咲子の陽だまりの庭

秋野 木星

第1話 始まりの庭

 窓の外からカエルの合唱が聞こえてきている。


こうやって聞いていると、一種類の泣き声じゃないんだな。


田んぼに囲まれたこの平屋の古い家を買ってから、初めての梅雨を迎えている。


大学入学時に家を離れ、そのまま大学のある県内の図書館に就職した時が、咲子さきこにとっては最初の大きな転機だった。

今回、三十歳を迎える年に家を買うことにしたのは、自分の人生での二度目の曲がり角になりそうだ。


結婚を諦めたということだものね。


小さい頃から漠然と、大人になったら好きな人に出会って結婚し、子どもを二人ぐらい産んでお母さんになるんだと咲子は思っていた。


ところが二十九歳のこの歳になってもそんな未来はやってこなかった。



結婚というものは、相手があって成立するものだということを咲子は実感していた。


図書館の同僚は男女とも既婚者の人が多く、職場での出会いは全くない。


図書館を訪れる人は会社を退職したおじいさん予備軍の人や家族連れの人が多い。滅多に来ない若い男の人は何かを調べる目的をもって来ているので、咲子のことはヤ〇ー知恵袋かグー〇ルの検索機器の一種と思っている節がある。

つまりお客さんとの出会いも全くない。


仲良くしている二十七歳の信江のぶえが唯一の独身仲間なのだが、彼女には遠距離恋愛の彼氏がいる。


どこで知り合うんだろう?


そんなことを友達に聞いたことがないのも咲子の、のんびりとしたところなのだ。



転勤族の父親は母親を伴って、今は遠い九州の地にいる。

妹の俊美としみは名古屋の大学を出て、車の制動制御を研究している人と咲子よりも先に結婚してしまった。四月に男の子が生まれて、今は子育てに忙しくしているようだ。


父親が転勤族だったために、咲子には故郷と呼べる場所がない。

それで大学を岡山に決めた時に、ここを故郷にしようと咲子は思った。


こういう職場環境であり、家庭環境であるため、職場恋愛も家族が紹介してくれるようなお見合いも諦めた。

このままの生活ではこれからも好きな人ができそうにないので、この家と結婚したつもりでここに一生落ち着こうと思っている。



普段、贅沢をしない咲子は貯金をたっぷり貯めていた。

それを頭金にして、銀行に十五年ローンを組んでもらった。

父親に保証人になってもらって咲子はこの春、一家の主になったのだ。




◇◇◇




 咲子の家は、村の集落からポツンと離れて建っている。


近くに小山があるが、ご近所さんは田んぼのカエル君たちであり、たまに庭にやって来る蝶々さんたちだ。


生まれてからずっとアパート生活だった咲子にとって、この新しい環境は新鮮な驚きに満ちていた。

とにかく他人がたてる物音がしない。

隣の家の水道の音や子ども達の走る音に慣れていた咲子は、この家に移り住んで異世界にやって来たように感じた。



今日は何をしようかなぁ。


外から久しぶりに人がたてる物音がする。

カタキチカタキチ

二、三日前から田んぼに水がはってあったので、たぶん田植えをしている音なのだろう。


のんびりしたその音を聞きながら、咲子は縁側でぼんやりと考え込んでいた。


月曜日と火曜日が休みの咲子は、この連休のうちにやっておきたいことを頭に浮かべた。


★ 郵便箱を作りたいのよね。


そのために図書館から「わたしのインテリア改造計画 川岸 歩 著 誠文堂新光社出版」という本を借りてきている。


★ 梅酒を作っておきたいな。


少し前に本屋で買った「きょうの料理 六月号  NHK出版」に梅酒の作り方が載っていた。

スーパーにも梅の大袋が出ていたと思う。



よしっ!

ホームセンターとスーパーに出かけよう!


咲子は必要なものをメモ帳に書き出して、出かける準備をすると、軽四自動車の鍵を手に持って玄関から飛び出した。




◇◇◇




 軽快なポップスの曲に合わせて鼻歌を歌いながら、咲子はホームセンターの駐車場へ車を止めた。


村には洒落た店はないが、農家の人が多いので大きなホームセンターがある。


確かこっちにDIYの道具があったよね。


ずらりと並んだ釘や蝶番を眺めて、本に書いてあったサイズのものを選んでいった。取っ手は本のものとは違う黒色の枠のものを買うことにした。

そして木に塗るペンキも自分の好きなペーパーミントグリーン色の水性塗料と、オイルステインに決めた。


おー、どんな感じになるか楽しみだな。

久しぶりの木工に、気持ちが浮き立ってくる。


金槌、くぎ抜き、キリ、ドライバーも揃えて、最後に木を寸法に合わせて切ってもらった。



車に買ったものを置きに行く途中で、野菜の苗が目に入った。


これから植えても育つのかな?

売ってるぐらいだから大丈夫よね。


咲子はキュウリとナス、そしてトマトの苗と花と野菜の土、それにスコップも買い足すことにした。



スーパーに着く頃にはすっかりお腹が空いていて、目に入るものがすべて美味しそうに見える。


まずは季節のコーナーに並べてあった梅、氷砂糖、リカー、瓶をカゴに入れてから、昼ご飯を物色することにした。


暑いから素麺にしようかなぁ~と立ち止まった麺売り場で、映像のコマーシャルが流れていて、優しそうなお姉さんがゴマの麺つゆを使ったサラダうどんを作っていた。


わわっ、これ美味しそう…。


フムフムと頭の中に材料を思い浮かべる。

トマトとキュウリが冷蔵庫にあったから使えるな。乾麺とゴマの麺つゆと、鶏むね肉の総菜用のパックを買ったら簡単にできそう。

そしてこの上にのっける温泉卵…これは外せないよね。残ったものはカレーライスに入れたり朝ご飯に食べればいいかなと思って、思い切って三個入りの温泉卵も買うことにした。



家に帰って、買って来たものを次々に車から降ろしていると、庭の入り口から声をかけて来る人がいた。


「あの~、お忙しい所すみません。」


「はい。」


いったい誰がやって来たんでしょう。





  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る