小説とシナリオの違い

『サイダーのように言葉が湧き上がる』の小説版が映画公開に先立って発売されました。



小説版はイシグロが執筆しています。子育てに追われながら正月返上で書き上げたので思い入れもひとしおです。普段は絵や映像に直結する仕事が主なので、文字の仕事はいつも新鮮な気持ちで携われて、とても楽しいです。


アニメの制作方法は監督によって違いますが、イシグロの場合、第一歩はシナリオ制作から。ひとによってはイメージボードを先行させる監督もいるようですが、イシグロは文字ベースで始めます。物語、登場人物、舞台などを文字で書き表してから、絵を作っていきます。


ところでシナリオの打ち合わせ(本読みと呼ばれます)でしばしば話題に上がるのが「このシナリオ、ちょっと小説っぽくなっちゃってるね」という話。たしかにどちらも文字のみで物語を進める媒体ですが、その違いをハッキリ理解しているひとは、アニメの現場では少ない気がします。


サイコトのノベライズも担当したことですし、今回は小説とシナリオの違いを書いてみようと思います。



【シナリオ】

物語の構成そのもの。構造を形作るもの。登場人物がいつ、どこで、なにをして、どうなるか、などの客観的事実をシーンとしてまとめていき、複数のシーンを有機的につなげていくことで物語の全体を構成したもの。設計図。


【小説】

誰かの視点で物語が最後まで進行するもの。設計図をもとに、あらゆる表現を文字のみで作品に昇華させたもの。一人称であればそのキャラクターが主観的に思ったこと感じたことは(基本的には)すべて読者に提示されるので、感情表現を詳細に描写できる。文章での感情表現に作者の趣味趣向が出る。



上記の一般論を踏まえてイシグロ個人が感じている違いは下記の通り。



【シナリオ】

別の媒体に置き換わる。乱暴に言えば中間素材。置き換わる媒体(映像媒体なのか文字媒体なのか)を念頭に置いて書いたほうが良い。


【小説】

媒体としてそれ単体で完結していなければならない。別の媒体に置き換わることは想定しない。



サイコトは、まずアニメ用のシナリオを脚本の佐藤大さんとイシグロが共同執筆で作っていきました。役割としては物語の構成、登場人物、舞台となる場所を大さんが作り、キャラの深掘りや映像演出を踏まえたシーンの構成をイシグロが担当。といっても互いのアイデアにどんどん意見し合って書いていったので、役割分担は有って無いようなものです。


アニメ映画用のシナリオなので、あたりまえですが、アニメ化を前提にシナリオを書いています。アニメなりの飛躍した表現も、シナリオの時点でリアリティレベルを検証しながら書きました。その後、ノベライズをイシグロが担当することになり、アニメ用のシナリオをもとに小説用のシナリオとしてイシグロが書き直すことにしました。



アニメ用=映像用とも言えるので、文字のみで表現していく小説にそのまま代用できるわけではありません。



たとえば物語の舞台となるショッピングモールや田んぼの農道にしても、アニメ用のシナリオは『絵で提示する』ことを前提に書いています。チェリーやスマイルが映っていなくても、モールの全景が映るカットを提示すれば観客に舞台の情報が伝わります。今作でもう一点大事だったのが、モノローグ=心の声を一切使用しないこと。モノローグを使用しないということは自動的に『三人称』で描くことになり、神の視点でキャラを追っていくことになります。ちなみに三人称でも誰を主体にしたシーンなのかは意識しますよ。有川浩さんが得意な『三人称○○視点』というやつです。


小説版はチェリーとスマイルの感情を詳細に描写するために『一人称』で描くことを選択しました。ある章ではチェリーの視点、次の章ではスマイルの視点という、章ごとに視点が入れ替わる構成になっています。一人称で物語を進めていくため、舞台を説明するにしても、アニメでは美術のみを見せていたカット(=三人称)を誰かの視点(=一人称)で描き直して読者に提示しなくてはなりません。



具体例を挙げてみます。冒頭、舞台を説明するシーンです。



アニメ用のシナリオでは、

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○小田市・ヌーヴェルモール小田(午後)

 小田山と和馬山に囲まれた地方都市。

 郊外には青々と稲穂が揺れる広大な田んぼ。

 そのそばに建つ巨大なショッピングモール、ヌーヴェルモール小田。

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と書いています。


同じシーンを小説用のシナリオでは、

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 広大な田んぼを東西につらぬく幹線道路。

 田んぼを碁盤の目状に分断している農道。

 ※小田市の特徴なども言及。

 歩いていくチェリー。

 水路から流れ込む水。たくさんのアメンボが水面に波紋を作る。

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と書き直しました。



一見違いがわからないかもしれませんが、イシグロはアニメ用のシナリオを『三人称=神の視点』を前提に、小説用のシナリオを『一人称=チェリー視点』を前提に書き分けています。


アニメ版では、上記のシーンを広めの画角で美術を撮っていき舞台となる街の様子やモールの外観を観客に提示するように仕上げました。ティザームービーの一番最初のカットがこのシナリオの該当シーン。


【映画『サイダーのように言葉が湧き上がる』ティザームービー】

https://www.youtube.com/watch?v=8weCu7Vctts


映像なのでカメラの置きどころは自由。客観的事実として舞台の様子を描いています。本編ではさらにいくつかのカットがあって、舞台を説明するようになっいます。



一方、小説用のシナリオにある『田んぼを碁盤の目状に分断している農道。』はチェリーがその場に立っていて、チェリーの目線の高さで、チェリーの目を通して読者に提示されます。さらっと宣伝しちゃいますが(笑)、KADOKAWAさんのサイトで該当シーンが試し読みできますので気になったら目を通してみてください。p8あたりです。


【小説 サイダーのように言葉が湧き上がる】

https://www.kadokawa.co.jp/product/321910000698/


小説は冒頭でも書いたとおり媒体としてそれ単体で完結していなくてはならないので、シナリオをもとに、チェリー視点で、チェリーの感性で、そしてイシグロの文章的趣味趣向を加えて、表現していきました。



「ちょっと小説っぽくなっちゃってるね」と言われてしまうシナリオとは、つまりはキャラの感情表現や状況描写が『文章での表現で完結してしまっている』シナリオを言います。



例)Aというキャラが深夜の廃屋で幽霊を見たシーンとする。


シナリオの正しい書き方は、

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 恐怖の表情で後ずさるA。

 額に冷や汗が一筋流れる。

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一方、小説的な間違った書き方は、

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 それを見た瞬間、動けなくなるA。

 ミミズが額をゆっくり這うような気色の悪い感触が、Aの恐怖心を一層強める。

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極端に書き分けましたが、こんな感じです。


正しいほうは客観的事実のみを書いています。間違ったほうはキャラの内面に入った状態で状況を描写してしまっています。例に挙げたシナリオが映像用のものだとしたら、キャラの内面を表現するのはカメラで捉えた表情や仕草でするべきだし、小説用のものだとしたら書いた時点で中途半端にになってしまっていて、シナリオ本来の目的である『構造を形作る』のに適さない書き方になっています。


この違いをしっかり認識したうえで、シナリオなり小説なり書かなければなりません。



イシグロはもともと音楽畑の人間だったので、絵もそうですが、文字媒体の基礎学力がゼロでした。アニメの監督は絵だけでなくシナリオを正確に読み取っていかないと成り立ちません。なので独学でかなり勉強しました。この情熱が学生時代にあったらもっといい学校に入れたかもしれません……。まあでも働き始めてから必死に勉強したことが仕事として成り立つようになれたので、これはこれで良いのかな、とも思っています。



監督は、やる気があれば、映像だけではなくシナリオを手掛けることが可能ですし、なんなら今回のイシグロのように小説を書くことも出来ます。飽きっぽい自分にとってはありがたい職業です。

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