第4話 魔女 一
ヴェスタは、己の愚かさに苛立った。
なんという失態であろう。黒い魔神族を呼び込むとは!
心落ち着かせんがためにつぶやいた、短い古い四行詩に惹かれたのだろうか。
ただの使い
妖魔の方は、ヴェスタの気持ちを知ってか知らずか、鏡の中からにやにやと笑いながら、ただ眼だけは射抜かんばかりに鋭く、彼女の反応を観ているのである。またそれが彼女の姿を映し盗り、うり二つの顔貌で情動を返してくるのが面白くない。ますます神経を逆撫でしていく。
だが、呼び込んでしまったものは仕方ない。早急に立ち退かせるまでと、そのよき方法を偉大なる大神の御名を讃えつつ、魔を払う算段を考慮し始めたのである。
* * *
忌まわしい視線を無視して、化粧を続ける。彼女は再び舞わねばならないのだから。
化粧筆を持ち直すと、慣れた手つきで眉を引いた。細すぎもせず、太すぎもしない、尻上がりのすっきりとした眉が描きあがる。魅惑的なマズムール風の、目元の切れ上がった大きな
紅は、売りつけた商人が、遠い東のカラ・シーン国に咲くと牡丹という花と同じ色だといった、艶やかな濃紅色にした。
髪を
上半身を装飾するものは、
腕を動かしたときの効果を狙って、華奢なデザインの腕輪を幾つも両腕に通す。
以前に、ラタルの遊郭で見た娼婦がこんな姿だったと思い出すと、顔が笑った。うんと妖艶な踊りを披露してあげようか。
先ほどまでの興奮も引き、少しばかり肌寒くなってきたので、なにか羽織るものが欲しくなった。このあたりの土地は、昼は灼熱の太陽が火膨れするほど強く照りつけるが、夜はぐっと温度が下がり寒いくらいだ。
ヴェスタの肌も、寒さを訴え始めている。いかに男たちを挑発する気でも、この恰好のまま歩くのは考え物であろう。
目に留まったのは、銀糸の薔薇の刺繍を散らしたショール――これは帝都のある高貴な人物より賜った、彼女自慢の品だった。
見るものが見れば、この品を贈ったある人物というのは見当がつくだろう。すれば、マシマエヤータの総督とて、ヴェスタを易くは扱うまい。
はたまた今宵寝所へ侍ることとなり、芸人の務め――芸人がその躰と引き換えに貴人の保護を求めるのはこの時代の習慣であった――を果たした後、再び篤い恩恵に与れるやもしれぬ。
そんなことを計算しながら、ヴェスタの指は耳飾りを選んでいた。
どれが良いだろうか。やはり、銀を――絹のショールの刺繍に合わせ、銀細工の見事なものを。
小箱を開き、なかにある幾つかのうちから、彼女の育ての親で踊りの師匠でもあったナヤハから譲られた、マズムール風の透かし模様に、幾色かの天然石を組み合わせた、垂れ下がると肩まで届きそうな大ぶりのデザインのものを手に取る。
この耳飾りはヴェスタが最も大切にしているものだった。彼女はナヤハから、ナヤハはその師からと受け継がれ、幾人もの美女たちを飾ってきた一品。
もとはどこかの王がその寵姫の機嫌を取るために、特別に細工師に造らせた品だったが、耳飾りが出来上がった時にはすでに寵姫は殺されていたとか、王の愛を拒み続けたその妃は、出来上がった耳飾りを宮殿の前にいた物乞いに与えると、自らは塔の上から目を投げた――などと不吉な噂ばかり付き纏った品。しかしヴェスタたちヒタノの舞姫は、そんな言い伝えなど、一向に気にしていなかった。
むしろ、素晴らしい財産として誇らしげに身に付けていた。確かにこれだけの品は、サナルの皇女たちさえ、数多くは所持していまい。
おまけにこの耳飾りは、舞踏手のなかの舞踏手と呼ばれ、詩人アム・シャリークの長詩にも讃えられた美女アリシャルゆかりの品でもある。彼女の死後、ヒタノの舞妓たちの中で、最もその後継者にふさわしい美貌と、才知と、技量をもつ女に受け継がれてきたものなのだから。
耳飾りを軽く摘まんで取り上げ、耳元へと運んでいく。頭を振ると、チリチリリという涼しげな音が踊る。派手な顔立ちのヴェスタには、この耳飾りはよく似合った。
* * *
さぁれ彼女は化粧に夢中で妖魔なぞ忘れた風であったが、実は抜け目ないヒタノ女らしく、視線を合わせぬよう注意しながら、鏡の中の、自分と同じ
ヴェスタが下を向けば同じように下を、横を向けば横を、顎を上げればそのように、悪意を仄めかしながら真似してみせる。その追随ぶりが癪に障る。
(ああ、忌々しいこと!)
先刻収めたはずの怒りが、矛先は違えど、再び沸々と音を立て始めた。なんとか押さえつけ、平静を装うとも、ヴェスタの胸の内などすっかり見透かされていたようだ。妖魔の
ヴェスタは急ぎ視線を飛ばした。妖魔の手口は見え透いている。怒りで分別の見境を無くし、惑うたところを術の虜にしようというのだ。まずは視覚から、幻惑の領域に連れ込もうという腹であろう……と狡猾な舞踏手は読む。
(そんな
合わせ鏡のふたりのヴェスタは、同時にせせら笑いを浮かべていた。
(……ああ、こんなところで
そう思うと、急に銀貨三〇枚が気になった。急がねばなるまい。
化粧が終わった舞妓は、その出来栄えを確認しようと、ちらと鏡を伺った。その一瞥が、妖魔の視線と噛み合った。
二度目の過ち――!
ニタリと、鏡の平面の貌だけが頬の肉を動かした。
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