第28話 その体に宿るもの
結婚をしてから、海音は仕事を辞めた。できるだけ家で勝利の帰りを待ちたいという理由からだ。
昨日の朝、笑顔で見送った夫の勝利は、もうすぐ勤務が明けて帰ってくる。無事に24時間が過ぎることを願うのも妻である海音の仕事となった。あれ以来、特に大きな事件は起きていない。
時計は午後1時を回った。ソファーでテレビを見ながら待っていた海音は、暖かな午後の日差しがさし込むリビングで睡魔に襲われる。
「ショウさんごめん。ちょっとだけ……」
最近はこの睡魔には勝てないでいた。
その頃、勝利は任務からようやく解放されて空港基地で引継ぎをしていた。今回は管轄外の地域への出動があった。もともとの管轄の救難チームは海難事故に出動したあとで、不幸にも代わりに出動すべく航空機がメンテナンス中だった。本来は管轄外である勝利らが、要請により警戒任務の出動を行った。
管轄外といっても、ヘリコプターなら到着までは20分もかからない。海上保安庁が保有するヘリコプターの機動力は昔より遥かに上がっていた。
「お疲れさまでした。今回はなにも起きなくてよかったですね」
「まったくだな。しかし、俺も初めて見たよ。あんな大型コンテナ船でも荷崩れ起こすんだな。またあれを数時間で復旧して、新しい荷物積むんだからプロのすることは凄いよな。機械って言ったって、結局はマンパワーだからな」
勝利たちはある港の、荷崩れを起こしたコンテナ船復旧作業の周囲警戒で出動したのだ。特殊救難隊時代を入れても、見ることのなかった規模の大きな荷崩れに、さすがの勝利も面食らった。コンテナが海に落ちた時の衝撃と万が一それに作業員が巻き込まれたらどうするのか。いろいろなケースをシミュレーションしながら上空で待機をした。ホバリング技術も上がったパイロットの
「第七管区は優秀な保安官が多いって言われるようにしないとな。たまには部長の顔も立てないと」
「じゅうぶん立ててますよ。五十嵐隊長が乗ってるだけで、安心するらしいですからね」
「そんなふうに言われても、なんも出ないからな」
「飲みに誘ってくださいよ。奥さん言いません? たまには飲みに行ったらって」
「そんなこと言われねえな」
「うわぁ。ラブラブ夫婦健在っすか。羨ましいなぁ」
どこの家庭も、時間がたつと二人の時間よりそれぞれの時間が欲しくなる。夫がいつも同じタームで帰宅すると、たまには出て行けとやんわり言われるのだとか。でも、勝利と海音は違う。結婚してようやく1年を迎えた、まだまだ新婚の家庭には、妻が夫の帰宅はまだかとベランダに立つ。
そんな自分の家庭のことを聞かれ、少し想像しただけなのに、勝利の顔はだらしなく歪む。部下たちはそれを見て見ぬふりをする。隊長から奥さんを取ったら、ただの海ゴリラになるんじゃないかと、影で言われるほど勝利の溺愛っぷりは隠せなくなっていた。
「じゃあ、俺は帰る。あとは宜しく」
「はい。お疲れさまでした!」
オレンジの制服から通常の紺色の作業服に着換えて、勝利は愛する妻が待つ自宅へ向けて車を走らせた。
◇
「海が見えるところがいい」そんな海音の言葉で決めたベイエリアのマンション。日常生活でも海が見えないと落ち着かないのは勝利も同じだった。今頃、海音は何をしているだろうか。にやけそうになる顔をなんとか抑えてマンションの駐車場に車を止めた。
「ただいま」
「……」
「ん?」
いつもなら玄関までやってくる海音が今日は現れない。リビングからテレビの音は聞こえてくるので部屋にいるのは間違いない。
勝利は音を立てないようにそっと部屋のドアを開けた。ローカル番組が流れる映像の端に、海音がソファーで横になっているのが映っている。勝利は静かに荷物を置くと、海音が眠るソファーの前に腰を下ろした。
気持ちよさそうに眠る海音を見て、勝利は思わず目を細める。
(そう言えば、最近は眠気に勝てないと言っていたな)
勝利はブランケットに手を伸ばし、海音にそっと掛けてやる。風邪をひいてはいけない大事な体だから。
「ショウさん?」
「お、すまん。起こしたな」
「ううん。ごめんね。寝とった。お昼ごはん出すけん待っとって」
勝利の気配に目を覚ました海音は、すぐに起き上がろうとする。勝利はそんな海音の肩をそっと押える。
「それくらい自分でするから寝ていろよ」
「起きるよ。せっかくショウさん帰ってきたのに、寝ときたくないもん」
「海音」
そんなふうに可愛く言われたら、体を休めろと強く言えなくなる。勝利は海音の体をゆっくり起こしてやった。
「おかえりっ、ショウさん!」
海音がにっこり笑顔で首に絡みついてきた。
「あれ? 潮のにおいがずいぶんと濃いね。お仕事たいへんやったと?」
「臭いだろ。俺、先にシャワー浴びて来る」
「やだ、まって。もしかして、海に入ったの?」
「いや。今回は上から見てただけだな。半日海風にあたってたから潮臭いんだろう」
「そっか。でも、ショウさんの体についた潮の香り好きなんよ。もうちょっとだけくっついときたい。だめ?」
「だめじゃ、ないけどさ」
ただでさえこの頃はそういうことを控えているのに、自分の匂いが好きだと言われたら男の事情が騒ぎ出す。そんなことはお構いなしの海音は、鼻先を勝利の首筋に押し当ててスリスリ、スンスンしている。
(うちの嫁は本当に海猿殺しだな……)
「海音。あんまりそんなふうにされると、困るんだよな。ほら、ここだけ元気になってんだよ。
「え? あ、本当だ。いいよ? ショウさん、シテも」
「ダメだろう。大事な体なんだ、俺は絶対にいやだぞ。無理はさせたくない、あ! 口もだめだからな」
「えぇ。大丈夫なんに。先生からもいいって言われてるよ。今の時期を逃したら、暫くできなくなっちゃうんだよ? ショウさん?」
「……いや、我慢する」
海音のお腹の中には勝利との赤ちゃんがいる。間もなく妊娠6か月を迎えようとしていた。いわゆる、ハネムーンベイビーというものだ。地球の反対側で、二人して大ハッスルした時の結果が今ここにあった。
「ショウさん。我慢はよくないよ? それに妊娠中の浮気がいちばん多いって。奥さんにその気がなくなって、旦那さんが寂しくなるって。母になったら、女じゃなくなるんだって」
「なあ、海音。俺は海音もお腹にいるこいつも、愛しているんだ。女じゃなくなる? 誰だ、そんな事を言うやつは。海音はいつでも俺を男にするいい女だぞ。不安なことは何でも言えよ? 俺、鈍感だし、こう言うのは初めてだ。海音の心の変化に、気づいてやれないのがいちばん怖いと思っている」
勝利は海音の腰を優しく抱き寄せた。まだお腹の膨らみは目立たないけれど、二人分の命の重さを勝利は感じていた。
そんな勝利も不安だった。女は妊娠したその時から母親になる。しかし、男は生まれてもなかなか父親になれないと誰かが言っていた。
勝利は海音のまだ小さなお腹を服の上から恐る恐る撫でる。何に変えたって二人の事は俺が護るんだと心に誓いながら。
「ショウさん。私、なんでも話すけん。だからショウさんも話して。ね?」
「ああ、勿論だ」
勝利は海音の額にキスをした。
「やっぱり先にシャワー浴びてくる」
「分かりました。着替え持っていくね」
◇
バスルームのドアの向こうに、日々の訓練で鍛えられた大きな体がある。どんなに過酷な現場でも己の力のみで耐え忍ぶ、屈強な精神と肉体。あの体が多くの人々の命を救うのだ。
―― ガチャ
海音がドアを開けると、シャワーのお湯に打たれたながら、お湯も
「海音! おい、どうした。驚くじゃないかっ、お、おおいっ」
「ショウさん。お背中お流しします」
何も身に着けていない、タオルさえも持たない海音がバスルームに入ってきた。
勝利は驚いて一瞬動きを止めたが、海音が濡れた床で滑ってはいけないと、そっと手を差し伸ばす。そして海音の体を冷やしてはならないと、シャワーの下に連れてきて背中からお湯をかけてやった。
海音は黙って勝利の顔を見上げている。
「何見てるんだ? 昨夜、入らなかったのか」
「ううん。入ったけど、なんとなくまた入りたくなったと。見て、お腹。ちょっとだけ膨れてきたとよ」
「ん? ああ、少し大きくなったな」
「うん」
勝利は海音のぽっこり出ている下腹に手をやった。ここに自分の子供がいると思うと、なんとも言い表しようのない気持ちになる。嬉しいのにちょっと怖くて、泣きそうになる。
「夜寝てるとね、お腹の下からポコポコ音がすると」
「もう動くのか」
勝利は海音の体の変化を聞きながら、優しくそのお腹を撫で続ける。
「元気に育てよ。母さんをあんまり苛めないでくれな。俺が居ないときは、代わりに慰めてやってくれ」
「ショウさっ」
勝利は床に跪いて、海音のおへそに口づけた。勤務シフトのせいで一緒にいられない夜がある。だからその分お前が守ってくれよと気持ちを込めた。自分が居ない夜はどれぼど不安だろうか。大きくなるお腹を一人で抱え、寝返りを打つ姿を思うと胸が締め付けられる。
「俺が陸にいる時に生まれてこいよ! わかったな」
「ショウさんってば。もう、ふふっ」
「絶対に立ち会うんだからな、頼むぞ」
あと4か月もすれば、新しい命がこの世に顔を出す。勝利はその時だけでも緊急出動がかからないようにと、心の中で祈った。
「救難優先でお願いね? トッキューさん」
「了解っ」
その時に夫がいなくても、立派に産んで見せますと海音も心の中で誓った。
「楽しみだな」
「うん!」
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