第17話 ようせいさん……3

 それは今では見かけることもなくなった木造の平屋建てだった。


 建てられてから百年は経過しているのではないかと思わせるほど朽ちている。いままでよく倒壊しなかったな、と言いたくなるほどの古さだ。率直に言ってしまえば廃墟である。とても人が住んでいるとは思えない。


 どうして、人が住んでいるとは思えない、廃墟さながらの木造平屋建てを『店』であると思ったのか? それは、そのすぐ近くに『あなたが望むものを提供します』というなんとも妙な看板が出ていたからだ。


 あなたが望むもの――つまり、この看板を出している誰かはこの看板を見た人間――私に対してそれを恥ずかしげもなく主張しているのかもしれない。


 私が望むもの――まさか。


 電気も通っているかも怪しい廃墟にそんなものがあるわけがない。馬鹿馬鹿しい。誰がこの看板を出したのか知らないが、出したやつは頭がどうかしている。


 しかし、理性ではそうに違いないと思っているにもかかわらず、何故かそこから離れられずにいた。


 道端に出ているその看板が、表現しようのない説得力を持っているように感じたからだ。あの看板に書いてあることは嘘ではない。嘘だと思うなら確かめてみればいい。いいじゃないか減るものじゃあるまいし。騙されたと思って一度入ってこいよ。それで本当だったしめたものではないか――看板はただひたすら、自信満々で私に語りかけてくる。


 私はその看板がある平屋の目の前で立ち止まっていた。


 私に対して、そのように語りかけている(ような気がする)看板は本物なのか。普通に考えれば偽物に決まっている。何故なら――


 何故なら私が望んでいるものは、見知らぬ誰かに与えられるようなものではないからだ。


 普通の両親、普通の家庭、普通の友達――私が望んでいるものはそういったものだ。本来であれば誰にでも得られるであろうもの――けれど、私にはなに一つとして与えられなかったもの――そう、私が切に望んでいるものはそれ以外のなにものでもない。


 そんなものがこの廃墟にあるはずがないのだ。そんなこと当たり前じゃないか。


 でも。

 それでも道端に出ている看板の自信は揺らいでいない。初めて目にしたときから『ここにはお前が望むものが確かにあるぞ』と、強く強く囁いてくる。


 どうかしている。いくら嫌なことが多いからってそんなわけあるはずがないだろう。


 でも――

 あくまでも仮に――本当に私が望むものがあそこにあるのなら――

 私は、あそこに足を踏み入れるべきではないのか?


 この先、『正しくあろう』としていられるとは限らない。私は、私は思うほど強くない。今だって常にそれは揺らぎ続けている。そんなもの、いつ壊れてしまってもおかしくない。それぐらい、それは脆いものなのだ。


 それならば――


 私がこの先、『正しくある』ことができたとしても、決して得られない『なにか』があそこで手に入るのならば――


 あの店に入ったって別にいいのではないか?


 どうせ失うものなど、今まで運よく失わずに済んだ命と処女くらいしかないのだから。


 もう一度木造平屋建てに視線を向ける。


 よく見ると、木造平屋建てからは淡い光が漏れていることに気づく。あの中に誰かいるのだ。その『誰か』は、あの訳のわからない看板を出した張本人に間違いない。


 警戒をしながら一歩一歩足を進め、扉に手をかけ、一度深く深呼吸してから、その引き戸を開けて中に入る。


 扉を開けた先に広がっていたのは、廃墟そのものとしか言えない朽ちた外観とは裏腹に、意外にも綺麗な光景だった。


 雑多なものがたくさんあり、ごみごみとしていて、この場所が古いことは間違いない。が、それは古くとも放置されているわけではなかった。ある程度秩序立っており、定期的に手入れをしていなければそのようにはならないだろう。


 しかし、この中はどう見ても『店』といえるものではなかった。備品置き場とか倉庫というべき場所である。


「いらっしゃい」


 あたりを見回していた私にそのような声が聞こえてくる。あまりに突然のことだったので、思わず変な声が漏れそうになった。


 声が聞こえてきた方へ振り向くと、あまりにも奇妙としか言いようのない『何者』かがいた。


 まず、外見から年齢の見当が一切つけることができない。若いと言われればそう思うし、実は結構歳をくっていると言われても不思議とは思わない外見だ。


 さらに言えば性別すらも定かではない。男だと言われても、女だと言われても頷けてしまう見た目である。


 かろうじて人種はわかるものの――それもアフリカ系や東南アジア系ではなさそうだと、いえるだけで、それ以上の判断はできなかった。


 要するに人間を形成する人間的な『なにか』を徹底的に普遍化して、あらゆる個性を失わせたような見た目をしているのだ。こんなものを奇妙という他にないだろう。


 こいつが店主なのか? いや、なにを言っている。それ以外誰がいるというのだ?


 そんな自分の理解を超えた存在が目の前に現れたことで、私の警戒心は激しく警鐘を鳴らす。こんなものに関わるべきではない。関わったら超えてはならない一線を越えてしまうかもしれないぞ……というように。


「まあまあ、これでも飲んで落ち着いて」


 と、差し出されたのはどこにでも売っているペットボトルの温かいお茶だった。

 それを受け取るべきは少しだけ悩んだものの、もうどうにでもなれ、と思った私はそのお茶を受け取ることにした。


 そうだ。どうせ私には失うものなどなにもない。持たざる者が怖がってどうする。持たざる者にできるのは怖がらぬことだけではないか。もし仮にこれで死ぬのならば、それはそれで構わない。どうせ今まで生きてこれたのだって不思議なくらいなのだから。


 火傷しない程度に温かいペットボトルを開けて、その中身を一口飲む。すると、ちょうどいい熱さのお茶が身体の中を少しだけ暖めてくれた。


「いやあ、それにしてもいつの間にか寒くなったねえ。もう十一月なんだから当たり前なんだけどさ」


 なんの変哲もない話だが、異常としか言えないくらい奇妙な者に言われるとやけにおかしく感じる。そのおかしさのおかげか、一番初め目にしたときからこの店の主に抱いていた警戒心が少しだけ解かれたような気がした。


「落ち着いたみたいだね。よかったよかった。さっきみたいに警戒されちゃうと話もできないからね」


 店の主はそこで一度言葉を切り、薄く笑みを浮かべ、


「で、なにをお望みかな? なにか望むものがあるからここに来たんだろう?」


 と、言葉を繋ぐ。


 やはりその声も、異様なほど普遍化されて、『個性』が徹底的に欠けている。

 その言葉を聞いて、私はこの店に入る前に抱いた疑問に立ち返ることになった。


 こいつはなにをどうやって、私の望みを叶えるというのか?


 いや、望むものを提供するのだったか? まあそんなものどちらでもいい。どちらであったところで、それが不可能であることに違いないからだ。


 だが――


「ん? その顔を見るに、きみは疑っているね? ここにはきみの望みをどうにかできるわけがないと、そんな風に思っているね?」


 いや――と言おうとしたが、言われた言葉があまりにも的確であり、そして否定しようもない事実だったので、その言葉は口から出すことができなかった。


「いいよいいよ。別にそんなの。疑われたことに憤慨するほど狭量ではないし、そもそもいきなりこんなことを言われて、疑いを覚えない方がどうかしている。安心しろよ。いまのきみの反応はいたって正常だ」


 目の前にいる主人がどのような考えでそれを言ったのか私にはわからない。しかし、正常だというその言葉が存外に私の心を震わせたのは事実だった。


「きみの望みを聞こう。きみはなにを求めている? 言ってみるといい。僕ができる範囲でなら協力をしようじゃないか」


 個性の欠けたその声は確信と自信に満ちていた。その確信の強さに私の心はさらに揺さぶられる。

 何故だ。どうしてこいつの言う言葉にはそんな力を持っているのだろう。


「私は」


 言うな、と確かに私の理性はそう軽傷を鳴らしている。それなのに、心と理性が分離してしまったかのように私の口は言葉を紡ぐ。それに抗うことはできなかった。


「私は、幸せになりたい」


 一度決壊して溢れ出した言葉の奔流は止められない。


「私にはなにもない。だから誰もが当たり前に持っているものでも構わないからそれが欲しい。父親は借金を作ってどこかに消えた。母親は男の尻ばっかり追いかけてなにもしてくれない。まわりは、社会はそんな私のことを誰も人間扱いしてくれなかった。汚い家畜以下の存在としか思ってくれなかった。どうして? 私がなにかしたわけでもないのに、まわりはそう勝手に決めつけて、私のことを排除すべき敵としか見てくれなかった。そんなのおかしい。それでも私は正しくあろうとしてきた。ずっとずっとそうしてきた。それでもまわりは私のことを認めてくれなかった。哀れで汚くてみじめな私のことを遠くから指さして笑うだけ。どうしてなの?私みたいな人間はなにも望んじゃいけないっていうの? そんなの絶対――」

「うん。そうだね。間違ってる」


 店の主人は私の溢れ続ける私の言葉にそう割り込んで告げた。それを聞いた私は言葉を失って呆然としてしまった。


「でも、ヒトという生き物は自分とは違うものを徹底的に嫌う傾向にあるというのもまた事実だ。


「だからといって、きみが幸せになるべきではないというのはおかしいし、そもそも間違っている。普通みんな嫌な思いをするよりいい思いをしたいと思うのは当然のことじゃないか。


「まあ、嫌な思いをしたい、いい思いなんてしたくないっていう変態もいるかもしれないけどね」

「…………」

「幸せになるというのは本来誰にだって許されているものなんだよ。超えてはいけない一線を超えてしまったら別かもしれないけどね。僕が見たところ、きみはそんなことはしていない。


「いや、それどころか、あれほど理不尽に社会から排斥されていながら、ずっと『正しく』あったことは尊敬すべきことだ。そんな子が幸せになってはいけないなんていうのだったら、その社会の方が狂っているよ」


 まるで古くから私のことを知っているかのような口ぶりでそう言う。


「なら私は……どうすればいいんですか?」


 私はそう訊いた。訊かずにはいられなかった。

 名前も知らない誰かであってもそう言ってくれることはありがたいことだと思う。


 だが、どうすればいい?

 今までなにをしても、どうやってもそれを許してくれなかったのに。


「ふむ。そうだね。少し待ってくれないか。きみのその願いを手助けするものがあったはずだから」


 主人はそう言って奥の方へと消えていった。あまりにも平然とそう言ってきたので拍子抜けしてしまうほどだ。

 すると、主人はすぐに戻ってきた。その両手に大きな箱を抱えながら。


「きみの願いに手助けができそうなのはこれだね。持っていくといい」


 そう言って主人は大きな箱を私の横にあったなにもない棚に置いた。その予想外の行動に私は困惑してしまう。


「どうしたんだい? 持っていきなよ。ああ。もしかしてただでもらうのは嫌かな? そんなこときみが気にすることじゃあないよ。こう言ってしまうのは失礼かもしれないけど、きみの話を聞く限り、お金に余裕があるようには思えないからね」


 私はどうするべきなのかわからなかった。本当にそんなことをしてもいいのだろうか、という思いばかりが浮かぶばかりだ。


「きみは今まで途轍もなく苦労を重ねてきた。それも自分ではどうすることもできないことが原因で。そうであったにもかかわらずきみは道を踏み外すことなく今まで生きてきた。僕はそのことを心の底から素晴らしいと思っているし、尊敬もしている。まあ、見知らぬやつにそんなこと言われても信用できないだろうけどね。


「でも、一つ考えてみてほしい。ついさっき会ったばかりの相手のことを騙して僕になんの得がある? 騙すんだったら、もっと騙す価値があるやつを騙すよ」


 それは私には騙す価値がない、ということではあるが、確かに私のことを騙してなんの得もないことは紛れもない事実である。


「……わかりました。そう言うのなら、お言葉に甘えて」


 私はすぐ横に置かれていた大きな箱を手に取った。それは、箱の大きさとは裏腹に軽いものだった。


「うん。それでいい。いまこのときからそれはきみのものだ。自由に使うといい。けど、気をつけてほしい。いま渡したそれは危険性がある。使うのなら、それを承知してから使ってくれ」


 何故そんなことをわざわざ言うのだろう、と思ったのだが、すぐに便利なものというのは、程度の差こそあれ危険性を持ち合わせているということにすぐに気づいた。


 危険があったところでなんだというのだ? 危険なんてどこにでも転がっているものだ。


「わかりました。ありがとうございます」

「いいよいいよ。そんな風にかしこまらなくたって。それがちゃんとわかっていればそれで構わないんだから」


 主人のその言葉を聞いて、私は一度頭を下げてから振り返って歩き出した。

 今まで感じたことがない充足感に私は満たされていた。

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