[屋根裏心中]-1- 高窓の外は雪です。

 この手記を読んでいる人が居るということは、私はこの世からの脱出に成功したということでしょう。


 こんなありきたりな一文を書く日が来るとは、ゆめゆめ思いませんでしたが、つまるところ、そういうことです。大家さんには大変にお世話になったにも関わらず、恩を仇で返すような事となり、申し訳なく思っております。

 恐らく私は、現世では失踪したこととなるでしょう。そんな私が間借りをしていたこの部屋に、瑕疵がつくのか否かは、恥ずかしながら予想しかねるところではありますが、家財の処分など、諸々のお手間をかける事は間違いありません。

 思い返すと、そもそもこの物件に入った事が運命であったのです。初めから、この家には…いえ、この家の屋根裏には、何とも言えない心の震えを感じておりました。隠し階段を上った先の暗い空間は、記憶の深淵に沈む胎内記憶を呼び覚ますような安心感をくれました。そして何よりあの高窓の外の風景は――。あの高窓がとても静かな、安寧の世界の入り口だと気付くのは、どうやら彼女に気に入られた人間だけのようです。

 彼女の事を書いておきます。私はこの家に入居してすぐ、寝室を屋根裏に決めました。寝入りばな、高窓の光がちょうど差し込む位置が枕の位置となるように、窓に足を向けて布団を敷きました。そして、その位置で寝起きし始めたその日から、彼女が部屋を訪れるようになりました。

 決まって夜半過ぎ、窓がぎい、と押し開かれます。最初はそれはもう、恐ろしいと感じました。けれどすぐ、ゆっくりと歩み寄る彼女の白く美しい顔に見惚れ、そのすべらかな白磁の肌に魅了されました。彼女は私の横に立ち、じっと見下ろしています。その時、私の体は凍りついたように動きませんでした。

 彼女は全裸でした。恥ずかしながら、男寡おとこやもめの私にはそれは自分の欲望が見せた夢としか思えず、恐ろしさよりも先に欲情を覚えておりました。詳細は省きますが、彼女はそれから毎晩、私の寝具の中に忍んできました。

 私の体は自由にはならず、行為は常に彼女が主体でした。その頬は常に人形のように無表情ではありましたが、私の上でしなる肢体を思うに、きっと満足してくれていたのだと思います。

 そんな逢瀬を一年も続けるうちに、私は寝具に横になることを辞め、高窓の下に脚立などを用意して、窓の外を覗くようになりました。

 窓の外は驚くべき風景が広がっていました。ご存じのとおり、東京でも特にこの界隈はごみごみと雑多な区画ですが、窓の外は一面の雪で、民家などありません。街灯もないのでとても暗く、よくは見えませんでしたが、少し先に鬱蒼と広がる森が見えました。そのまま待っていると、さく、さく、と小さな音が聞こえ始めます。雪を踏みしだく音です。彼女はとても綺麗な歩き方をします。さく、さく、と雪を踏みながら、森から出てくる彼女は、幻のように美しく、恐ろしくもありました。昔語りで聞いた雪女郎とは、この様な姿だったのではないか。いつしかそう思う様になりました。

 今は夏です。しかし、今日も窓の外には銀世界が広がっています。今夜彼女が来たらば、私はその後を追い、雪の中に踏み出すつもりです。恐らく、もう戻れはしないでしょう。

 それでは皆さん、どうぞ御体に気を付けて――。

                            柳楽 美吉

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