[2-3] あなたとの争いは望んでいない
何度も振動するリストデバイスに、イナミ・ミカナギはうんざりしていた。
逃げ込んだのは、鉄筋コンクリートの空きビルが目立つ寂れた区画だ。
壁には塗料で落書きが描かれている。何をモチーフにしているのかわからない。あるいはこれが『芸術』というものなのだろうか、と真剣に考えてもみた。
デバイスはまだ震えている。
コールの通知だとはわかっている。
相手の名前は表示されていない。この端末番号を知る者はごく一部だ。公的機関の連絡でなければ、『あいつら』だろう。
諦めて盤面に触れ、通話を始める。
通話者の映像を投影する機能は相手側がオフにしていた。誰かに目撃されたら困るからに違いない。
《どうして勝手なことを?》
冷たい印象を受ける女の声だ。
開口一番に非難されたイナミは、むっと眉をひそめる。
「勝手? お前は俺のなんなんだ」
《イナミは一市民。なんの権限もない。クオノは私たちが探し出すと約束したはず》
「信用できないな」
《機関なら都市圏外も捜索できる》
「手を広げる必要はない。変異体は、この都市で、クオノを探しているんだからな」
《……っ》
区切って強調した言葉に、女が怯んで息を呑む。
水面下で蠢く変異体。疑念を抱いている自分。どちらに対する恐れだろうか、とイナミは探ってみる。
そもそも、信用など初めからない。
イナミにとってはこの世界の誰もかもが警戒すべき『他者』だ。
向こうは従わない異物をどう扱うだろうか。
考えられるのは、侵入したウイルスを排除するために都市の免疫系を働かせることだ。
足がつくデバイスは破棄したほうがいいのか――
そうイナミが思案し始めたとき、表の通りで二輪モーターサイクルが停まった。
一般市民が乗り回すような物ではない。大型で、威嚇的なフォルムを持つ白いマシンだ。
運転しているのは、見覚えのあるサイドテールの少女。
周囲に素早く視線を巡らせると、上空に虫型偵察機が飛んでいるのを発見した。
予想どおり、相手はイナミを捕えようと先んじて追っ手を仕向けたらしい。
イナミは吐息とともに覚悟を決める。
「お前たちはすでにクオノを保護しているのか?」
《クオノはいない。信じてもらえないだろうけど》
「当然だな。それで、不都合な俺を拘束するつもりか」
《あなたとの争いは望まない》
女の声色がイナミの追及に抵抗して硬化する。
《でも、あなたはこの〈アグリゲート〉で罪を重ねようとしている。住居侵入、器物破損、機関構成員の任務妨害――特に、ミダス体との接触は重罪》
「接触した以上は必ず仕留める」
《規則に従って、と言っているの》
「従っていれば、俺はクオノにもう一度会えるのか? そうじゃないだろう!」
激昂が路地裏に響く。
胸の底に沈んでいた思いが喉を這い上がってきて、イナミは苦しげに吐露する。
「クオノが無事でなければ、俺が生きている意味なんて、もう、ないんだ」
《……そこまで固執するのは、カザネ――という人の遺言だから?》
「そうだ。カザネ・ミカナギが俺に託した最後の命令だからだ」
わずかな沈黙の後で、
《そう……》
と、女は呟いた。なぜか落胆の色が濃いように聞こえた。
破談、といったところか。
〈デウカリオン機関〉はクオノが持つ力に目をつけて監禁しているのかもしれない。
だとしたら、全身全霊をもって叩き潰すまでだ。
だが、この地上のどこに行けば、〈アグリゲート〉以上の安全な場所があるのだろう。
皆目見当もつかないが――
「俺は本分を
《何をするつもり?》
「特務官がここに来たということは、『そういうこと』だろう?」
《待って、イナミ、彼女は――》
女が何かを言いかけたが、イナミは一方的に通話を打ち切った。
リストデバイスを左手首から外し、背後に投げ捨てる。かつんと二度跳ねて、舗装を滑っていった。
路地裏へ徒歩で入ってきた少女が、それを見て眉をひそめる。
「誰と話してたのかしら、イナミ・ミカナギ」
「……ルセリア・イクタス、だったな」
「名前、覚えてくれてたのね」
眼鏡型の端末を着けたルセリアが、涼しげに笑う。
ミダス体が現れた住居で鉢合わせた特務官。
シンギュラリティという強大な力を持つ戦闘員。
今は、敵だ。
「あんたに訊きたいことがあるのよ」
彼女はちらりと地面に落ちたリストデバイスを見る。
「誰かの命令で動いてるの?」
「俺に命令できる人間は、全員死んだ。俺は俺の意志で動いている」
イナミは片手を首元に運ぶ。
その動作を見たルセリアが、太ももに巻いたホルスターからハンドガンを引き抜いた。クロークがふわりと舞い上がる。
「妙な動きはやめて!」
イナミは警告を無視し、襟に挟んでいた黒縁眼鏡の感触を確かめた。
武器を取り出すとでも思ったのか、ルセリアは拍子抜けした顔で銃口を下げる。
「見えづらいならかけてもいいけど」
「見えているさ、はっきりな」
「じゃあ、誰の眼鏡――」
彼女がそれを知る必要はない。
イナミが意識すると、全身の細胞が揺れ動いた。
――〈
インナーウェアの下からタールに似た黒い粘液が溢れ出す。
粘液はイナミの全身に纏わりつき、ダウンジャケットの厚みを潰して裸体のシルエットに絞り上げた。
そこから表皮と装甲がシルエットから浮かび上がるように形成。
後頭部からはシロヘビ柄のケーブルがずるりと生え伸びる。
外骨格を纏うと同時に、体内器官も人ならざるものに変異していた。
顎の微細な
神経のシグナル伝達が高速化し、全身に青白い光が灯る。この明滅する紋様はイナミの
装甲に覆われた頭をゆっくりと持ち上げる。顔が塞がれていても、イナミの視界は前方に
この瞬間的な変異を目にして、ルセリアは今度こそハンドガンの引き金に指をかける。
「強化外骨格――じゃない、ミダス体! なんで熱検知されないの!?」
「二度目だ。俺をヤツらと一緒にするな」
「だったら元に戻りなさい! あたしは話をしに来ただけよ!」
「騙されないぞ。俺を処分しに来たんだろう?」
「何言って――」
ルセリアが困惑している間に、イナミは猟犬さながらの疾走で接近を試みた。
隙だらけに見えた彼女も即反応する。
ハンドガンが連続して発射された。
銃弾の軌道から、両肩に命中するだろうと予測。
――いい腕だ。
着弾の衝撃がイナミを襲った。
砕けた金属片と火花が路地裏の暗がりに散る。
銃弾は外骨格に浅い傷をつけたのみだった。その程度なら一瞬で修復できる。傷は風に吹かれたようにすっと消えた。
対するルセリアは、銃撃と同時に後方へと飛びすさっていた。イナミの突進が止まらないと見るや、表情を険しくする。
「くっ……〈迎え撃つ〉!」
琥珀色の瞳がきゅっと
シンギュラリティの発動を予期したイナミは足を踏ん張って急ブレーキをかける。足裏の皮膚と舗装の摩擦音がけたたましく反響した。
前方に現れた氷の結晶が機雷のごとく破裂する。
生体の血を凍結させる能力だと思っていたが、どうやら空間そのものに作用する力だったらしい。
飛散した氷の破片が装甲に当たるが、深く貫通するほどの威力はなかった。
もしも突っ込んでいたら――いや、とイナミは考え直す。そのままでも直撃地点には足を踏み入れていなかった。第一、自分を直接狙わなかったのはなぜか。
――威嚇か?
何を恐れたか、青ざめた顔のルセリアが声を震わせる。
「あんたが人間だって言うなら、あたしに力を使わせないで!」
イナミはその言葉を無視し、思考を巡らせる。
シンギュラリティの発動には程度によって時間を要する。さらに観察したところ、対象を視認する必要もありそうだ。
彼女はその弱点を補うべく、前もって氷の機雷を生成していた。
愚直な接近は難しいだろう。
なら、変則的な攻撃をしかけるまでだ。
イナミは狭い路地を利用した。再突進すると見せかけ、両側の壁を交互に蹴って上昇する。ルセリアの頭上を跳び越し、背後に回り込むつもりだった。
が、意表を突くのは無理だったようだ。
上から落ちてくると踏んだルセリアは、姿勢を低くして駆け抜け、空へと振り返った。
イナミはまだ空中にいる。
両者の視線が交錯した。
このままではシンギュラリティの恰好の的になってしまう。
――というのは。
全て、計算どおりの状況だった。
イナミは意識を体内に集中させた。
胸の奥で気泡のようなものが生まれ、イナミの身体を内側から食い破るように膨張していく。
瞬間、路地裏から青白い光が消失した。
そして、氷の機雷が破裂する。
悲痛そうな表情だったルセリアが、
「え……?」
驚愕の呻き声を洩らす。
つららだけが地面に落下し、粉々に砕け散った。
彼女の目にはイナミの姿形が忽然と消えたように映っただろう。
「どうなってるの!?」
空に浮遊する偵察機なら、イナミがどこに消えたのかもわかるはずだ。
居場所を知らされたルセリアは慌てて振り返ろうとしたが――
イナミは、背後からルセリアに組みついた。
細い腕を捻り上げ、ハンドガンを手放させる。
地面に落ちた武器を遠くへ蹴り飛ばし、彼女の顔を壁へと押さえつけた。
その背に体重をかけて身動きを取れないように――
「……っ、やめて、触らないで!」
ほとんど子供の喚き声だった。
先ほどまで冷静に立ち回っていたルセリアが、がむしゃらに暴れ出した。少なくとも関節を外して逃れようなどという抵抗ではない。パニック状態だ。
「化け物にするくらいなら殺して!」
イナミが人間なのかミダス体なのか、判断できずにいるのだ。
ルセリアの頬を涙が伝っていることに気づいて、イナミは息を呑む。
確かに彼女は優秀な戦闘員だが――
年端も行かぬ少女であることもまた事実である。
イナミは彼女の耳元に顔を寄せ、強く言い聞かせた。
「落ち着け! この外骨格は『液体金属』だ!」
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