小百合がレジルトに到着し、3日。


彼女が一番初めに口にしたのは、葡萄によく似た果実だった。


「西の比較的肥沃な土地で栽培されたものだ。東はもう砂漠に覆われて使い物にならぬ。」


3日いれば嫌でも分かるこの国の現状。

水は枯れ、砂漠化が進み、大地は最早生きては居なかった。


「父王の代にイシスの怒りを買ったのだ。一時は民の命も危ぶまれたが、まぁ、余とトゥト・アンクで毎日祈りを捧げた故、レジルトとして持ち直した。」


この男、メネスが有能な王であることも嫌でも分かってしまった。

まだ20代にすら見える若さで、この国を立派に支えているのである。


「なに、別に難しい事を要求する訳では無い。正妃として政務を手伝えとも言わぬ。子を成せとも言わぬ。ただ国母としてそこに有り、」


水を生めば良い、とメネスは言った。

ここに来て3日、耳にタコが出来るほど、小百合はこの台詞を聞いていた。

出来るものならそうしている、と返すのだが、メネスは小百合の言葉など聞いてはおらず、ただただ無限に生めとだけ言ってくる。

あの扉があった場所‥‥つまり小百合が一番はじめにこの世界に落ちた場所だが、あの場所はもう、10年も前に水が枯れたオアシスだった。そこに現れ、そのオアシスの地下までを満たすだけの水を生み出した小百合はこの国の救世主以外の何者でもない。


「望むものをくれてやる。だからいい加減、その態度を改めぬか。」


玉座の上で男は笑う。


小百合はもう3日、その葡萄のような果実しか口にしていなかった。


黄泉竈食というのをご存知だろうか。

黄泉、あの世のものを口にしたらもう現し世には帰ってこられないというもので、古きは古事記、日本書紀に記された言葉だ。


それに当てはめるにはもう小百合は果実を口にしてしまっているのだが、気分的なものなのだろうか、彼女はこの世に囚われてはならないと、頑なに食事を拒否した。


念じれば水が出るわけでも、だからと言って涙が増えるわけでもない。

彼女の意志とは無関係に、水は生まれた。


憤っている時、あるいは楽しい時、童心に帰った時、彼女の感情の振れを合図に水は生まれた。どこからともなく、大気が姿を変えるように、ゆっくりと膨大な水が生まれるのだ。


しかしそれも1日だけ。自覚してしまえばまた感情の起伏は大人しくなり、また水は生まれなくなった。




「着いてこい。」


突然、メネスは小百合の手を引いて歩き出した。大きな歩幅に合わせるのは大変で、何度かよろけそうになる。


少し歩いて辿り着いた塔から見えたのは、民の暮らしだった。


「あの街はまだ良い。ナイル程ではないが、河川から水を汲める。飲み水の確保が出来るだけマシであろう。」


小百合は目を剥いた。

何人もの人間が倒れている場所がある。まさかあれは死体か、と思ってみるが、微妙に動いている人もいる。

まだ生きているのだろう。


「あれは神の怒りを買ったもの達だ。アレらの看病をすると同じように怒りを買う。」


違う、と小百合は直感で感じられた。神の怒りなんかではない。病気は病気だ。


「濾過は、煮沸消毒はしてるんですか?」


「ロカ?シャフ‥‥?」


「病院は無いんですね?ということは医師も居ないのですか」


「医師はトゥト・アンクが連れてきたものがおる。」


次の瞬間、小百合は長い髪を紐で縛り、布切れを持って駆け出していた。

大気から水が溢れる。

今彼女は、とても怒っていた。


「トゥト・アンクさん!今すぐお医者様を集めてください!」


小百合に医療行為の経験がある訳では無い。息子が生まれた時に少しだけ家庭の医学をかじった程度で、あとは生活の知恵のようなものだ。

近年のテレビというのはとても優秀で、知りたくないことも何でも教えてくれた。

息子や孫の勉強を見ながら学んだことも多く、この時、当時の知識が小百合の頭を駆け回っていた。


ーーーこのままだと、病気が流行してしまう。


ペスト・コレラを例に挙げるならば、あの流行の原因はそもそも劣悪な衛生状態にあり、様々な病気が起因となっていた。


「天上様、呼んで参りましたが‥‥」


トゥト・アンクが集めてきた医師は6人。全てが王宮専属の医師。医師はこれだけしか居ないという。


「ありがとうございます。では、これから疫病の傾向と対策、及び現状の衛生状態の改善の緊急講義を始めます!」


なんなんだ、と医師たちから声が上がるが、小百合の実年齢からすれば息子程の男達の不満の声など聞こえてはおらず、瓶を用意しろ、布を用意しろ、と小百合は自身の脳を回転させ始めた。


濾過

煮沸消毒

アルコール消毒

止血法


薬は無い。それでも出来ることはある。そう自分に言い聞かせるように、6人の医師に向かって小百合は家庭の医学の講義を始めた。

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