愛と誇り、オレンジに誓う

第4話 まだまだ、係留希望です

 ある休みの日、海音は勝利の部屋で目を覚ます。

 部屋はしんと静まり返り、カーテンの隙間から朝日がフローリングを照らしていた。サイドテーブルの目覚ましは8時をさしており、勝利はすでに出勤済みだった。


「また、勝利さんにヤられた」


 海音は気怠い躰を起こし、うーんと伸びをした。パジャマは辛うじて着ているが、乱れた胸元から勝利が残した俺のモノが見えてしまい、昨夜の情事を思い出させた。海音はその痕を指でつつきながら、暫くは消えない俺のモノに頬を緩めた。


「しつこくて暑苦しい海の男かぁ。ふふ、凄い人を捕まえちゃった」


 海音がベッドから抜け出すと、ダイニングテーブルに勝利お手製の朝食が目に入った。おにぎり、ウインナーと目玉焼き、そして温めるようにとお味噌汁があることを示すメモ書きが置かれてあった。勝利は見た目と逆で、家事も出来るちょっと訳ありのバツイチ男。ベランダには洗濯物もしっかり掛かっていた。


「これも訓練の賜物ってこと?」


 勝利の仕事にあまり詳しくない海音は、ときどき聞かされる勝利の昔話を思い出していた。なんとなく、単なる海の警察官ではなさそうだと少しは感じている。


「いただきます」


 勝利が作った朝食を食べながら、せめて掃除くらいはしなくては。海音はそんなことを考えていた。







 掃除をすると言っても、掃除機をかけるだけで終わってしまうシンプルな部屋。男の一人暮らしだからだろうか、ごちゃごちゃした小物はないし、あってもそれらは整理整頓されている。海音はあっという間に終わった掃除に拍子抜けして、ぼんやりと寝室で一息ついていた。視線の先には本棚がある。


「勝利さんって、どんな本を読むとかいな。見てもいいかいな......」


 年上の男はどんな本を好むのかという好奇心が勝った。海音は隠されていないのだから見ても大丈夫だろうと言い訳をして、本棚に手を伸ばした。


「エッチな本が出てきたらどうしよう。あってもおかしくはないよね。健康すぎる男子やもん……そのときは、見らんかったことにすればいいし」


 独身の健康な男ならあって当たり前、当たり前なんだと言い聞かせながら目についた書籍を端から手に取った。


出動!○○○レスキュー隊

警視庁○○捜査官の日常

気象予報士になるために

海洋科学

海上自衛隊の役割

戦える身体の作り方


「え? なにこれ。お仕事に関する本ばっかり」


 一番上のガラス扉の奥には、いつか表彰された記念のたてや勲章が飾られてあった。その隣に写真立てが一つ。頭目からするとオレンジ色に見えるその写真には、厳つい男たちが並んでいた。

 第三管区海上保安本部羽田特殊救難基地と文字が入っている。オレンジ色のツナギの制服に、同じくオレンジ色のベレー帽を被った集団。海上保安庁が誇る特殊救難隊、通称特救トッキューと呼ばれる男たちだ。


「ちゃんと見たことなかったけど、この中に勝利さんもおるとよね」


 海音が何度か通っているこの部屋では、愛されるばかりで勝利の仕事の話もこれまでの功績も聞いたことがなかった。知っているのは現在の、巡視船に乗って指揮を取る凛々しい船長ということだけだ。

 海洋生物の研究をしてきた海音も、少なからずお世話になった事のある機関。今後もお世話になるかもしれない。だったら勝利の仕事の事をもっと知るべきではないかと海音は思った。


「あ、見つけた。勝利さん若い! かっこいい!」


 日焼けした浅黒い肌が任務の過酷さを物語っているように思えた。それに、あまり今と変わりない。勝利が一線から離れてもトレーニングを欠かさないのは、元特殊救難隊としての意地と誇りなのかもしれない。


「他にもっと写真ないとかいな。海猿? だっけ。その時代の写真とかさ。ダイビングスーツ着てるのとか」


 海音は時間が経つのも忘れ、夢中で本棚の書籍をあさった。海を護る男の事が知りたくて、その男が学んだ全てを端からなぞるように辿った。

 人間の身体の仕組みから宇宙に至るまでそれはとても幅広く、気づけば海音は睡魔と闘うはめにる。本に指を挟んだまま、心地よい眠りに誘われる。

 

 その微睡む景色の中で若かりし日の勝利の姿を想像しながら……。







 ふと、海音が目を開けたとき、真っ先に飛び込んできたのは今朝見た風景と同じものだった。カーテンの隙間から陽が射しこんでフローリングに線を描いている。


「あれ?」


 目を覚ました海音はベッドに寝ていた事に気づく。確か自分はたくさんの本に埋もれていたはずだ。眠くなったところまでは覚えているけれど、ベッドに潜っていたとは思わなかった。


(うそ! 本が! 片付いとるっ。なんで!?)



「眠れる海の美女はお目覚めか」

「ひゃっ!」


 低い男の声に躰が跳ねた。海音はその声のする方へ視線を向けた

 もちろんそれが誰の声なのかは分かっている。


「勝利さん。あれ? お仕事はっ」

「言わなかったか。今日は早上がりだ」

「ぁ、だったっけ」


 帰宅後、薄暗い寝室で本に埋もれたまま寝ている海音を見た勝利が、彼女をベッドまで運んだ。散らかった本は勝利が自ら棚に戻したのだ。


「ごめんなさい!」

「おっ、なんだ。なんで謝る」

「勝手に本を広げて、そのまま寝て。しかも、散らかしたまま」

「ああ、勉強熱心で感心していた。気に入った本があったなら持って行ってもいいぞ」

「怒らないの? 勝手に触ったんよ?」

「見られて困るものなんてないし、それに海音なら構わない。そりゃ破壊行為さらたんなら別だが」

「破壊行為とか、せんし」


 ギシッとベッドが軋んだ。

 勝利が海音の隣に座り、寝起きの可愛らしい女にキスをする。勝利は海音が長い睫毛を震わせながら甘く受け止める姿を見ると、いつも抑えきれない感情が溢れてくる。

 勝利は女の存在がこの年になるまで心地いいと思うことがなかった。女というものが男を癒してくれる貴重な存在だったなんて思えなかったのだ。そして、なによりも海音がそれに気づかせてくれたんだと、感極まりつつあった。


「しょうりさっ。く、苦しい」

「ん!? あっ、すまん」


 いつの間にか勝利は海音を力いっぱい、抱きしめていた。


「勝利さんは私に甘すぎる。怒っていいとよ? テリトリーに入るなって。いくら恋人同士でも守らなければならないものがあるでしょう。まぁ、勝手に見た私が言う言葉じゃないんやけどね」

「だから、海音なら構わないと言っただろ」


 勝利の太い腕が再び海音を拘束する。今度は優しく、いつでも解ける強さで。

 海音はどうして勝利はこんなに自分に甘いのか、どうして簡単に許してしまうのかを考えた。もしかしたらこれが年上の余裕なのかもしれない。それとも一度家庭を持った事が経験となり、そうしているのかもしれない。そんなことまで考えてしまう。


(好きなの。初めて会ったときから勝利さんのこと。太い腕も、広くて分厚い背中も、少し強引なところも、全部好き)


「これじゃ、我儘な女になっちゃう」

「ならないだろ。海音はならない」

「なにその自信」

「で、なんの勉強をしていたんだ? 海保の女は何を知りたかったんだよ」


 勝利は海音の頬を親指の腹で二、三撫でると本棚に視線を戻した。

 海音は勝利の仕事のことをもっと知りたい。勝利の過去も自分の知らないトッキュー時代の、もっと言えばそれ以前に遡って全部知りたいと思っていた。


「海上保安庁の、勝利さんのお仕事のこと」

「そうか。だったら俺に聞けば早いだろう」

「教えてくれるの?」

「ああ」

「何でも?」

「海音?」


 けれども海音は、「あなたのことを全部知りたいの」とは言えなかった。だから海音は勝利に抱きついて、抱きしめて、今のあなたは私のものだと態度で訴える。


(前の奥さんには負けたくないとっ!)


「ねぇ、海猿時代の話をして? 何で海猿って言うと?」

「海猿という言葉はもともとなかった言葉だ。俺の時代は潜水士としか言わなかった」

「ええっ! そうなの!」

「ほら、ドラマとか映画で脚光を浴びただろ。海上保安庁の海難救助にあたる男たちの話。地獄の特訓をして潜水士になっていくやつ」

「うん」

「あのドラマで海猿という言葉が生まれた。制作者が海の中でも機敏に動ける猿って例えたとかなんとか」

「知らなかった」

「すごいよな、マスコミの力って。今じゃ普通に使われてる」

「へぇ」


 実は、特殊救難隊が発足した昭和50年から現在に至るまで殉職者はいない。自然災害にも対応する彼らは誰一人死なずに救助に当たっているのだ。


「俺達が死んだら、誰が助ける。俺達が諦めたら、そこで全てが終わってしまう。必ず連れて帰ること、そして自分たちも必ず家族のもとに帰ることを肝に銘じている」

「そうだよね。助けられる人も、助ける人にも、家で待っている人がいるものね」

「……まあ、な」


 勝利は少しだけ言葉を濁らせた。


「さてお嬢さん。夕飯はなにがいいかな?」


 勝利は海音に顔を見せないように立ち上がった。

 勝利が海音に過去の話をするという事は、かつて持っていた家庭の話にも繋がる。それらの苦い思い出を、海音に話す勇気はまだなかった。


「お昼食べ損ねたから、ガッツリ食べたいなぁ」

「おい、飯は抜かすなよ。体の基本だぞ」

「はーい」


 避けては通れないものだと分かっている。けれど、今はまだこの甘ったるい時間を過ごしたい。


 勝利も海音も心の中でそう思っていた。


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