[3-2] よき市民であることを

 運動用のコート、机が並ぶ部屋ばかりの建物、案内された寮。

 ここは『学校』と呼ばれる施設らしい。


〈アグリゲート〉では、通信教育が一般的だ。

 疑似人格を持つAIを教師につけて、個人のレベルに応じた学習を自室で享受できる。このシステムは、機関が『芽』を見つける手段の一つなのだ。


 同年代の子供と出会う機会はほぼ失われつつも、仮想空間上に広がるコミュニティで社交性を育むことはできる。

〈大崩落〉による人口激減の影響で、成人年齢が十五歳と定められたのも相まって、社会では早熟な精神を持つ少年少女が活躍していた。


 一方で、その教育システムに異を唱える者も少なくはない。

 子供たちは互いの存在を肌で感じられる空間でコミュニティを築くべきだ、という考え方もあったのだ。


 原型はあった。技術が復元される以前は、知識の継承は口伝に頼るほかなかった。学ぶ意欲を持つ者が自然と集まり、機関が組織されるきっかけとなった。

 そこにシステムが加わることで、管理が容易となる。分化やシンギュラリティに目覚めた新時代の子供たちがどう成長するか。学校施設は集団検査に打ってつけだった。


 もっと切実な理由として、孤児養育の役割が期待された。

 都市が機能する以前、孤児は路頭に迷って餓死するか、犯罪者になるか、大人たちに搾取されるか――明るい未来は失われたも同然だった。

 子供がいなくなれば、人類は老衰する。それだけは阻止しなければならない。


 最悪、感染力の強い病原菌の媒体となる危険もある。健康管理を行う学校施設は防疫機関にもなりえた。


 ……というわけで、通信教育が主流となった今でも、『学校』は一定の信頼を寄せられる組織なのだった。

 中でも、この〈アレクサンドリナ女子寮学校〉は、高度な教育、社会性の発達を目的に創設された、今年で七十五年目を迎える名門である――


 と、軽く調べ終えたイナミは、リストデバイスをスリープ状態に戻した。

 着替えにいったラジエットを寮の応接室で待っているのだ。


 耐火加工された木材が、壁や床、柱に使われている。木に馴染みのないイナミでさえも感じる暖かみが、部屋全体に滲み出ているようだった。

 ソファのクッションも、宿舎の物より柔らかい。


 ただどうも、いまいち落ち着けない。


「あの人がそう?」

「わー、なんか真面目そうな人」


 先ほどから寮に住んでいる少女たちが、代わる代わるイナミの顔を覗きに来ていた。


 ラジエットが連れ込んだ男、ということで興味を抱かれているらしい。

 物理的に閉鎖的な環境だからか、噂や与太話が広まりやすいのだろう。イナミは静かに溜息を洩らした。


 取り留めもなく視線を移ろわせているうちに、ふと、木棚に並んだフォトフレームに気がつく。デジタルではなく、紙に現像された写真が飾られているのだ。


 イナミはソファから立ち上がり、一枚一枚を眺める。それぞれ顔ぶれの異なる子供たちが同じ老婆を囲っていた。


 どれも、みな笑顔だ。


 古い写真は分厚いアルバムに収められているようだ。

 自由に見てもいいのだろうか。木棚に手を伸ばしかけたイナミは、


「ここを卒業した子よ」


 部屋の入口から話しかけられるよりも一拍速く、振り返る。


 声の主は、静かな笑みをたたえた老婆だった。

 年齢は七十代後半。白く染まった髪と、暗い緑色の瞳。背筋がぴんと伸びた、美しさと凛々しさを兼ね備えた女性である。


 写真に写っている老婆と、同じ人物だ。


 イナミは、相手がそれなりの立場と察して尋ねた。


「失礼。紙の写真とは珍しい」

「そうね。〈大崩落〉以前はもう、紙はごく一部の機密文書でしか使われなくなっていた。しかし、軽んじられてはいなかったの。電子的なストレージに置いてある物より、物理的な金庫のほうが安全だったから。クラッキングの対抗策としては十分に有用だったのよ」


 淀むことのない流暢な語り口に、イナミは微笑を浮かべて応じた。


「だから、復元した?」

「ええ、製紙技術は廃れるべきではない。もっとも、廃れていい技術もないけれど――多少は趣味も兼ねているのよ。フォトアーカイブとは違う。色が紙にでしょう?」


「だが、紙は劣化する」

「万物はいずれ朽ちる」

「資料保全の観点から言って――」

「保全技術もつちかわれる」


 老婆は穏やかな笑みを浮かべてみせた。


「忠告ありがとう、若い人。でも、『必要は発明の母』という言葉がある。『必要』を作り出すことで、技術の進歩を促せる。誰にも必要とされない技術は、風化していくわ」

「……肝に銘じておこう」

「それに、物理的に飾っておけば、誰かが思いがけず目にすることもある。再び私たちが滅んで、世界から電力が失われたとしても、ね」


 そのとおりかもしれないな、とイナミは頷いた。消失するときはデータだって同じだ。知識のバックアップは多様なほどいい。


 老婆は、ここでようやく、応接室に入ってくる。

 イナミの前に立った彼女は、突然、思いがけないことを口にした。


「顔に触れてもよろしいかしら?」

「ああ、構わない」


 皺の多い手が、指が、イナミの頬をそっと撫でる。まるで本当に存在するのかを確かめるように、丹念に。


 なぜ、こんなことをするのか

 一瞬、透視能力者の疑いが脳裡をよぎる。


 が、それは杞憂だ。シンギュラリティに過去を読む力はない。あったとしても超感覚的なスキャナー程度だ。それでイナミの正体を暴くことはできない。


 実際、意味はないのだろう。

 ひとしきり触って満足したのか、老婆はイナミから離れた。


じかに会えて、よかったわ」

「……?」

「ええ、ニュースでなら何度も拝見しているから。あなたは有名人なのよ。どうやら自覚がないみたいだけれど」


 それまでにこやかだった老婆の眼差しが、


「あなたがよき市民であることを願うわ」


 一瞬、鷹のような鋭さを帯びたのは、イナミの気のせいだろうか。


 よき市民。


 発言から推測するに、この老婆は、イナミが移民であることも知っているのだ。

〈アグリゲート〉に辿り着く移民が途絶えて久しい昨今、自分は確かに特殊な存在だ。文明の滅んだ世界を放浪してきた、という偽りの経歴が、古株の住民である彼女の興味を引いたのかもしれない。


 それにしても、この老婆には、妙な引っかかりを覚えるが――


 廊下から聞こえてきた急ぎ足の音が、イナミの思考を中断させる。


「すみません、お待たせして――」


 そう言って部屋に入ってきたのは、学校制服に着替えたラジエットだった。

 公園で見かけたときと同じ衣服である。他の少女たちは普段着だったので、装いを正してくれたようだった。


 ラジエットは老婆に目を留めて、慌ててスカートの裾を払い、お辞儀をする。


「先生、いらしてたんですか」

「この女子寮に若い殿方が招かれたとあれば、わたくしが見定めなければね」


 ラジエットは慌てて手を振る。恐らく何度も訂正したのだろう、やや疲れ気味だ。


「この人はお姉ちゃんの同僚さんで……」

「特務官、イナミ・ミカナギさんでしょう?」


 もちろん分かっているとも、と老婆はゆっくり頷く。


「ルセリアもここの出なのよ、ミカナギさん」

「そう……だったのか。見たところ、写真には写っていないようだが」

「あの子は特務官のスカウトを受けて、ここを出ていったの。卒業する前にね」


 ラジエットが俯くのを横目で確かめながらも、老婆は続けた。


「ルセリアのご両親のことはご存知?」

「ああ、聞いている」

「あの事件があってから孤立して――わたくしは引き留めたのだけど、あの子は結局、一人で考えて決断した。……決断させてしまった。この学校は、り所となるべき場所なのに、あの子にとってはそうではなかった……」


 悲しげに目を伏せた彼女は、ふう、と息を吐き、控えめに微笑んだ。


「あら、ごめんなさい、気がつかなくて――わたくしがいては二人の邪魔ね。失礼するわ、ミカナギさん」


 優雅に一礼する老婆に、イナミも頭を下げる。彼女はゆったりとした足取りで応接室から立ち去った。


 ドアがばたんと閉められる。

 野次馬の女生徒たちを「はしたないわよ」と叱る声。


 静かになった密室で、イナミとラジエットは顔を合わせた。


「『先生』、ということは、彼女は指導者なのか」

「学長さんです。みんなにとってのおばあ様ですね」

「慕われているんだな」

「はい。だからきっと、お姉ちゃんも……」


 ラジエットはそこで、イナミから視線を逸らした。


「『聞いた』って、お姉ちゃんからですか?」

「ああ、そうだ。母親が特務官だったことも、事件のことも、……きみのこともだ」

「お姉ちゃんは、同僚さんには、ちゃんと話すんですね」


 その一言には、イナミが想像していたのとは異なる感情がにじみ出ているように感じた。


 仕草にも表れている。握り合わせた両手、床をさまよう視線、強張った頬――

 怒りや憎しみではない。


 込み入った話になりそうだ。イナミは改めて覚悟し、ソファの背もたれに手を置いた。


「座って話そうか」

「そう、ですね……」

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