に大きく出るわけにはいかないですから。そこで職業意識を強く持って、『パスがなければお通し出来ません』なんて意地を張ったりしたら、『あのバイトは何だ』って上に文句が行って、会社や僕らが怒られるだけですから。暴力的な制裁を加える人もいるそうです」

「そういうものなのですか」

「そういうものです。異様に上下関係が厳しくて、体育会系のやり方がまかり通ってる業界ですから。下請けは絶対服従ですよ。無用ないさかいを避けるため、今言ったような対応は、僕だけじゃなく、バイト全員に徹底周知されていますよ。とにかく関係者の機嫌を損ねるな、どんな理不尽な言い分も黙って聞いておけと。バンドの関係者にとっても、僕らバイトなんて空気みたいなものですから。いい意味でじゃないですよ。目に入ってさえいないんでしょうね。会社から、関係者と廊下ですれ違ったりするときには挨拶するように、と言われてはいますけれど、こっちが挨拶しても向こうは目も合わせないで無視、なんてことはざらですよ」


 何だか大変な仕事なんだなあ。華やかに見える芸能業界の裏側を垣間見た気がした。


「では」と理真は質問を再開して、「パスの所持非所持はともかく、当日、出て行った人と戻ってきた人の勘定は合っていたということですか?」

「そこまで把握していません。外出して会場に戻るのに、同じ出入り口を使う人ばかりじゃありませんから」

「つまり、まったくの部外者が、パスを忘れた関係者だと偽って入ろうとしても……」

「ええ、黙って通すしかないわけです。僕はステージ裏の通用口担当でしたけれど、他の関係者出入り口の番をしていたバイトも同じだったはずです」



 ホールから帰る車中、ハンドルを握る丸柴刑事は、


「容疑者の幅が広がる一方ね。関係者面してステージ裏に入り込んで、犯行後どさくさに紛れて会場を逃げだしても、誰にも気付かれないわよね」


 そう言ってため息をついた。後部座席から私は、


「犯人は被害者とは何の面識もない、殺害動機すら持たない、ただの愉快犯だという線もあり得ますね。たまたま改造拳銃を拾ったから、面白半分にコンサート会場でボーカルを射殺するという劇場型犯罪を思いついて、実行しただけとか」

由宇ゆうちゃんの説も一理あるかもね……理真はどう思う?」


 女刑事は助手席に座る素人探偵を見た。


「確かに……でも、会場の音響や特殊効果、被害者の動き、さらには口パク。これらの条件が揃って、発砲のタイミングや方向が全く絞れなくなった。こんな状況が偶然出来上がったとは思えない」

「やっぱり、それら全てが計算に入った計画犯罪の可能性が高いということだね」


 私の言葉に理真は頷いて、


「せめて、銃がどこから撃たれたかが分かれば、犯人候補も絞り込めるんだけど……」

「前か、後ろか、横か。はたまた、せり上がりの隙間を通した下から?」


 私が呟くと、理真は、


「前後左右、加えて下ってことね……下……?」


 理真が言葉を止めたところに、丸柴刑事の携帯電話に着信があった。


「コンサート会場にいた観客の中から、容疑者となり得る人物が何人かピックアップされたって」


 ハンズフリーでの通話を終えた丸柴刑事が言った。その情報を聞くため、私たちは捜査本部の置かれた上所かみところ署へ向かった。



「全部で三人。全員女性よ。いずれもジーリオンのファンクラブ会員ね」


 丸柴刑事は捜査本部の机に資料を広げた。捜査員たちは皆、出払っているようで、広い会議室には私たち三人の姿しかない。理真は順に資料を見ていき、


「どういう理由で、彼女たちが怪しいと判別されたの?」

「危ないファンが二名。どちらも、ボーカルのマサキさんの熱狂的なファンで、SNSに『マサキと一緒なら死んでもいい』みたいな書き込みをしていたわ」

「一緒に死ぬって……」

「安心して、彼女たちが無事なのは確認されてるわ」

「無理心中はしていないってことね。まあ、まだ彼女たちが犯人とは限らないけど。で、残るひとりがピックアップされた理由は?」

「これは未確認情報なんだけど……マサキさんが付き合っていた女性のうちのひとりらしいの」

「ファンの子にも手を出してるって、ギターのジョージさんが言ってたね。でも、容疑者として浮上したってことは……」

「そう。彼女、手ひどい振られ方をしたみたいなの。これもSNSに書き込まれてたらしいわ」

「らしい?」

「すぐに削除されちゃったみたい。本人の手でね。だから未確認情報なの。事務所では、ネット上のジーリオンに関する書き込みなんかを逐一チェックしていて、その巡回に引っかかったそうなの」

「徹底してるんだね」

「ああいったバンドって、イメージ勝負みたいなところがあるからね。イメージを損ねるような書き込みや情報には、即座に対処していたそうよ」

「事務所からのクレームで彼女自身が書き込みを消したってこと?」

「事務所側は肯定も否定もしなかったそうよ。もしかしたら、マサキさん自身から頼まれたのかも」

「手ひどい振り方をしたけれど、バンドのイメージが損なわれるから、それについての書き込みはしないでくれって頼んだと?」

「その可能性は、なきにしもあらず」


 殺意が芽生えても全くおかしくないな。


「さらに言うとね」と丸柴刑事は、「その女性――大西美千代おおにしみちよさんっていうんだけど――は、新潟市在住のOLで、家も会場からそう遠くないわ」

「新潟在住? でも、マサキさんと付き合ってたんでしょ?」


 理真は怪訝な顔をした。


「数ヶ月前まで東京で働いてたの。それが、突然仕事を辞めて新潟の実家に帰ってきたんだって。両親や友人たちには、東京の水が合わなかったから、なんて言ってたらしいけど」

「もしかして、マサキさんに振られたという書き込みがされたのは……」

「そう、帰ってくる直前」

「……待って。もし、彼女が犯人だとしたら、どういう犯行経緯が考えられる? 東京で大西さんはマサキさんに振られる。ファンクラブに入るほど好きだったから、憧れのボーカリストと付き合えた喜びと、振られたときの落差によるショックは相当なものがあったでしょうね。傷心した彼女は仕事を辞めて新潟の実家に帰る。そこへ、新潟でのジーリオンの公演が発表される。大西さんは、何かしらの目的――もしかしたら、その時点でマサキさんの殺害を視野に入れていたかもしれない――を持ってチケットを入手する。公演会場付近を歩いていた大西さんは、偶然に改造拳銃を拾ったことで、漠然としていたマサキさんの殺害計画が具体に浮かび上がってきた……」

「そこまではいいけれど、理真、問題は座席なの。大西さんの席は、60列の15番。相当後方の席よ。ステージから五十メートル以上離れてる」

「拳銃でステージ上のマサキさんを狙うことは不可能ね」


 丸柴刑事は頷いた。


「犯行時にだけ前に移動したとか?」


 私が訊くと、丸柴刑事は、


「公演中の席移動は禁止されていて、会場内の警備員たちが、そういった行為に対しては厳しく目を光らせていたはずなの。でも、公演は開始一時間ほどしたら休憩が入るわ。そのときにはトイレに行くためなどで席を離れることは可能よ。さらに、マサキさんが撃たれた『紅い弾丸』が披露されたのは、休憩後の二曲目」

「じゃあ、休憩の間に最前列に移動して、マサキさんを銃撃することは可能?」

「それはどうかしら。チケットは完売で空いている席なんてないから、最前列に入り込む隙なんてないはずよ。警備員だけじゃなく、他の観客からも注意されるわ」

「ですよね……」


 最前列にいきなり関係のない客が割り込んできたら、間違いなく文句を言われるし、警備員も黙っていないだろう。


「無理に最前列まで行かなくても」と私は続けて、「可能な限り前に移動したというのは?」

「由宇ちゃん、拳銃の有効射程のことがあるわよ。たとえ最前列でも、素人にとっては命中させられるかギリギリの距離よ」

「でも、絶対に命中しないということではありませんよね。発射された銃弾は実際に数十メートルも飛ぶのだし。その大西さんは、一か八かの賭けに勝ったのでは?」

「拳銃の弾倉を見るに、弾は一発しか発射されていないと見られているわ。それが成功したのだとしたら、かなりの強運の持ち主よ」

「それは、私たちが拳銃に対する知識をある程度得ているから、そう思うわけですよ。大西さんは、拳銃の射撃がそこまで難度の高い行為だと知らなかったのでは? 映画やドラマなんかの影響で、数十メートルくらいの距離であれば、素人でも狙って撃てば当たるものだと思い込んでいたとか」

「思い込みと幸運が重なって為し得た犯行ってこと? うーん……可能性はゼロじゃないかもだけど……」

「丸姉、由宇」と、ここで理真が口を開き、「現場に残された拳銃のことを忘れてるわよ。銃は観客席とステージの間に落ちてたんでしょ。後方の席から銃撃した大西さんが、ほとんど奇跡とも言える僥倖ぎょうこうに恵まれて、初弾一発でマサキさんを射殺できたのだとしよう。でも、そのあと、そんな前方に銃を投げ捨てるのであれば、投擲モーションを取るために大きく振りかぶる必要が生じるわ。そんな目立つ行動をするのは、かえって危険よ。そもそも、女性が鉄製の拳銃を五十メートルも投擲とうてきできるとは考えられない」


 私と丸柴刑事は顔を見合わせた。拳銃が現場に捨てられていたことをすっかり忘れていた。


「でも」と理真は、「その大西さんという女性は、確かに気にはなるよね」

「でしょ。一応調べてみるわ」丸柴刑事は資料をめくると、「両隣と後ろの席にいた人に訊いてみるわ。休憩後、大西さんの席が空になっていたかどうか」


 携帯電話をダイヤルした。



「理真、由宇ちゃん、聞いてたでしょ?」


 通話を終えた丸柴刑事は、色めきだった顔で私たちを見た。確かに、この耳で聞いた。

 丸柴刑事が連絡を取ることが出来たのは、60列16番と、61列15番の席にいた観客だった。その二人ともが全く同じ証言をしたのを、私と理真も聞いていた。公演が休憩に入ると、60列15番の席に座っていた女性は席を立ち、公演が終わるまで――正確にはマサキが射殺されたことで公演は強制終了させられたのだが――ついに戻らなかったという。

 丸柴刑事はすぐに大西美千代の携帯電話にダイヤルしたが、


「留守電になってるわ」携帯電話を耳から離し、「すぐに手配してもらう」


 本部の固定電話の受話器を上げ、大西美智子の身柄の捜索をしてもらうべく内線ボタンを押した。

 丸柴刑事が電話をする間、理真は本部の机に置かれた一冊のファイルに目を止めた。ファイルの表題は〈警視庁より〉となっている。理真は遠慮がちにそのファイルを手に取ると、ページを開き始める。私も横から覗いてしまう。まず、目に飛び込んできたのは、


「……これって、槇村律子まきむらりつこさんの遺書?」

「そうだね」


 明らかにコピーと分かる手書きの書面がファイルされていた。間違いない、自殺した槇村律子の遺書だ。まず、冒頭に両親と妹宛てであることが書かれており、続いて本文が始まっていた。


――やっぱり駄目でした。こんな気持ちのまま、これからの長い人生を生きていくということを、どうしても考えられませんでした。

 彼が演奏しながら掛けてくれた言葉、とても嬉しかった。握った手、温かかった。ちゃんと伝えられなくて、ごめんなさい。

 こんなことになってしまったけれど、私は今でも彼の、ジーリオンのファン、最初で最高のファンのつもりです。

 最後に、勝手なお願いですけれど、この遺書は絶対に他の誰にも見せないで下さい。これを書くのは誰のためでもない、私自身のためだからです。自分で自分の背中を押すためだからです。



 女性らしい字体で書かれた文面は最後、槇村律子、と署名がされて結ばれていた。短いながらも、いや、それゆえ余計に、悲痛な彼女の覚悟が伝わってくるようだった。

 槇村律子は自らの遺書で「人生は長い」と記していたが、違う、逆である。人生は短い。呆れるくらい短い。どれくらい短いかといえば、これは私が好きなラジオパーソナリティが言っていた言葉なのだが、「百年後、今いる人たちは全員死んでいる」そういうことなのだ。百年後、私の周りに――というかこの地球上に――いる人間は(当然私も)ひとり残らず死んでしまっている。例えば、年末を迎える。「あー、もう年末かー、今年も一年が早かったなー……」そんな「早い一年」を百回も繰り返さないうちに、人間は死ぬ。私も、理真も……。と、私は理真の顔を見た。私の親友である恋愛小説家は、遺書に目を落としたまま黙り込み、右手人差し指を唇に当てていた。これは理真が考え事をするときの癖だ。


「理真」と電話を終えた丸柴刑事は、「大西美千代さんは仕事中らしいわ。これから職場で話を訊けることになったけど……」


 そこまで声を掛けて口を閉じた。彼女も理真の癖のことを知っているためだ。理真は唇から指を離して顔を向けると、


「丸姉、ごめん、何?」

「公演の休憩中にいなくなった大西さんに話を訊きに行くんだけど、理真も来る?」

「もちろん……あと、ひとつ頼みたいことが……」

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