第22話 The Make Over, the Breaks Over

 柴山は得意のスマートフォンで居酒屋情報を収集した結果、大衆酒屋「ユリイカ」を選んだ。先ほどの高級住宅街を見てしまうと居酒屋も値が張るのではないかという懸念もあったが、大衆酒屋の名の通り、八王子の飲み屋とそれほど変わらない。個室のないカウンター席とテーブル席で構成された飲み屋で、平時の夕方にも関わらず既に満席に近く、店員もてんやわんやしている。

 飲み会は柴山が音頭を取り始まった。最初、慈道の口数は少なく、主に柴山とアリサのガールズトークが続いていた。しかし、徐々に慈道の方にもスイッチが入ってきはじめる。

「いやあしかし、鈴木さんもねえ。お母さんがファッションデザイナーってだけあって、服のセンスっていうのかな。俺が見てもいいなあ、って思うんだよねえ。柴山もさ、少しは見習ったらどうなんだよ」

「せ、先輩には死んでも言われたくないですよ。アリサのお母さんは、若い女の子に大人気のネーターっていうブランドの生みの親なんですって」

「今来ている服もそのブランドなの?」

「いえ、これは違いますよ」

「そう言えば、昔はもうちょっと派手な服着てたよね」

「わ、分かりますか?」

「うん」

「なんていうんですかね。私も大学生になって独り立ちしたくなったっていうか。高校生の頃はお母さんがネーターの新しい服やアクセサリをくれたんです。モニターっていうのかな。最初はそれで満足していたんですけど、それってなんだか見せかけのような気がして。大学生になってアルバイトとか始めたら、考え方が変わってきたんですよね。お母さんの力だけじゃなくて、自分自身で道を切り拓いたいというか……」

「分かる分かる! やっぱアリサは偉いわー」

「数学を志しているのもそういう思いが根底にあるのかな。ほら、お母さんもお父さんもいかにも文系って感じだよね」

「はい。そんな所だと思います」

「そう言えば、アリサのお父さんは今回の件でイタリアから急遽帰国したって言ってたわよね」

「毎年十月は芸術家が集まって作品を展示する秋の祭典に出張しに行くんですよ。詳しくは知りませんが、主催側の役員だって言ってました」

「へえ。やっぱり凄い家系だなあ」

 慈道はそう言ってジョッキの中身を平らげた。

「鈴木さん、お代わりは?」

「あ、はい。今度は日本酒いってみようかな」

「おお、顔色も相変わらず白いまんまだし。お酒強いんだねえ」

「祖父も凄くお酒に強いんですよ」

「……へえ。ちなみに、柴山は大して強くないのに無理に飲むうえ、酒癖が悪くて最終的には酔い潰れるから注意した方がいい」

「はい、知ってます!」

「ちょいちょいー、人聞きが悪いですよー。本当は私、お酒にとっても強いんですかられえ」

 柴山も慈道に同調してか、グラスを空にした。大人しくしていれば、桜色の顔をした可愛いショートカットの女子大生で終われるのだが、なんとも惜しい人材である。

「すいませーん、お代わりおれがいしまーす」

「……まだ二杯目なのに怪しいな」

「ちゃんと八王子まで無事に連れて帰って下さいよー」

 アリサは慈道に対して初めて意地の悪そうな顔をする。

「こりゃ、参ったなあ。柴山んちの最寄り駅、急行が止まらないんだよなあ」

 慈道はそう言って目尻をかいた。

 およそ二時間で飲み会はお開きとなった。三人は同じ電車に乗ったが、多摩市に住んでいるアリサは途中で乗り換えのために下車する。そして、アリサの厳しい言いつけにより、案の定酔い潰れた柴山を慈道はしっかり送り届けることになった。

「おい。やっとお前んちに着いたぞ」

「お疲れ様れすー」

 なんとか柴山の住むアパート、轟ハイツにまでやってきた。がしかし、最後の最後で柴山は玄関の前に寄りかかり、そのまま尻を地面につけて眠り込んでしまった。十月の下旬で夜はかなり冷え込み始めている。さすがに野放しにはできないであろう。

「おい起きろ」

 慈道はしゃがんで柴山の両肩を掴んで揺さぶったが起きる気配はなかった。

「おい、鍵はどこだ?」

 応答がない。

「まったくもう……」

 慈道は柴山の手提げから鍵を探したが、どこにも見当たらなかった。財布の中も失敬したが、そこにもない。今日の柴山はパーカーにジーンズだ。慈道はひとまずパーカーを摘んで引き寄せ、柴山の胴体に触れないようにポケットの中を確認するもやはり外れであった。慈道は熟慮の末、自分もそうしているように、ジーンズのポケットに入れているのではないかという結論に至った。

 下半身をまさぐらざるをえない状況だが、途中で起きたら間違いなく殺されるだろうな。確率は四分の一。いやいや、冷静になって考えろ。これは同様に確からしくない。柴山は右利きだから、玄関の鍵を閉めて器用に左のポケットに入れるはずがない。ほぼほぼ右に決まってる。問題は前か後ろか……

 井上昭一の試練以上に慈道は真剣に思考を巡らせている。

 慈道は辺りに誰もいないことを確認し、合掌をしてから右の前ポケットを手際よく調べた。

「あった……」

 平べったいキーホルダー付きの鍵を発見した慈道は、ほっと安堵の溜息をつく。慈道は玄関に鍵を挿入して解錠するも、柴山が邪魔をして玄関が開かないことに気付く。

 慈道は舌打ちをしてから、無理矢理数センチだけドアを開けてつま先を隙間に押し込み、深呼吸をしてから、柴山の膝の裏と脇に自分の腕を潜らせて彼女を持ち上げる。押し込んでいたつま先を払うようにしてドアを開け、最小限の動きで入室する。慈道は何度か柴山の部屋に来たことがあったので、肘を使ってうまく台所の照明をつけることはできた。サンダルを脱ぎ捨てて部屋に上がり、柴山をベッドにやや乱暴に寝かせる。慈道は息を切らせながら両手を払う。華奢な体型ゆえに、柴山のような中肉中背の女性を持ち上げるだけでも一苦労である。

「なんで俺がこんなことを……」

 慈道はぶつぶつ言いながら、柴山のスニーカーを脱がし、玄関の方へ放り投げた。

「うーん」

 柴山は寝返りをしながら寝息をたてていた。慈道の苦労など一切知らずに、本当に気持ちよさそうに熟睡している。そんなあどけない柴山の寝顔を見ていると、元が取れているのではないかと慈道は錯覚を覚えるほどであった。

「いかんいかん」

 慈道は眉間を親指と人差し指でつねると我に返り、「風邪引くなよ」と一言だけ残して、冷蔵庫に入っているペットボトルのお茶を当然のように持っていき、照明を消して外へ出た。玄関を施錠したら、鍵を郵便受けの中に入れた後、スマートフォンを手に取り慣れない手つきで「鍵は郵便受けの中」とだけメッセージを送り、慈道弥七はクールに去った。

 一仕事を終えて酔いもすっかり冷めた慈道は、たまに来る豚骨ラーメンの屋台に寄った。時刻は九時を回っていた。

 慈道は最初にスープを一口すすると、温泉に入った時のような極楽の息吹をあげた。そしてすぐさま麺をすすりにすする。

「順調のようだね、先輩」

 突然、隣の褐色肌の男が慈道に声をかけた。

「んん!」

 慈道は驚いて麺を喉をつまらせ、もがき始めた。

「ほら。口はつけてないから」

 男はあらかじめんでおいたらしいコップの水を差し出した。すると慈道はお構いなくコップの水を流し込む。

「……ああ、お前か……」

 佐藤正宏であった。

「意外とリアクションが薄いね」

「なんとなく必要とあらばあんたの方から現れる、そんな気がしてな」

「なるほど。科学の人間なのに君も思い切った考えをする」

「ここにはよく来るのか?」

「いや、だよ」

「そうか」

 慈道は期待通りの返答だったのか鼻で笑い、麺を再び啜り始める。

「……今夜はなんの用だ。また忠告か?」

 慈道は咀嚼しながら喋る。

「そうだ」

 佐藤はスープを蓮華で一口する。麺はもうほとんど残っていない。

「一体なんだ。それは」

「彼女には気をつけた方がいい」

 しばし間が空いた。そして慈道は口内の麺をすべて飲み込んでから「分かってるさ」と言った。佐藤はその返しに感心したようだった。

「そう。因果は正しい方向へ軌道修正をしているようだ」

「……お前が言う因果っていうのは一体なんなんだ?」

「カオス理論を追求し続けた先に待っているもののことさ。人はまだその域に達していない」

 佐藤はそう言うとニヤッと不敵な笑みを浮かべる。

「なんだそれは。一体なに目線だ?」

 佐藤はどんぶりを持ち上げようとして、手を滑らせた。

「あち!」

 スープは慈道のズボンにぶちまけられた。

「すいません」

 佐藤は屈託のない顔で店主に軽く会釈し、千円札を置いて足早に闇へと溶け込んでいった。

「お、おい! 待て、この野郎! いつも肝心の所で逃げやがって」

 慈道は立ち上がって佐藤を追いかけようとするが、店主のおやじが「大丈夫ですか?」と言って股間周りにおしぼりを当ててこすりつける。

「お、おう。はう……! ああ、いやその……」

 慈道は情けない声を出して、結局足止めを喰らってしまった。佐藤正宏を捕まえることはできない。道理に反するが慈道はそう考えていた。

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