第10話 解けない魔法
二人はあの後、ホテルに入りシャワーを浴びて夕方に部屋を出た。
外はすっかり日が傾き西の空が茜色に染まり始めた。太陽の光に包まれて空と海の境界線が見えなくなる。目の前が全部、オレンジ色に染まったのだ。
「勝利さん。見て! すごくきれい。ねえ、どうしてこんなにオレンジなんだろう。私、オレンジ色ってめっちゃ好きとよ。朝日のオレンジは元気が出るし、夕暮れのオレンジは優しい気持ちになれる」
「海音はオレンジが好きなのか」
「うん、好き」
勝利は海音のオレンジ色が好きに、密かに反応していた。何を隠そう、かつて勝利が毎日着ていた制服がオレンジ色だったからだ。
特殊救難隊やレスキュー隊は目立つようにあの色を使っている。勝利の脳内は都合よく『オレンジを着た勝利さんが好き』に変換されていた。
「海音、そろそろ行くか」
「うん。乗船開始っ」
二人は少しだけ大人のオシャレをする。海音はワンピースでサンダルをヒールがあるものに替えた。勝利もTシャツから襟の付いた服に着替えジャケットを羽織った。
(さあ、今夜は大人のデートだ)
そう勝利が目で合図すると、海音の笑う表情にも艶が出て急に色っぽくなった。勝利がそっと腕を出すと、海音はその腕に自然に手を通し絡めた。
勝利はそんな海音から目が離せない。女盛りの彼女をいつ誰に奪われてもおかしくない。そんな不安を心に押し込める。
接岸中の船は大きく揺れることがある。ヒールのあるサンダルではバランスが取りにくいのもあって、海音はなかなか足を前に出せない。そんな海音を見た勝利は、スマートな所作で海音の腰に腕を回しサポートをした。
「大丈夫だ。一緒に行こう」
「ありがとう」
たったそれだけのやりとりに、勝利の鼓動は高まった。
(海音を誰にも、触れさせやしない)
◇
二人が訪れたのは神戸コンチェルト。神戸ハーバーランドから出航するクルーズ船だ。ディナーやランチ、ティークルージングなど、さまざまなプランがありカップルの記念日などにも人気のクルージング。
勝利が選んだのはディナークルーズだ。
「勝利さんありがとうございます」
「喜んでもらえたなら、それだけで甲斐があったよ。こっちこそ、付き合ってくれてありがとう」
「大人のデートみたいで嬉しい」
「ま、歳だけは立派に重ねてきたからな」
「年齢より見た目です! 勝利さんは同年代の人たちに比べたらとーっても」
「とーっても?」
「かんぱーい」
「おいおい。ゆっくり楽しんでくれ」
フレンチのコースは舌だけでなく目も楽しませてくれる。
いつもは豪快に食べる勝利も人が変わったように、まるで仕草は異国のジェントルマンだ。テーブルマナーも申しぶんなく、太い指が器用に動いてきれいに食していく。海音はそれを意外だと言いたそうに見ていた。
『お客様にご案内します。デッキを開放いたしました。お食事が終わられたお客様は、湾からの神戸の夜景をお楽しみください』
館内放送が終わると、ザワザワと乗客たちが席を離れ始めた。窓側の席からも十分に夜景は楽しめる。でも、せっかくだからデッキに出て、夜風にあたりながら神戸の夜景を見るのもいい。
「オープンデッキか。俺たちも出てみるか」
「うん!」
◇
二人が目にしたのは明石海峡大橋。全長3911メートルの世界最長の吊り橋。明石の街と淡路島を繋ぐ橋だ。
「わぁ」
思わず海音が声を漏らした。大きな橋が七色に輝いたからだ。その七色のライトが海を照らし、周辺もレインボーカラーに染まった。
「海音。寒くはないか」
勝利は夜景に気を取られたままの海音に、被さるように後ろから抱きついた。夏とはいえ、海を吹き抜ける風はさすがに冷たい。ジャケットを着ていてもフルっと身震いしてしまうほどだ。
「寒くないよ。むしろ、ちょうどいいかな。シャンパン飲み過ぎちゃったのかも」
「なんだ、酔っているのか」
「ふふ。酔ってはないよ? 見て、明石海峡大橋のライトアップ。すごくない? あんなに豪華で綺麗なの初めて見た」
「博多湾にはないか」
「ない! ない!」
「俺は博多湾の夜景も好きだぞ。島の小さな灯りやドームとタワーの並びとか。あと都市高速のライトは美しいな」
「あー、確かに。そこに着陸態勢に入った飛行機がストロボたいて降りてくるよ」
「いいじゃないか。なあ? 博多もいいぞ」
「そうやね。でも、やっぱり初めて見る景色って特別。勝利さんはたくさんの景色を海から見てきたんよね? いいなぁ」
海音はそう言って勝利に背中を預た。勝利が支える逞しい腕に頬を寄せてみる。
ピチピチの若いカップルではないけれど、二人にしか出せない大人のゆったりとした空気があった。こんなふうに穏やかな時間をたくさん過ごしたい。勝利も海音もそう思っていた。
「見せてやるよ。日本の素晴らしい景色。海音がもういいって言うくらい」
「うん。楽しみにしてる」
「なぁ、海音。博多弁でなんて言う? あなたの事が好きですって」
「えっ、そんな急に……なんで?」
「聞きたいからだろ」
「ここで? この関西語圏で!?」
「言えよ。今の訓練、けっこうキツイんだ。励ますと思って。ほら、早く」
「もぅ……。勝利さんのこと、好いとうよ」
勝利は自分から言ってくれと頼んだのだにも関わらず、方言が持つ破壊力に悶えた。ぎゅうぎゅう海音を抱きしめて、こみ上げる熱を抑えるのに必死だ。
「勝利さんっ」
(やべぇ。いま海音から離れらたらタダの変態おっさんだな。公然わいせつ罪? そこまではないか)
「動くな海音! 今はじっとしていてくれ頼む。(コイツが起きちまった)」
「え? あ、ちょっと。ああっ、なんで今なの!」
「しぃー」
もう一人の元気な海上保安官は着岸が待てないと大きく主張していた。
◇
勝利はどこまでも海音を甘やかしたかった。混み合う週末におさえたホテルは神戸ポートタワーよりもさらに先の、湾が見渡せる場所にあった。スタンダードルームはいつも満室。でも勝利には関係なかった。
(ハイフロアのデラックスルームが空いているじゃないか!)
それなりにお金を持った大人の男は即決で、金色に輝くカードを切ったのだ。
「今更だけど、こんな豪華な部屋に泊まれるなんて思わなかった。高いよね、絶対に高いよ。私も半分」
「海音、お金の話はなしだ。年上の特権使わせてくれよ。な?」
「いいの?」
「いいに決まってるだろう。格好つけさせろよ」
「勝利さんありがとう」
大きな窓の外はさっきまで船から見ていた景色。今度は反対から、しかも見下ろしている。
そして海音が何より驚いたいたのは?
「外に出れる!? うそー! 見て勝利さんっ。素敵! 早く来てー」
海音は大きなベランダに設置されたソファーにちょんと座り、勝利に早く来いと手招きをする。そんな海音を見ただけで、勝利の顔はデレデレになる。
(くっそぉぉ。かわいすぎるだろー!)
心の中で大絶叫して、でも向ける視線はクールな大人の男を演じていた。
一人掛けのソファーを詰めて座らせようとする海音に苦笑しながら、勝利は彼女の腕を取って引き起こした。
「どんなに詰めても座れないだろ?」
「うわっ」
先に勝利がソファーに座って、自分の膝の上に海音を座らせた。
「それじゃ前が見えないでしょ」
ジタバタする海音を勝利は後ろから抱きしめた。
「見えている。暴れるな」
海音の耳に触れるか触れないかの距離で、勝利が囁く。ひうっと海音は息を呑んで大人しくなった。
不意に生ぬるい風がサワーッと頬をなでては過ぎていく。二人は無言で夜の神戸湾を見ていた。
「勝利さん」
前を見ていた海音が、躰を捩って勝利の顔を見た。勝利は海音の脚を持ち上げ横向きに抱き直す。
「どうした」
「なんで、私なの? 勝利さんは、なんで私を選んだの?」
「不安なのか」
「やっぱり、なんでもない!」
海音は首を横に振った。勝利は海音が何を聞きたいのか、何を不安がっているのかをなんとなく分かっていた。それは、自分にも当てはまることだから。
「海音がいいんだ。海音だからあの日、助けた。海音だからあの祭りの日に持ち帰ったんだ。めちゃくちゃ勇気がいったんだからな。海音こそ、なんで俺なんだよ。あのとき、断ることも出来ただろう」
「私も……勝利さんだから」
「だろ? あんまり難しく考えるなよ。もし海音が年下を気にしているのなら、俺は年上であることを気にしなければならない」
勝利がそう言うと、海音は勝利の首に腕を絡めて抱きついた。
「そうだよね。ごめんなさい」
「なんだよ。本当に今夜はどうした」
「勝利さんに魔法をかけられたみたいに引き寄せられたの。あの日、助けてもらって背負ってもらった時に、好きな匂いだなぁって思って」
「魔法か。解けなければいいがな」
海音は顔を上げ、勝利の瞳を覗き込んだ。そこには男らしい、野生動物のような眼があった。
「ねぇ、お願い。解けないように、いつも魔法かけてよ。ずっと、ずっとかけ続けて」
その言葉のあと、二人は吸い寄せられるように唇を重ねた。
(解けない魔法……か)
もっと近くに、もっと、もっと近くに。
このまま融合してしまいたい。離れ離れなんて耐えられないと心が悲鳴を上げる。
「海音が欲しい。抱いていいか」
「私も、勝利さんが欲しい」
いつだって側にいたい。
すぐに駆けつけられる距離にいたい。
でも、勝利の仕事はそれを許してはくれない。
だから、魔法があるならばかけ続けたい。
決してそれが解けないように。
ずっと、ずっと。
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