第30話 二人分の命
日に日に大きくなるお腹を抱えながら、海音は変わらない日常を送っていた。勝利のために食事を作り、生まれてくる子供のために掃除をし、三人で暮らすその日のために家の中を整えていた。
妊娠25週(7ヶ月目)に入った頃、ようやく性別が分かった。運良くその日の検診は勝利も一緒だった。
「ショウさん、聞いた感想は?」
「そうだな。予感が当たったって言ったら笑うか」
「え、すごい。当たったの?」
「ああ。なんとなく、ずっとそうだって思っていた」
お腹の赤ちゃんは男の子だった。なぜかずっと大切な部分が見えなくて、この時期まで確定が伸びていた。医師はお尻の形から分かっていたらしいが、はっきりと分るまで黙っていてくれたようだ。
「男の子かぁ。ふふっ、チビショウさんがここにおるったいね」
「どっちでもいいんだけど、最初が男だと安心するな」
「安心?」
「俺は、まだ飛んだり潜ったりするだろ? 留守の間はチビが海音を護るんだ。ああ、ビシバシ鍛えてやらないといけないな」
「生まれる前から大変やね、おチビさん」
勝利はまだまだ現役でいるつもりだ。それは海音も同じで、本人が限界を感じるギリギリまでオレンジでいて欲しいと思っている。
「楽しみだな。あーそうだ。名前、今から考えておくか……海にちなんだ方がいいのか。いや、そこまでしなくてもいいよな。うーん」
「考えすぎて、海に落ちんでよ?」
「落ちても死なないから心配するな」
「なんそれ」
初めての妊娠で、7か月を過ぎてもまだ海音のお腹は目立つほど大きくはない。けれど男の子だからか、たった数週間で胎動が大きくなりはじめる。しかも夜中、深い眠りに入ろうとすると活動開始する。昼間はあまり気にならないのに、夜は敏感になっているのか余計に強く感じていた。
医者は、これはまだまだ序の口で、子宮が下がり産み月に入るともっと大変なのだと言う。でもそれは元気な証拠だから、お母さん頑張ってねと励まされた。
「お母さん、か。勝利さんは、お父さんね」
「改めて言われると、照れるな」
妊婦の海音には、この時期がいちばん動きやすい時期でもあった。二人は話し合い、準備できる事はしておこうとリストアップした。安定期だといっても何があるか分からないのが世の常だ。突然の入院にも対応できるように、簡単に荷物もまとめた。
そして、定期的に洋服の入れ替えをして万が一に備える。もしもの時は海音の両親に連絡がいくよう手配もした。本来ならば、夫である勝利に一報を伝えるべきだろう。しかし、特殊な任務や訓練、救難に出動している時は連絡のつけようがない。それに連絡がついても外せなければ、勝利の精神の負担になるだけだ。勝利はそれでも知らせて欲しいと言った。しかし海音がそれだけは譲らない。
「チビショウさんは大丈夫。いちばん心配なのはショウさんです。吊り上げの途中で放って帰ってこられても、私もこの子も歓迎しませんからね!」
「分かったって。けど、基地にメモくらいは残すように言ってくれよな。終わったらすぐに行けるだろ?」
「はいはい」
「はいはいじゃないんだって」
医師にも勝利の仕事の事情を話し、万が一、緊急手術が必要になった場合は、本人の同意と海音の両親の判断に委ねると一筆書いた。本来はどんな状況でも、夫の承諾がなければ手術の手続きが行えない。医師はギリギリまで連絡はするけれど、最終的にはこの書面を生かすと承諾してくれた。あとはその万が一が起こらないのを祈るのみ。
臨月と呼ばれる月に入ったら、海音は実家に帰る。本当は兆候が表れるまで勝利といたいと思っていた。しかし、今でも心配そうにお腹を触る勝利を見たら、そこまで一緒にいてはいけないと思ったのだ。
海音31歳、勝利43歳。空が夏色に染まり始めた頃だった。
◇
秋の匂いが強くなり始めた頃、海音は34週を迎えた。お腹はずいぶんと大きくなり、日常生活もだんだん支障が出始める。
予定より早く海音は実家に戻り、来たるべく日を待つことにした。勝利は任務が明けた朝、一旦自宅マンションに戻り日々の洗濯や掃除、そして仮眠を取ってから海音の実家へ向かう。勤務明け、すぐにでも来そうだった勝利に海音は釘をさす。
「寝不足のショウさんは出入り禁止やけんね。私たちは逃げんちゃけん。分かった?」
海音だって会いたいのは山々だ。しかし、過酷な任務に就いている夫には、きちんと休息を取ってもらいたい。
「分かったよ。余計な心配をかけるわけにもいかないしな。ちゃんと寝てから行くよ」
「そうよ。ショウさんのその腕には、たくさんの人の命がかかっとるんやもん。大事にして」
「何を言ってる。この腕はお前たちを抱きしめるためにあるんだっ」
「んんっ」
勝利は抱きしめるふりをして、ぶっちゅぅと海音の唇に吸い付いた。せめてこれくらいは許してくれよと言いたげに。
「よし、行ってくるか」
「気をつけてね。今日は検診日なの。後でメールするね」
「おう、連絡待ってる。本当に大っきくなったな。もう一人で外を歩くなよ」
「お母さんがいるから、大丈夫」
今回、勝利は海音の実家から仕事に向かう。海音の両親に挨拶を済ませて玄関を出た。その時、海音の父親が勝利に声をかける。
「勝利くん。台風が、近づいているらしい。気をつけて」
「はい、ありがとうございます」
普段はあまり自分から話しかけない海音の父親が、珍しく勝利を気遣った。それが嬉しくて勝利は笑顔で返す。他人だった者同士の絆が、少しづつ深まって新しい命が生まれる。勝利の心はとても満たされていた。これが家族というものなんだと。
◇
「おはようございます。五十嵐隊長」
「おはよう。なんだ、今日は七管区フルメンバーじゃないか。ああ、そうか。アイツのせいか」
「今季最大らしいしですよ」
日本に住んでいれば避けることのできないもの。
そう、台風だ。特に九州は勢力を保ったまま通過する。この頃は局地的な豪雨など異常気象が続いているため、関係各所は神経を尖らせていた。
気象庁の予報では東シナ海から北上し、中国大陸にある高気圧の影響を受けて北北東の進路を取ると発表した。予想通りに進むと長崎県沖から北部九州を包み込むように中国地方へ抜ける。こうなると各島を結ぶフェリーや連絡船、航空路線も運転を見合わせるだろう。
「漁業組合はなんて言ってる」
「高波注意報が出ているので、午後からは見合わせるそうです。船によっては沖に出すものもあるかもしれませんね」
「警戒するに越したことはないな。沿岸区域の警戒は入念にしよう」
「はい」
朝のミーティングが終わると、操縦士の愛海は整備が終わった機体の確認へ向かった。いつ出動がかかってもいいように、勝利たちは待機に入る。波が高くなるとそれを狙って沖に出たがる者もいる。今頃は各海上保安部の警備救難チームが海で警戒にあたっているだろう。
台風の影響を受け始めるのは午後からが本番。公共交通機関は状況を見ながら運行本数を減らし、明日の始発からは運休が決定していた。高速道路も風速が20mを越えるようになると通行止めとなる。公立の小中高は午前中で授業を切り上げ、午後からは休校が決まっていた。備えあれば憂いなしというけれど、この頃はどんなに備えても憂いが消えることはなかった。
「隊長、奥さんもうすぐですよね? おちおち仕事なんてしていられないでしょう」
「そうなんだけどさ、仕事してないと逆に落ち着かないんだよ」
「隊長でもそうなんですか。もっと、どーんと構えている印象ですけど」
「ばかやろう、んなわけあるか。お腹が大きくなるたびに怖くてしかたがない」
「あー、分かります。動かないといけないとか言って、階段昇ったりされるともう、心臓に悪いですよね。こっちとしては寝て居て欲しいくらいです」
「けど医者は、動け動けって言うらしいな」
「ですね」
勝利がどんなに鍛えても、どんなに強くなっても、どうにもできない事がある。手伝ってやりたくても、変わってやりたくても、こればかりは不可能だ。
「五十嵐隊長、そろそろ警戒に」
「おう。行くか」
海上保安庁が保有するヘリコプター、アグスタ式AW139型は要人輸送が可能であり、他国では空軍でも活躍している機種だ。風速20m程度であれば離発着も可能である。過去、台風並みの強風が吹き荒れる中、座礁した船舶から吊り上げ救護をした経験もある。勝利はその時の救難隊員だった。多少の事では動じない勝利と、負けん気がひと一倍強い操縦士の愛海がいる七管区は、ある意味それらに負けない強さがあった。
ーー しろちどり離陸します
ーー 了解。気を付けて
勝利を隊長とし、操縦士2名、救難士2名、救急救命士1名を乗せた救難チームは、玄界灘沖の警戒活動の為、空港基地を出発した。
◇
離陸してから15分。市街地はまだ青空が見えていたのに、沖に出ると雲行きが急に怪しくなった。波はまだそれほど高くはないが、漁に出ていた漁船が次々と港に戻っていくのが見えた。沿岸部は巡視艇が巡回し、浜辺に残っている人々に注意喚起をしている。
「急に怪しくなってきたな」
「ええ。風も出始めましたね」
勝利たちは窓から異変はないか目視確認をしていた。するとその時、本部から無線が入る。
ーー 事故発生。定期連絡船が海洋生物らしきものと衝突。航行不能との連絡あり。管轄の巡視艇が詳細確認中。
「久しぶりだな。鯨か……」
「海水の温度変化が激しいですからね、なんらかの影響があるのでしょう」
「怪我人がいるかもしれない。準備しろ」
「了解!」
ーー 要救護者あり。しろちどり、現場へ急行せよ。
ーー 了解。しろちどり、合流します。
現場に向かいながら事故の状況と要救護者の詳細を待った。通信士より、隊長である五十嵐に無線が渡された。どのような救護をするのか、病院へ搬送が必要なのか、港で消防に引き継げるのか、などの確認をするためだ。
「しろちどり、五十嵐です」
『救命救急士は同乗しているか』
「はい。1名おります」
『要救護者は1名。漁港に救急車を待機させる。そこまで搬送を頼みたい』
「了解しました。詳細は」
『今、確認中だ。分かっているのは20代女性、軽くパニックを起こしていると……』
「パニック……」
会話の途中で無線の向こうが急にざわつき始めた。もっと詳しい情報が入ってきたのだろう。巡視艇を横付けして保安官が定期連絡船に乗り移り、直接確認をしている事は分かった。
『しろちどり、五十嵐隊長』
「はい」
『詳細が、分かりました。怪我はありませんが……ちょっと特殊ですのでよく聞いてください』
「はい」
『要救護者は事故の影響でショックを受け、軽いパニックをを起こしています。付き添いなしのーーです』
「!!」
機内が一瞬静まり返った。救命救急士も顔が青ざめる。なかなか出会わないケースだったからだ。
「聞いたか。おいっ、顔が青いぞしっかりしろ!」
「すみません。大丈夫です!」
「愛海、吊り上げ時のホバリング分かってるな」
「大丈夫です!」
確認してすぐ、目下に対象の船影が見えた。上から見る限りでは事故の形跡は分からない。勝利たちの機体が近づくと、巡視艇の保安官が大きく手を振った。ここに降りてこいと言っているのだ。
「降下準備開始!」
「了解!」
勝利が握るベルトはいつも以上に力が入る。愛海も恐らく緊張しているだろう。それには、十分すぎる理由があった。
要救護者は間もなく34週を迎える妊婦だったのだ。臨月(36週)に入らない限り健康な妊婦であれば乗船は問題ない。彼女は海洋生物との衝突で動揺しているだけだと勝利たちは考えた。
「降下、開始っ!」
絶対に、赤ちゃんも母体も安全に陸まで連れて帰る! 乗務員全員がそう誓った。
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