オレンジヒーロー群青の海へ再び

佐伯瑠璃(ユーリ)

出会いは偶然、始まりは必然、求め合うのは運命

第1話 Insight-感知-

 男の名前は五十嵐勝利いがらししょうり 、年齢は42歳。海上保安庁の海上保安部に所属している。一年前まで関東の「特殊救難隊」というチームの隊長をしていた。元海猿と言えば分かりやすいだろうか。現在はとある管区で巡視船の船長をしている。


 ある映画が上映された時は海上保安庁の人気も急上昇だった。正直言うとモテてモテて仕方がなかった。しかし、あのとき五十嵐は結婚していたせいでそれの恩恵を受ける事はなかった。


(バツイチのオッサン、たまの休暇も海の上、ってな……)


「どげんね、今日は」

「んー、ダメだな」

「やっぱダメか。しゃあない諦めるか」


 五十嵐は赴任して直ぐに知り合った仲間と玄界灘の小さな無人島に釣りに来ていた。今日は潮の流れが悪い。夜まではどんなに気合い入れても釣れないだろう。

 しかし、五十嵐は根っからの海好きで、釣れようが釣れまいが関係なかった。ただ海を見ているだけで安心する。海にどっぷり浸かった人生をこれからも謳歌するつもりでいた。


 両腕を上げ伸びをして、何気に辺りを一巡した。皆が釣り竿を担いでいる中、一人だけ双眼鏡を覗きながら岩の上を歩く女がいた。


「何を見ているんだ?」


 五十嵐は女のふらふらと頼りない足取りが気になって仕方が無い。それは職業病なのか単なるお節介なのか、気付けばその女のあとをつけていた。そろそろ声掛けしなければ、あと少しという所で女が姿を消した。


(落ちたか!?)


 五十嵐は焦って急ぎ足で近寄る。


「大丈夫ですか!」


 大声で呼びかけた。


「すみません! 大丈夫ですっ」


 思ったよりもしっかりとした返事があり安堵した。しかし次の瞬、その女が顔を歪める。五十嵐は怪我をしているのかもしれないと手を差し伸べた。


「俺の手に掴まれますか」

「っ……すみません」


 重ねられた手が余りにも弱々しくて、五十嵐は堪らず女の脇下に腕を差し込んで引き起こした。


(軽っ!!)


「ひゃっ」

「申し訳ないですが、このまま移動します」


 言い終わると五十嵐は、片方の腕を膝下に入れ抱えて移動をはじめた。抱き上げたときに潮の匂いとは別に、フワッと甘い香りが五十嵐の鼻を擽った。

 久しぶりだなともう一人のオトコが悦ぶ。海には似合わない色の白い肌とその華奢な躰が、五十嵐の中にある庇護欲がムクムクと擡げた。


「下ろしますよ」

「はい」


 その時、初めてまともに顔を合わせた。女は黒でも茶でもない、艶のある髪を後ろでひとつに結んでおり、手には黒のキャップ帽を持っていた。五十嵐はつい、キャップの後ろからその髪が出ているところを想像してしまう。


(くそっ、俺の好きなスタイルだ!)


 女の斜めに流れた前髪から綺麗に整えられた眉が見える。鼻先はツンと尖っていて、目は大きい。そして、少しぽってりとした唇。


(俺の好み、どストライクじゃないか!)


「足、少し触ります。痛い時は教えて下さい」

「ぇ」


 五十嵐は戸惑う女を気にすることなく、足の痛めていそうな個所を押す。女は我慢しているのか、口を引き結んで奥歯を噛み締めている。五十嵐はそんな女の様子を見ながら足首の内側を触った。


「痛っ、痛いです」


 女は眉を歪めて抑え気味の声でそう言った。


「たぶん捻挫ですね。骨は大丈夫だと思います。でも、このままだと腫れが増して歩き難くなりますよ。すぐに港に戻ったほうがいい」

「ありがとうございます。えっと、連絡船で来たので早くても、一時間後なんです。でも、それまで我慢できます。ありがとうございました」


 それを聞いた五十嵐は考えた。


(一時間後か......。確実に腫れ上がるな)


「あの、うちの船に乗って帰りませんか。俺たちもう諦めて帰るんですよ。それに、一時間も放っておいたら絶対にパンパンに腫れますよ」

「でも」

「一人ではもう歩けないでしょう? このゴツゴツした岩場を自力で行けますか?」

「確かに」

「じゃあ決まり。ちょっと待っていて下さい」


 五十嵐は仲間に事情を話すと、ニヤリと意味深な笑みを向けられた。別に下心で親切にしている訳ではないと睨み返す。


(まあ、微々たる量の下心はあるかもしれんが。それよりも今は彼女の治療が優先だぞ)


「エンジンかけとっけんが、連れていよ」

「おう。助かる」


 そして五十嵐は、彼女のもとに戻り船に乗れることを告げた。その時点で既に足首が曲がらないほど腫れているのが分かった。


「もう足をつくのは無理そうですね。背負います、どうぞ」

「あっ、えっと……すみません」


 女は申し訳なさそうにゆっくりと躰を五十嵐に預けた。女が遠慮気味に五十嵐の肩に置いた手になんとも言えない感覚が起こる。


(やべぇなこれ、堕ちるぞ)


 五十嵐は背負い直すために一度、ヨイショと女を持ち上げた。その勢いで女の胸が五十嵐の背中に密着した。


「すみません。位置が少し高い方が背負いやすいんですよ」

「そうなんですね。ごめんなさい」

「いえ」


 それは嘘ではない。でも、女の胸の膨らみが背中に当たった時、その柔らかさと大きさを五十嵐の脳は勝手に計算してしまう。


(モチモチのCもしくはDカップ......。男って幾つになってもこんなんだぜ? しかも好みど真ん中で、暫くお預けだったんだ。健康な男子なら致し方ないだろう?)


 心の中で見苦しいばかりの言い訳をする。


 五十嵐は待っていた友人の船に乗り込み、彼女をそっと下ろしながら考える。

 港まで飛ばせば10分で着く。その後、どうしたものか。病院まで連れて行くのか、それともタクシーを呼んでやるのか。


 シートに女を座らせた五十嵐は、ついこうなった原因を追求してしまう。


「五十嵐と言います。お名前は? あ、嫌なら別に答えなくても」

「いえっ。私は間宮と言います」

「間宮さん。なぜ双眼鏡を覗きながら岩の上を歩いていたんですか。かなりの危険行為ですよ」

「ですよね。分かっているのについ。実はクジラを見ていたんです」

「クジラ!?」


 女はほんの少し顔を赤くして話を続けた。


「私は大学院で生物の生態や自然環境の研究をしています。よくニュースになりますけど、玄界灘沖や壱岐対馬周辺で高速船とクジラの衝突事故がありますよね。なぜ、互いに素晴らしい能力を持っていながら、そういう事故が起きるのだろうって」

「ああ、最近は少ないですけどね。潮の流れや気温なんかも関係あるんですかねぇ。もしかして間宮さんは学者さん?」


 そう五十嵐が言うと間宮という女は顔を真っ赤にする。


「そんな大した事はしていませんっ」


 慌てて首をブンブン振った。


(なんだよ、可愛いな。ってか、この子いくつだ? 俺より下なのは間違いないだろうけど)


 五十嵐は若い女性の必死すぎる否定に頬を緩めた。


「もう着きますよ。港からはどうやって帰るんですか」

「実は車なんですけど、無理そうなのでタクシーを呼びます」

「だったら俺が送りましょうか」

「えっ……そこまでは!」


(しまった! それはやり過ぎだろう)


 五十嵐は見ず知らずの男に、簡単に車で送らせるわけないだろうと反省をする。


「そうですよね。すみません。あの、帰ったらすぐ冷やしてくださいね。ギンギンに冷やしてください。本当は足首を固定した方がいいんですが。もし可能なら、帰りに病院に寄る事をおすすめします」

「はい。そうします。ありがとうございました」


 五十嵐は女がタクシーに乗り込むまで見送った。芯がしっかりした、ちょっと間抜けないい女だったなと未練がましさを心に残して。


「さーて、帰って飲むか!」

「なんで連絡先聞かんとね。いい感じやったとに」

「なんでって、こんなおっさんから聞かれたら怖いだろ」

「自分の身分言えばよかろうもん!」

「煩いんだよ」



 また、どこかで偶然会うことがあるのなら、その時は遠慮なく罠でも何でもかけてやるよと強がってみる。


(ないだろうなぁ、そんな偶然は)


 恋愛の仕方を忘れた男は、家に帰って静かにひとり手酌。静かに晩酌をするくらいしか思いつかなかった。

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