一
「うぅ‥‥」
冷たい
初めに感じたのはそんな感覚だった。
横たえていたのであろう体を起こし、周りを見渡した。
横向きに、水に浸かっていたらしい。
石造りの溜池のような場所。小百合はそこにいた。
自身を確認し、確信した。
夢ではないのだと、水面に映る自身の顔を見て、愛猫の姿を思い起こす。
しかしこのままでは餓死だ。
周りには人っ子一人おらず、食べ物になるようなものはない。
おまけに小百合の姿はーーー全裸だった。
下着すらつけていない、戦後すぐの貧相な体だった。
猫、否、ネロが連れてきたとするならば、ここでネロの助けを待つのが得策なのかもしれない。
幸いここには水がある。
もっと遠くは、砂漠。砂漠以外は何も見えないほどの完全な砂漠であった。
残る異端は頭上に浮いている‥‥扉のようなもの。
何なのかは不明だが、よくないものだと判断し、見ないことにした。
ここで小百合の精神があと50も若ければ動き回って何かをしようとしたのであろうが、残念ながら小百合にはそんな気は微塵も無かった。無駄に動いたところで無駄に体力を消耗するだけだと考えたのである。
1時間ほどだろうか、ぼんやりと空を見上げていた。
こんなにのんびりと過ごしたのは久々だった。
町内の会合に追われ、敬老会で小学校を訪れてみたり、年々数が減っていく同窓会に参加してみたり、楽しかったが、思えば忙しい毎日だった。
流れる雲を眺めながら、ふと耳を済ませた。
今の今まで、なんの音もしなかったと言うのに、どこからか足音が迫っているではないか。
しかもこれは一人ではない。一人ならば気付かないだろうに、これは軍の足音だ。
規則正しい行軍の足音が迫っている。
小百合は咄嗟に身を隠そうとした。よもやここは立ち入りを許されていなかったのか、と。
しかし水源以外に何も無いこの場所に隠れることのできる場所はなく、小百合はもう一度その場に腰を落ち着けた。
「王よ!水です!」
野太い男性の声が響いた。
「扉の確認出来ました!水源に人影を発見!」
裸体を隠すように丸くなる。
足音はもうすぐそこまで来ている。彼らには小百合も見えているのだろう。
ネロの名前を出したら若しかしたら助かるやもしれない、そう考えるものの、大勢の男性に囲まれれば萎縮するもので、小百合は顔を伏せたまま動けなくなってしまった。
「よもや、天上の華はイシスであったか。」
ゆるりとした動きで人海を割って、白い影が迫ってくる
銀色の髪、金色の瞳。この砂漠に溶けてしまいそうな程の、病的なまでの真っ白な肌。
周りの男達の褐色の肌とは似ても似つかない、人外さえも彷彿とさせるような美しい男が、小百合のことを凝視していた。
「顔を上げよ、天上の華。余の顔を見るのだ。」
顔なぞ上げなくても、腕の隙間から小百合は既にその男の顔を見ていた。
上げないのではない、上げられなかったのだ。
小百合の人生において、こんなにも美しい男を見たのは初めてだった。
つまるところーーー怯んでいるのである。精巧な人形のような男が目の前にいて、褐色の男達に取り囲まれていて怯まない女がいるならばそれもまた凄いのだが。
銀髪の男は動く気配のない小百合の更に傍に寄る。小百合は益々恐ろしくなり、より強く膝を抱えた。男の話す言葉の意味がよく分からなかった。自身の人生の中で「てんじょうのはな」なんて言葉で呼ばれたことなど無かった。
この男はさも当たり前のように小百合を天上の華と呼ぶ。まずそこから彼女には理解が出来なかったのである。
「ファラオ、発言を宜しいでしょうか」
まだ幼いであろう少年が集団の中から声を上げた。
肌は浅く褐色だが、体に黄金を纏っていて身分の高さが伺える。
「トゥト・アンクか。許す。」
「天上様はもしや、ファラオの前では畏れ多く発言が出来ないのではないでしょうか?神子といえどその身は人の子、ファラオの威光を前に萎縮しているのでしょう。」
畏れ多く、というのはもちろん身分などよく分かっていない小百合には全く関係ない事だったのだが、概ね発言できない件はあっていた。
小百合は敢えてファラオと呼ばれた銀髪の男ではなく、その後ろの少年、トゥト・アンクを見ようと顔を上げた。
「おや、やっと顔を上げてくださいましたね。天上様。可愛らしい、まだ少女のお顔のようだ。」
さぁ天上様、と、目線誘導された先には、銀髪の男。
思わず喉が乾いた音を鳴らした。
「天上様はこれよりファラオ・メネス様の正妃となり、このレジルトの国母となるのです。」
「‥‥待ってください。」
ようやく絞り出した一声は、少し裏返っていた。
「てんじょうのはな、とか、よく分からなくて、私はノーマという国に行かなくてはならなくて、」
ネロに、会わなくてはならない。
彼女の思考の半分以上はそれで埋まっていた。
「関係ない。自覚があろうとなかろうと、貴様は天上の華でイシスの化身。余の妻となり、この国に水を齎す存在だ。他国へなどやるものか。」
「その通りですメネス様。ファラオたる貴方様にこそ相応しい。」
この場に小百合の話なんて聞くものもおらず、発言するよりも先に彼らの中で話が進んでいた。
ーーーファラオと言えば、エジプトの王様のことを指すのではなかったか。
テレビの特番などでの知識程度だったが、ほんの少し、小百合にも知識があった。
「ここは、エジプトなんですか?」
少しずつ恐怖が薄れていく。もしかしたらここは、日本から離れてしまっただけで、よく知る国なのかもしれない、と。
そう思うと、この恐ろしく美しい男も途端に人間に思えてきた。
「ほぉ‥‥?懐かしい名だ。貴様、エジプトを知っておるのか。」
「行ったことは無いんですけど、年末特番とかでよく‥‥」
メネスの端正な顔が小百合に近付いていく。目は爛々と輝き、今にも小百合を平らげてしまいそうな肉食獣のような目で、彼女を見やるのだ。
「ここはレジルト。13年前父王を殺し、他国を奪い、繋げ、余が新たに興した国ぞ。」
故に、エジプトではない。と、メネスは吐き捨てるように言い放った。
「余が説明せずとも、嫌でもそのうち分かろう。トゥト・アンク、天上を連れ、屋敷へと帰還する。」
小百合の体に布のようなものが掛けられ、輿のようなものに乗せられる。
小百合はまたしても恐怖に体を縮めた。
身の安全はおそらく保証された。しかし、この得体のしれない国でどうやって生きていけば良いのか、彼女には分からなかったのである。
乗り心地が良いとは言えない輿の中で、夢ならば早く覚めてくれと、頼りない布を握りしめながら震えていた。
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