第3話 舞踏手 三

「あー、痛ッ。ヴェスタは昔から何か気に入らないと、僕に乱暴するんだもんな。凶暴な姉を持った弟ってのは、悲惨だね。弟をなんだと思ってんだよ。ヴェスタも姉さんぶるんならさぁ……」

「お喋りカナヤ。用件だけお言い! さもないと、その舌、引っこ抜いてやるよッ!」

「おあいにくさま。僕は吟遊詩人アシックなんでね。舌の回らない吟遊詩人アシックなんて、どうしようもないじゃないか。もっとも、舌も回らない無口な人間が、吟遊詩人アシックになろうなんて考えないだろうけどさ」

「カナヤ!!」

 ヴェスタの癇癪玉が破裂した。

「分かったよ。――ここの殿様シディが、ヴェスタのもう一度、踊って欲しいってさ。だから早く化粧を直して出て来いってタシュ親方が……」

「もう一度ですって! 冗談じゃないわ。あたしは続けて五曲も踊ったのよ。このタシュ一座にはあたしの他に、踊り手は三人もいるのよ。なぜ、あたしが六曲目も踊らなければならないのよ!」

 今夜は特別機嫌が悪いらしい。いきり立つ姉の姿を、半ば呆れ顔で弟は見ていた。骨ばった脚を窮屈そうに折り曲げて、首を引っ込めなるべく小さくなって、姉の怒りの一陣が頭の上を無事通過したのを見計らって口を開いた。

「ヴェスタ、頼むから癇癪を鎮めてくれよ。僕はまだ最後まで、喋っちゃいないんだぜ。悪い癖だよ。気が短くて、怒りっぽくて、そうやって頭ごなしに人に喰ってかかるんだから。これじゃ、誰もヴェスタとまともに話すことはできやしない」

 姉の反応を見ながら、カナヤは話を続ける。

「ここの殿様が、ヴェスタの踊りにいたく感激なさったらしいんだ。まあ、当たり前だよな。ヴェスタの踊りはイ・クミスの斎宮姫様サジャースでさえ、お褒めになったんだから。僕も見たかったよ。あのころはカル師と一緒に座を離れていたから、この目で見られなかったけど……」

 カナヤは思い切り意地の悪い顔をして見せた。図らずもその顔は、姉のヴェスタがついさっき見せたその顔にそっくりであった。



「語り草になっているもんな。イ・クミス大神殿の奉納舞台、僕ら芸人に取っちゃ一生一度の晴れ舞台に、主神に捧げるって上半身裸になってかなり踊りを踊ったって。

 生真面目な斎宮姫様サジャースは呆れ果てお声も出ず、柳眉を逆立てられるも、調度その場に同席しておいでの弟皇子様のお執り成しで、ようやく怒りを鎮められた。品位には欠けたものの、踊り自体は素晴らしいものでしたとお褒めくださったんだろう。あの豪気なタシュ親方の寿命が三年縮まったって云う有名な話だ。

 品位がどうのってお怒りになりながらも、踊り手の値踏みをしっかりなさっているって処は、さすがっていうか、すごいよな。やっぱりバッファーン家の皇女様だっていうか……

 ヴェスタも、そう思っただろ。

 ――で、その斎宮姫様サジャースのおかげで、ヴェスタも一躍名が売れて、ご贔屓の旦那様お殿様が増えたって訳だ。『たかだか流浪の民ヒタノの踊り手風情が』だぜ。性格は悪いけど、踊りの方は一級品だもんな。……ああ、これは贔屓目無しに褒めてんだぞ。それに言っちゃあ悪いけどさ。ヴェスタの舞いの後じゃ、他の三人が束になって張り切ったって敵わないんだよな。下手をすりゃ、興醒めしちまう。それじゃ、不味いじゃないか」

 ヴェスタの黒い瞳が、どうしたものかと動いている。彼女はまだ若く自分に大層自信を持っていたので、人から誉めそやされ、高く評価されるのが大好きだった。特にイ・クミスの斎宮姫サジャースに賞賛されたことは、すでにアルイーン中に知れ渡っており、彼女の自慢ひとつであった。

「それで。……だから、どうしたのよ」

 つい自慢気に、顎を上げて、人を見下すような目線になってしまう。

「ここの殿様シディが、ヴェスタの舞いが噂以上に素晴らしかったので、褒美を授けたいっておっしゃったのさ。特別に銀貨三〇枚、くださるってさ。気前のいい殿様シディだよな。親方も御前に上がり、杯を頂いちゃってさ。すげぇ、上機嫌なんだから。

 だから早く化粧を直して、衣装を付けろよ。じゃないと、せっかくの銀貨三〇枚、親方の懐に消えちゃうかもね」



「それを早くお言いッ!」

 ヴェスタはあっという間に飛び起きると、そのまま鏡へと向き直った。

 くしゃくしゃになっている髪に櫛をあて、真剣なまなざしで崩れかけた化粧を直し始める。すでに頭の中では、どの衣装が今夜の自分を一番美しく見せることが出来るかと、正確にはじき出そうとしていた。

 カナヤは姉のその姿が面白くて、こっそり笑っていたが、化粧鏡に映り込んでいたらしい。ヴェスタがいきなり何かを掴むと、振り向きざまに彼に投げつけてきた。

 それは彼女が踊りに使用する小道具で、飾り細工の美しい華奢な短剣であった。小道具とはいえ、護身用にも使っている剣で、もちろん人を傷つけることもできる。

 咄嗟に右腕を庇いその場を跳び退いたが、勢い余って天幕テントから転がり出てしまった。

「ヴェスタのばか野郎。僕を殺す気かよ!」

 声高々に笑う姉に向かって、カナヤは怒鳴った。少し間違えば、大事な右腕を傷つけられてしまうところだった彼は収まらない。

 急いで立ち上がり、ズボンに着いた砂を叩き落とすと、姉の天幕テントを張っている杭の一本を蹴飛ばした。

「早くしろよな!」

 捨て台詞を吐きながら、弟は駆け去って行く。


「あの野郎、覚えておいで!!」

 カナヤの怒りを受け止めた杭が外れ、天幕テントを張る綱が弛んだ。簡素な造りだから、たちまち一角が崩れ傾いてしまった。流浪の民である彼女らに取って天幕テントは家である。それを壊すとは、なんたる仕打ち。

 再びヴェスタの怒りは頂点まで駆け昇ろうとしていたが、クード弾きの利き腕を傷つけてしまうところであったあの行為は、狙いを外してあったとはいえ軽率だったかと思い直し、怒りを引き摺り下ろす努力を始めねばならぬ事とあいなった。

 まだ化粧も直し終わっていなければ、衣装も着けていない。カナヤの無意味なおしゃべりに付き合っていたおかげで、支度はなにも出来ていないのだ。

「冗談じゃないわ。こんなところでぐずぐずしていたら、銀貨三〇枚、業突く張りのタシュ親方の懐に消えちまうじゃないのさ! そんに事になったら、あの子のせいだからね」

 総督ナキーブでも、大臣ワジールでも、王侯貴族アミールでも、特権階級にあるものは、早急で気が変わりやすいものであることは、今までの経験からよく学んでいた。

 その上、今マシマエヤータの総督の御前には、欲深い親方がいる。タシュ親方の懐にしまわれようものなら、二度とお目に掛れないのは、ほぼ間違いないのだから。



 不意に――――。

 ヴェスタの躰がピクンと震える。

 一瞬だけ眼を見開いた彼女は、急いでまだカナヤへの怒りを綴っていた朱い唇をきゅっと引き締めると、居住まいを正し、目を伏せる。大きく躰の奥底まで吸い込んだ空気を静かに吐き出す。

 唇がわずかに開き、なかで薄紅色の舌が動き出す。なにやら唱えているように見える。

 すると彼女を包む大気が、しんと音を立てて冷たく重くなった。その中央で、彼女が空間を支配している。

 やがて女支配者は静かに目を開き、一介の流浪の民に戻った。しかし、その表情が冴えない。不満が漂っていた。

 注意深き観察者ならば、その瞳に宿る不満の種が、先程までのものと違うことに気付いたろうか。なにげなさを装いながら、目だけは周囲を探り続け、次第に殺気を帯びてくるのがわかったろうか。

 だが、そこには秀でた観察者は存在しなかった。が、それは幸いだったかもしれない。

秀でた者が必ずしも、大胆な心臓を持っているとは限らない。いや、その反対の場合が多い。小心ゆえに鋭くものごとを観察し、細心の注意を払うものだ。

 臆病な心の持ち主は、その時その場に居合わせなかったことを、偉大なる主神に感謝したであろう。



 さて、ヴェスタである。彼女は鋭い眼を持ち、注意深くもあったが、決して小心者ではなかった。むしろ大胆であり、その繊細さも、そこに紛れてしまうことが多い気質だった。

 この時彼女は、まず小心者の注意深さで周りの空気を探り、そして自分の犯した失敗を認めると舌打ちしたのだった。

(影や夜、光の届かぬ闇に巣喰うものの匂い!)

(黒い魔人族が、この天幕のどこかに潜んでいる……)

 かすかな異臭がそれを告げる。

 ヴェスタの黒い双眸が動く。

 魔の潜む影を探り出そうと天幕の隅を探り、背後を警戒し、忙しなく移動していたが、やがて一点で止まった。

 見つけた――と、彼女はにんまりとほほ笑む。



 それは鏡の中に潜んでいた。

 己が目の前、化粧鏡に映る影。

 ヴェスタと同じ顔をした、妖しい美貌の魔族ジンが、鏡の向こうから微笑していたのだった。




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