虹色人魚姫
清竜
第1話
そこは青く美しい大海原に浮かぶ小さな島で、漁業を生業とする住人たちがのどかに過ごしていた。
野菜や衣類などの物資は他の島とを行き来する商船から得るのだが、初めてこの島を訪れる商人は、揃って島に点在する人魚像に驚く。漁村や港町に人魚の像があるくらいでは驚いたりはしないのだが、この島はその数が尋常ではなかった。どこを見ても大なり小なりの人魚像。一軒一軒、ご丁寧に家の前にも人魚像。さらに家の中にまで小さな人魚像を飾っていると聞いて、商人たちはみな呆れるのだった。
この島には昔から言い伝えがあった。
「決して人魚を怒らせてはならない」──。
それを聞いた島の外の者は、誰もが笑ってこう言うのだった。「いもしない人魚をどうやって怒らせるっていうんだい?」
島の住人も実際に人魚を見た訳ではない。だが、信じているのだ。
捕れる魚は人魚の恵み、貝や漂流物は人魚の宝を分けてもらっているのだと。
降り注ぐ雨は人魚の涙。雨が長く続けば人魚を笑わせようと、住人が集って真剣におかしな話を一晩中し続け、逆に日照りが続けば悲しい話をし続ける。
海が荒れるのは人魚の怒り。そんなときは人魚への捧げものを海へ流す。
水揚げ量が芳しくない日が続けば、砂浜で人魚のために歌い、踊る。
人魚への感謝も忘れない。恵みを分けてくれたことに、無事に航海ができたことに、この島が平和であることに、人々は常に感謝している。
それらの気持ちが島中に点在する人魚像に表れていた。
人魚像は上半身が美しい乙女で下半身が魚であったり、あるいは乙女ではなく雄々しい男であったり、上半身も鱗に覆われていたりと様々な姿をしていた。それは誰も人魚を見たことが無いことを裏付けているのだが、島の住人にとっては大した問題ではない。誰も人魚の存在を疑いもせず、ときには心の支えとして信じている。
そんな小さな島で生まれ育った子供たちは、もちろん一片たりとも疑わずに人魚の存在とその加護を信じている。だから、大人たちに「人魚の入り江に行ってはいけないよ。そこは人魚のお家なんだから、お前だって自分の家に突然知らない人が来たら怖いだろう?」と言われれば、子供たちは絶対にそこへは近づかない。
人魚の入り江とは港(と言っても船を泊めやすい砂浜というだけだが)のちょうど島の裏側にあたる場所で、岩が入り組んでいて船を泊めるには不都合だった。海底も複雑になっているようで海流の予測がつかず、万が一子供が海に落ちた場合溺れる危険性があった。そういった理由もあって人魚の入り江には近づくな、と言い含めているのだった。
だが少年は、迷うことなくその入り江へと走っていった。淡い色合いのやわらかな髪を揺らしながら、ときに足をもつれさせてもなお、ためらうことなく走っていく。大人たちも見慣れた景色なのか少年が行く先も確認せずに、ああまたか、とすぐに作業に戻ってしまった。
海に浮かぶ小さな島で、漁業を生業としている──そんなところで育てば誰でも泳ぎが得意になる。船で漁に出るには早くても、素潜りで貝をとったり浅瀬の魚を捕まえるには子供で充分だった。
少年は、この島では当たり前の、泳ぎができなかった。水遊びは嫌いではない。だが顔を、頭を水の中に沈めてしまうことが怖かった。そうなれば、当然同じ年頃の遊び友達からはこう言われることになる。「六歳(むっつ)にもなって、泳げもしないなんて」
大人は早く泳げるようになりなさいと言う。友達には馬鹿にされる。いずれにせよ海に囲まれているのだから、泳げるようにならなければ将来生活の術も持てない。そんなことは少年だって解っていた。けれど、理解に感情が追いつくかと言われれば、否だ。
ええー?まだ泳げないの?だってもう六歳でしょう?
密かに想いを寄せていた少女に、そう笑われた。一緒にいたみんなにも笑われた。いても立ってもいられなくなり、少年は走り出していた。
ひとりになりたい。どこでもいいから、僕を笑う人のいないところへ。
だから少年は走っていった。そこに誰もいないはずの人魚の入り江へと──。
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