第18話 アリサの公開鍵
一時間強で終わると豪語していた慈道によるRSA暗号のレクチャーは結局二時間半もかかった。慈道は自分の知識を取り出しただけだから大してエネルギーを消費していないが、頭を回転させっぱなしの柴山とアリサは恐ろしく糖分を欲していた。そして、女二人が「ケーキ食べよう」とうるさいので、三人は食堂へやってきたのである。
大学の食堂は多目的な用途があり常に賑やかである。まだ夕方の六時前だが、自炊を面倒くさがる一部の学生が早々に夕飯をとっている光景も珍しくない。また、研究室という概念がない一、二年生のグループが、翌日提出のレポート問題に知恵を絞って取り掛かっていたりもする。
さて、一山越えた柴山は紅茶のシフォンケーキ、アリサはモンブランを、隣同士で年甲斐もなくちびちびと口の中に放っては、甘味な笑顔を振る舞っていた。二人を知らない者が見たら、それは華やかで微笑ましい光景と言えるが、柴山を知っている慈道から見たら、「なにこいつ上品ぶってんだ。いつもだったら、もっとがっついてんだろ」と突っ込まざるを得ない状況である。ところで、甘いものが苦手な慈道はというと……なんと缶ビールを片手にするめいかをつまんでいた。食堂ではなく生協の売店で買ってきたものである。
「それにしても……かわいい女子大生二人がケーキを食べてる向かいで、無精髭の不審者がお酒とあたりめをつまんでいるとは……雰囲気ぶち壊しですよ」
柴山は呆れたように慈道へ冷たい目線を送る。
「鈴木さんはともかく、なにがかわいい女子大生だ。自分で言うか、普通。それにラーメンでもなんでもつったから、好きなもの食ってるんだ。なにが悪い」
慈道はそう言って、ビールを一口しゲップをする。慈道は気恥ずかしさを緩和すべくアルコールの力を借りたらしいが、度が過ぎているようにも思える。
「アリサ、ごめんなさいね。生理的に受け付けないと思うけど……」
「いいえ、そんなことないです。今日は楽しかったです。今まで話でしか聞いたことがなかった慈道さんたちのことがよく分かって、とっても良かったです」
アリサは作り笑いをしているのではなく、本心から楽しそうに暖かい表情をしていた。
「だってさ! 柴山。悪かったな」
慈道はご満悦であった。
「ああもう、口の中に物入れた状態で話さない!」
慈道は頬を緩ませながら口内のするめいかをビールで流し込む。
「それでさ、RSA暗号がどんなものか分かってもらえたと思うが、例の井上先生の謎解きはまだやるつもりなのか?」
「勿論ですよ。ね? アリサ?」
「え、ああ。どうでしょう。今日の慈道さんの講義を受けただけで、現代数学の深淵をほんの少しだけ覗けた気がするんですが、ちょっと圧倒されちゃいました。この先やっていけるかちょっと不安です」
現代数学の深淵といえるほど大した分野じゃないと慈道は心の中で突っ込んだが、流石にそれは表には出さなかった。
「大丈夫、大丈夫。数学なんて公理と定義と推論規則さえ知ってれば、赤ちゃんでもできるから」
「出た、先輩の決まり文句」
「さっきも言ったが、何事も一回だけ話を聞いて100%吸収できるわけないと思った方がいい。俺なんか一年かけてようやく解けた問題や概念もあるしな。時間をかけて、分からないことを順序立てて分かろうとする努力をするのが大事だ」
「はい。その言葉には励まされました」
「ガロア理論も、彼が死んでから数十年経ってようやく市民権を得たわけだしな。大学一年の時にやった、ε-δ論法なんてだいぶ歴史は浅い方だ。実際、ニュートンやオイラーの時代から微分積分は考えられていたわけだが、厳密な理論体系が整備されたのは十九世紀の話だ。つまり、それまで人類は、微積を分かった積もりでしかなかったということになる」
ニュートンは十七世紀、オイラーは十八世紀の人間である。
「あれ、先輩。どちらかというと、井上先生のメッセージに興味ある派になったんですか?」
「え? うーん、まあなんとも言えないな、今の所。ただ昨日も言ったがあの謎解きは解決したいが、素因数分解のアルゴリズムには興味ないという立場だ。確か、あのメッセージには、鍵は鈴木さん自身、とあったよな」
「はい」
井上昭一のメッセージには「金庫のパスワードのヒントは
6,036,874,075,441,016,874,423,820,128,016,670,617,645,079
だ。鍵はお前自身。試練は全部で三つ。それでは体に気をつけて。また来世で会おう」とあった。
「鍵という言葉に心当たりは?」
「ないです」
「先輩、先輩。あんまりジロジロ見ないでください」
「よく海外ドラマなんかだと、体内にチップとかが埋め込まれているんだが……」
「そんなものがアリサの体の中にあるわけないでしょ!」
「過去にU.F.O.にアブダクトされた経験は?」
「ありません」
「そりゃそうだ。話を少し真面目にすると、金庫のパスワードのヒントとやらは例の 43 桁の数にある。これをRSAによる暗号だと思って c とおく。これはある平文 m を暗号化してできたものだ。つまり、公開鍵の一つである e を用いて
c ≡ m^e mod N
という関係にある。しかし、現時点で公開されているはずの e も N も不明だ。そして、ヒントになっているのは鈴木さん自身という1点のみ。これはもうコナン君か杉下右京に頼むしかないだろう」
「アリサが公開しているものが鍵なんですよね」
「さあ、よく分からないが。ちなみに数学科に入って後悔してるとかそういうのじゃないからな」
「例えばSNSなんてどうでしょう」
慈道のボケは普通にスルーされた。
「なるほど。インターネットこそ全世界に公開している情報源」
「アリサはTwitter以外になにかやってる? mixiとか」
「Twitterだけです」
「鍵かけてなかったよね」
「はい」
「鍵?」
「ようは、Twitter上での発言をフォロワーだけに公開する設定のことを俗に『鍵をかける』って言うんですよ」
「鍵をかけていないということは、鈴木さんの発言は誰でも見られる状態にあるってことか」
「ネットサーフィンを満足にできる心得があるならば、ですよ」
小莫迦にしたような目で柴山はニヤッとする。
「なんで俺のことをそんな目で見る?」
「別にー」
「よし、それじゃあ、そのTwitterとやらを俺に見せてみろ」
「え、今ですか?」
アリサは少しためらった。
「ほら、先輩。デリカシー」
「お、おう。失礼……いやおかしいだろう!」
慈道は軽くテーブルを叩いた。
「だって、全世界に公開しているんだろ? 気まずいものなんかなにもないはずだ」
「別にアリサは先輩に見せるためにTwitterをやってるわけじゃないですからね」
「俺も世界の一部だぞ」
「なんて言うんでしょうかね。先輩がこっそり自宅で見るならともかく……いや、それも気持ち悪いですけど、本人の前で、先輩みたいな人に見られるのって、なんか恥ずかしいよね」
柴山はアリサに同意を求めた。アリサは否定こそしないが苦笑している。
「……よく分からんな。じゃあ勝手に見てろ。なんかそれらしい情報があったら教えろ」
慈道はそう言ってするめいかを口へ放り込んだ。
「オッケーです」
柴山はそう言ってタブレットを取り出し、アリサのTwitterの画面を開く。ユーザー名は @sarisa101。氏名は『すずき・ありさ』で登録していた。プロフィールは“大学で数学を勉強中! 趣味はフットサルと喫茶店巡り。あとダルメシアンが大好きです。気軽にフォローしてください!”である。アイコンはダルメシアンのアニメ画で、スマートフォンのケースと同じタッチだ。
「Twitterを登録した日付ってどうですかね?」
「ああ、関係あるかもな。そういや知ってるか? 『ジュラシック・パーク』の日本公開日は」
「さっき聞きましたよ!」
柴山は強い声で言った。
「ああそっか」
手持ち無沙汰な慈道は、右の肘をついて頬杖をし、悟られないようにアリサの顔を伺っていた。
「確か、登録日は2014年の3月2日です。20140302……」
「偶数だから素数ではないわね」
「そういや、『ジュラシック・パーク』で思い出したが、俺は近い将来、SF小説かなんかで、DNAの塩基配列が秘密鍵になっているような作品が出てくると思うんだが」
「DNA……」
アリサが過敏に反応を起こした。
「デオキシリボ核酸つったっけ。一応一人一人固有のものだ。塩基配列は確かA、G、T、Cで組み合わされた重複順列。4進法として考えれば、自然に整数と同一視できる。暗号理論の話になるが、秘密鍵の管理って結構大変らしいぞ。昔、NHKスペシャルでやっていたが、あるIT業者は、金庫の中に素数を厳重に保管してるっていうし。紙とか記録媒体に記録するって、どれだけ厳重に管理してもリスクは 0 じゃないよな。だったら自分の体そのものに鍵を隠しておくっていうのが面白いかなってな」
「なるほどー。フィクションとしては面白そうですけど。アリサ、DNA検査したことある?」
「あるわけねーだろ! 一体なんのために?」
アリサではなく慈道が素早く突っ込んだ。それも珍しく強い声だ。
「そ、それもそうよね。ごめんなさい」
「いえいえ」
アリサは涼しい顔をして自販機であらかじめ買っておいたプラスチックカップに入った無糖のカフェオレを口にした。慈道は頬杖をしていたのを一旦崩し、いったん背筋を伸ばして体を引き、ストローをくわえるアリサを凝視する。
「あ、アリサ。この写真、去年の夏よね。湘南に行ったときの」
「本当だ。楽しかったですよね」
慈道の耳がぴくりと反応する。「夏」、「湘南」という二つのキーワードから「海水浴」という三字を導くのは慈道にとって容易かった。柴山の胸は平坦であるが、引き締まったプロポーションを保っている。アリサは長身でありながら、柴山よりも胸が大きい。
なにやらよからぬ妄想を始めた慈道の
「ちょっとなに見てるんですか!」
柴山は甲高い声を上げて、タブレットの画面を伏せた。慈道は忍び足で回り込んで二人の背後に近き、9.7インチのタブレット画面を覗き込んでいたのである。
「いや、ちょっと退屈でさ。どんなものか俺も興味が……」
「しっし……」
動物を遠ざけるように柴山は手で
「俺は犬か……というかその 101 ってなんだ?」
「101? ああ、このユーザー名 @sarisa101 の。写真メインの画面でよく気付きましたね」
「最初、arisaで登録しようとしたら当然使われていて、arisa101もダメだったので、sarisa101に落ち着いた感じです」
「その 101 って数字はどっからきてるの?」
慈道はそう言って自分の席に座り直した。
「『101匹わんちゃん』って映画知りません? あれ私凄く好きなんです。安易ですけど、そこからきてます」
「ああ、昔、テレビで観たことあるわね。確か、犬の皮を剥ぐ映画だっけ?」
「そんなんじゃないです……」
「おい、さっきからお前こそデリカシーのない発言してるじゃねーかよ」
「たはは。失礼。ところで、先輩は 101 に反応しているみたいですけど。確かに素数っぽいですけど小さ過ぎません?」
「井上先生は君のTwitterを見ていた可能性はあるのかな?」
「え? 教えたことはないですけど……割と平凡な名前だと思っているので、Twitter内に同姓同名がいてもおかしくないと思いますが」
「今平仮名で検索してみましたけど、30人近くいますよ」
「写真の内容や、大学受かったー! とか、フル単だったー! とか、おじいちゃんにこれ買ってもらったー! とか呟いているを見たら、なんとなく自分の孫娘を割り出すことは可能なんじゃないないかな」
「全世界にプライベートを発信しているわけですからね」
「もっともこの場合、数学科でダルメシアン好きって時点で家族が見たら特定されそうだが。一つの仮定として、君が公開している情報を元にRSA暗号の鍵を生成したとなると、 101 という数字は使いたくなる。これを 16 進数で表すと 257 だ」
「あ! 4 番目のフェルマー素数 F_3 ですね!」
「さっきも言ったが、RSAでは暗号化するための指数 e は F_4 すなわち 65537 が使われることが多い。これを16進法に直すと 10001 だ。暗号理論の専門家だったら 101 にも反応したんじゃないかなーって思ってな」
「なるほどー、ありかも知れませんね」
柴山は計算用紙になにかをメモしている。
「ちなみに 101 は2進数で考えると 5 でもありますよね」
「さすが鈴木さん。 F_1 のことだ。ただ、 e があまりにも小さいと暗号が復号されてしまうから、俺の直感は 257 だな」
「先輩は、こういうことに関しては犬より嗅覚鋭いから!」
「あと必要なのは……公開鍵 N ですか?」
「それな。しかし、 N がもし分かったところで、それを素因数分解できなければそこで頓挫する。鍵は鈴木さん自身と言っているし、 e = 257 と仮定すると、秘密鍵がこのTwitterのどこかに眠っている可能性は非常に高い。眠っている p, q を掘り起こせば自動的に N も分かる」
「よし、その路線で調べてみましょう」
柴山はそう言って、アリサのTwitterの画面をくまなく調べ始めた。
そんな柴山を見て、慈道は「数学科の学生ってやっぱ暇だよな」と心の中でぼやいていた。
アリサの公開鍵は、 e = 257 ではないかという憶測以外に進展はなく、その日は間もなくお開きとなった。
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