第2話
ほどなくしてたどり着いた入り江は、それほど広くはなかった。海と陸の境界は美しい三日月を描いてはいたが、潮が満ちれば水面下に潜ってしまうごつごつとした岩の群は複雑に入り組んでおり、漁の船も素潜りの者もおらぬ楽園で、照らしつける陽射しを鱗に輝かせながら魚たちが自由に泳いでいた。潮が引いてその姿を露わにしている岩たちは、立ち尽くす少年を海が両手を広げて受け入れようとしているかのようだった。
表面ができるだけ平で歩きやすそうな岩に、恐る恐る足を踏み出し、確かな一歩を刻んだ。少年は自分でも驚くほど確かな足取りで、まっすぐ岩の先まで歩き、立ち止まって彼方の水平線を見た。
子供の頃から近づくなと言われている人魚の入り江は、かつての子供だった大人たちも当然足を踏み入れたことはない。少年はこの島の誰も見たことのない景色を独り占めしていることに身体を震わせた。
ここには誰もいない。自分を笑うものも、泳げるようになれと急かすものも、誰ひとり。そして、この島では誰もができることができないかわりに、誰も立ち入ったことのない場所に立ったのだ。
優越感と背徳感、開放感と孤独感、一挙に押し寄せる感情に少年の心が高揚する。
──その高揚感が、少年の気を海から逸らさせた。
突如、大きな波が少年の目の前で岩に音を立ててぶつかり、砕けた。その飛沫が少年を掴みとろうとするかのように、荒々しく白い牙を剥く。
泳げなくても島の少年だけあって、身の危険を察知してひらりと身を躱した。白い牙は唸り声をあげながら虚しく海へと還っていく。
危なかった。
ほんの一瞬、気が緩んだ。
少年が足場に選んだのは歩きやすそうな平な岩で、波を受けて水浸しとなったその場所はとても滑りやすく──。
少年は、悲鳴をあげることもできずに、その身を海へと躍らせた。
両手足をばたつかせて必死に顔だけ海面から出してみても、泳げない少年には手を伸ばせばすぐそこにある岩にたどり着いてしがみつくことも、助けを呼ぼうにも立ち入ることを禁じられた聖域では、誰かが通りかかることもない。
目に海水がかかってしみる。鼻から、口から水が入り込む。むせる。手も足も水を引っ掻き回すだけで、少年の身を浮かび上がらせてはくれない。そこにあるのは苦痛と孤独と絶望だけだった。
再度、大きな波が来た。少年は為す術もなくその白い牙にかかり、飲み込まれていった。
そこには音がなかった。いや、聞こえてくるのは…自分の鼓動だろうか。遠いようで、耳の奥で、どくんどくんと叫んでいる。ごぼごぼと聞こえるのは波が砕ける音だろうか、それとも自分の口から吐き出た空気が空へ空へと昇っていく音だろうか。
海の中はいつも砂浜から眺めているのと同じように深く澄んで青いのかと思いきや、そこは薄暗くこのまま深海の淵へと引きずり込まれていきそうだった。
六歳にもなるのに泳げないなんて。
何度も言われた。自分でもそう思う。
いずれは船に乗って漁に出るのに、泳げないでは話にならない。この島に自分の存在価値などないことくらい、少年はうんざりするほど解っていた。
その上、入るなとあれほど言われていた人魚の入り江に足を踏み入れてしまった。きっとこれは罰なのだ。価値もなく禁忌を犯した少年への、罰なのだ。
犯した罪を、身をもって贖えという──。
ごぼごぼ、どくんどくん。
その音も耳障りだった。
このまま海の藻屑となるのも、自分にはお似合いかもしれない。
少年はもがくのをやめて、海にその身を委ねた。目を閉じる寸前に少年が見たのは、薄暗い海の中で輝く七色の光だった。
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