第26話 オレンジ色の救世主
「ただいま」
約三日ぶりに二人の家に帰ってきた勝利は玄関のドアを開けた。
「おかえり」
穏やかな笑みを浮かべた海音が玄関に立っている。
たった四文字の言葉が今日は体中に染み渡っていくようだ。耳から入った互いの言葉が脳内を一掃して、頬を緩ませて、胸の奥を優しく撫でていく。当たり前の、義務のようなその言葉がこんなに尊いと思えるなんて。
勝利と海音はどちらからともなく、玄関先で抱擁を交わし、顔を見合わせて笑った。
「まさか海音が助けに来るとは思わなかった」
「私も連れて行ってもらえるなんて思わなかった。海上保安庁の皆さんに感謝です」
「初めて助けられたよ。オレンジに」
「そうだね。ショウさんはいつも助ける側やもんね。私の後ろに救難士の方がいてくださって」
「そのオレンジじゃない」
「え? えっ」
勝利は靴を脱いで、海音を抱き上げてリビングに移動した。二人で選んだ革張りの大きなソファーに、勝利は海音をドサリと降ろした。
「ショウさん?」
「俺のオレンジは、海音おまえだ。目の前に広がったオレンジは海音だった。ありがとう。俺を見つけてくれて」
「しょうり、さん」
そう言うと勝利は膝をついたまま、海音の肩口に顔を埋め甘えるように鼻を擦りつけた。
海音の甘くて優しい匂いが、勝利の
「聞いてくれよ。一週間、休みを貰えたんだ。海音が休める日があるならどこか行こうか」
「え? でもそれって、ゆっくり休みなさいっていう意味じゃないと?」
「だからだよ。見ろよ、この通り元気だ。あとは海音からお預けくらってへこたれた心とコイツが元気になれば完璧だ」
「ちょっと、へこたれたって……全然へこたれてないやんっ。……あんっ、もう。そこに座っとって。とりあえず、お茶を淹れるから」
それでも、勝利は海音から離れようとしなかった。お茶を淹れるためにキッチンに立った海音を追いかけては抱きつく。危ないからとやんわり断られても聞こえていないふりをする。それどころか、海音の髪を横に流してうなじに唇を押し当てるしまつ。
とにかく、海音に触れていたかった。
ソファーでは、並んで座るのではなく勝利が海音を膝の上に乗せての態勢。顔がくっつくくらい寄せて離そうとしない。
「ねえってば。私、何にもできないよっ」
「心を落ち着かせているところなんだぞ? 頼むからじっとしてくれ」
「これのどこか……っ。落ち着けて、んっ」
勝利は海音の抵抗もどこ吹く風で、自分のやりたいようにスキンシップを続けた。
「で、休めないのか」
「聞いてみるけどっ、一週間は無理だよ。あっ、だめっ。痕つけちゃ、ひんっ」
イタズラに動き回る勝利の鼻先と唇が抵抗する海音に熱を与える。服の上から海音の躰を鼻で突くと、真っ赤になった顔で勝利を睨みつけていた。
(そんな顔してもダメだな。可愛い過ぎる。逆効果なんだって、教えてやった方がいいのか……あ?)
勝利は頬をクッと上げてニヤと笑った。
「しょ、ショウさん」
「なんだ」
「なんか嫌な予感がするんやけど。ご、ご飯食べよう! ご飯。炊き込みご飯だよ~」
「それは楽しみだな」
「えっ」
勝利は拘束を解こうと躰を起こす海音をひょいと抱え上げた。驚いた海音は反射的に勝利の首に腕を絡める。
「ねぇ、ご飯は?」
「食うさ。後でな」
「もしかしてっ、今から!?」
「解禁でいいんだろ? とにかくコイツが使えるのか確かめないと不安なんだよ。なんせひと月も未使用だったからな」
海音がそんなわけないでしょうと眉をひそめる。勝利は抵抗しても無駄だぞと海音を男の視線で捕らえる。
そのまま寝室へ移動して、海音を静かにベッドに下ろした。
「ショウさーーっ」
勝利は海音の言葉を唇を押し当てて遮った。
(もうなにも言うな、諦めて受け入れろ)
「海音」
勝利の大きな手は、休むことなく海音の躰を上から撫でている。その手はいつも以上に心をのせて優しく暴く。
「あっ……いや」
「いや、か」
「違っ。ん、あっ、待ってショウさん。聞いて欲しいことがあるの」
「ん? なんだよ。言えよ。ほら、まだ何もしていないぞ。撫でているだけだ。服だって乱れてはいないぞ」
もうひと押しで海音は観念する。勝利はそう確信していた。しかし、勝利は海音に思ってもいない言葉を告げられる。
「わたしっ、ショウさんに謝りたいの!」
「はあ?」
その予想外の言葉に勝利はとうとう手を止めた。
(謝りたいって、何にだ。どういう事だ)
「今回は、ショウさんが助かって本当に良かった。もし、もしも何かあったら……わたしっ」
「どうした。おいっ、泣くなよ」
突然ボロボロ涙を流し始めた海音に勝利は驚いた。たった今まで、にこにこ笑って自分の帰宅を喜んでくれていたのに。
「私がオレンジを見たいって言ったからあんな事になったの。私のわがままが、ショウさんの命を奪うところやった! 私、バカだからっ、どれだけ危険なのか分かっとらんかった。人の命を助けるには、同じように危険があるって。あの時まで、ちゃんと分かっとらんかった。ごめんなさい! どうしてショウさんが陸に上がろうって思ったのか、今になってやっと分かったの。私を一人にしないように、家族を悲しませないようにって決めたことやったとよね。ごめんなさい! ごめんなさいっ!」
勝利の下で海音は泣きながら詫びた。瞬きをする度に涙が溢れ、目尻を伝ってシーツに染みを作っていっく。それを見た勝利は海音を起こして抱き寄せた。こんなふうに自分のために泣いてもらう事なんて、今までなかったかもしれない。そう思いながら勝利は過去に想いを巡らせた。
「海音の事だからそんな風に責めていたんじゃないかって、思っていた。やっぱりそうなるよな……。逆の立場だったらそう思うよ。けどな、あの事故が俺でなく他の若い隊員だったら、俺が行けばよかった。なんで陸に上がってしまったんだって後悔したと思う。俺は海音のあの一言で救われたんだ。俺のオレンジが見たいって、あの言葉がなかったらモヤモヤした気持ちを押し殺しながら日々を過ごしていたと思う。それを海音のためだと言い訳してな」
海音は俯いたまま勝利の話を聞いていた。勝利の救難への気持ちを自分の中で理解しようと必死なのかもしれない。
勝利は海音の顔をそっと上向かせ様子を伺う。まだ海音の瞳はまだ乾く気配がない。勝利は海音の頬にできた涙の線を、太い指の腹で拭いてやる。
「救難を続けるのは海音のためじゃない。俺自身のためだ。俺こそ、ごめんな。これからも苦労をかけると思う。それでも俺のところに、嫁に来てくれるか?」
結婚すると言うことは勝利を取り巻く全ての環境を理解してもらわなければならない。絶対に安全だ、殉職はしないという保証はどこにも無い。
「私がお嫁に行くところは、ショウさんのところだけ。他は考えられんとよ」
「そうか。ありがとう」
涙声で答えた海音を、勝利はぎゅっと抱きしめた。
「よし、仕切り直しだな」
「えっ」
勝利はにっ、と笑ってま海音をベッドに再び押し倒す。
「待ってシャワー浴びてない!」
「帰ってから浴びただろ? 俺も事務所で浴びた。だから問題ない」
そう言いながら手際よく海音の服を剥いでいく。もう待ったは無しと言うように。
「ああっ、もう。ショウさぁぁん」
「ダメだ。もう待てない」
◇
肌を重ね愛を語る。
愛し合うもの同士なら当たり前のことなのに、以前とは断然違った。
玄関を開けてすぐに家庭の温もりが勝利を包み込む。キッチンから漂う料理の匂いと、リビングから漏れる煌々とした灯り。「ただいま」と言えば返ってくる「おかえり」に胸が張り裂けそうになる。そこに愛して止まない海音がいる。
(絶対に幸せにする。絶対に俺は、死なない!)
口に出せば嘘に聞こえる。だから勝利は心の中で一人誓う。
「(愛しているよ)海音」
「ん?」
「海音は俺のヒーローだな」
「え? 違うよ。ショウさんが私のヒーロー」
「なんだよ。譲れよ」
「譲らない。それに私、女だからヒーローじゃないもん」
「なんだとぉ。このやろうっ」
「ちょ、ちょーっとぉぉぉ」
嬉しくて泣けてくる。こんな気持ちがあるだろうか。悔しくても悲しくても涙は出なかったのに、嬉ししさで涙が出そうになるなんて。勝利は込み上げるものを隠すように海音をきつく抱きしめる。
「ぜっーたいに、離さないから覚悟しろ」
海音は勝利の熱苦しい愛情表現が好きだった。勝利が見せる困った顔も怒った顔も、そして驚くほど甘い顔も全部好きなのだ。
「苦しいぃぃー!」
海賊対策も終わった。オレンジにも戻った。
さあ、次はなに?
「ご両親に結婚の許しをもらいに行かないとだな」
海で現れるオレンジはみんなのヒーロー。
日本中の海に目を光らせて、人々の危機に勇猛果敢に飛び込んでいく。その熱い情熱は、青い海に沈まんとする者の最後の砦。
オレンジ色の救世主だ。
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