音湖の憂鬱
音湖と由莉が帰ってきたのは日が落ちる寸前、午後5時半頃だった。
「さっすがに疲れたにゃ……久しぶりに山の中を走り回ったにゃ」
「音湖さんずっと走ってるから追いかけるの大変でした……」
走り慣れない所を何時間も歩いたり走ったりしていたおかげで明日は間違いなく筋肉痛になるだろうなぁ……と、翌日の事を考えて苦笑いしていると、ようやく家が見えてきた。
「さて、由莉ちゃん。自然の中で走り回ってどうだったにゃ?」
「コンクリートとは全然足の疲れ方が違いました……けど、なんだかすごく気持ちよかったです。土の上で走る感触に慣れれば何か見えそうな気がします」
「にゃははっ。ほんっと、手がかからない弟子にゃ。うちが教えられることがすぐなくなりそうにゃ」
「そんなことないですよっ、まだまだ音湖さんや阿久津さんに手も足も出ませんし…………それに、音湖さん。もし、私と同じ実力の人が暗殺の対象だった場合───音湖さんなら簡単に殺せますよね?」
穏やかな空気から一変、由莉がその話を持ちかけると笑っていた音湖も急に真剣な顔で考え込んだ。
「……正直に言うにゃ。今の由莉ちゃんくらいの実力の人なら何十人か殺したことがあるにゃ。まだ、由莉ちゃんはその域を抜け出していないにゃ」
「…………分かってて聞きましたけど、やっぱりそうなんですね……」
身体能力が良くても暗殺ではその一瞬で勝負が着く事が多い。そうなると絶望的な身体能力の差さえも埋めてしまうことがあるのだ。だからこそ、由莉は暗殺のキャリアが豊富な音湖に聞きたかった。だが、それでも返ってきた現実には由莉も少ししょんぼりするしかなかった。
「けどにゃ、あまり不安定な力に頼るのはよくないけど、ゾーン状態の由莉ちゃんなら……ちょっと頑張らないとキツいかもにゃ。あの状態のレベルを身につけられればナイフでの暗殺はほぼ対処出来るはずにゃ」
それでも、と音湖はその壁を破る目安を教えてくれたのだが、今日のゾーン状態の感覚を普通の状態にするのは困難を極めるとしか言いようがなかった。……だが、やるしかない。その為に由莉は音湖に師匠になってもらえるように頼んだのだ。弱音なんてもう今更だ。ここでやらなければ自分が一生後悔するのだ。
そんな決意を固める由莉の傍らで音湖もほんの一瞬だけ、あの時の事を思い返していた。
───まぁ、『あれ』には勝てる気がしないけどにゃ。……まさかとは思ったけど、あれは間違いなく────
───────────────
「ただいまにゃあーー!!」
「た、ただいまーーっ」
家に響き渡るように叫ぶ音湖を見て、自分もと大きな声を出すと、凄まじい速さで床を鳴らす足音が聞こえたかと思ったら、えりかが半分涙目で由莉にダイブした。
「ゆりちゃぁぁああぁーーん!!!」
「えりかちゃん、ただいまっ」
「会いたかったよ〜っ。ゆりちゃんだ〜、ゆりちゃんがいるよ〜」
「も〜、大げさだってば〜」
100%来ると思っていた由莉は飛び込んできたえりかを疲れた体ながら、しっかりとキャッチすると、離すものかと頬をすりすりしてくるえりかを由莉はそっと抱きしめてあげた。本当に愛おしくてたまらなかった。
しばらくそうしていたが、由莉の息があがっている事に気づいたえりかは心配そうな表情で由莉を見つめた。
「ゆりちゃん……へんなことされなかった?」
「……大丈夫だよ、えりかちゃん。今日1日、音湖さんと一緒にいて分かったよ」
由莉は一旦、抱きついているえりかを離す。どうして? と、きょとんとしているえりかに由莉は目を閉じ、1度深く深呼吸をすると自分の覚悟をえりかに伝えるように己の全てを込めるつもりで、えりかの瞳をじっと見た。
「音湖さんは……絶対に私を強くしてくれる。だから……信じて?」
「…………うんっ。やくそく……だからね?」
その琥珀の瞳の中にこれでもかと詰め込まれた覚悟を垣間見たえりかは由莉が本心で言ってる事なんだとはっきり分かった。その一言で、ようやくえりかに付き纏っていた不安はとっぱらわれた。
……音湖の事はまだ許す気になれなかったが。
と、えりかは由莉との数時間ぶりの再会を堪能した所でハッとして由莉の手を握った。
「あっ、ゆりちゃん! おなかすいたでしょ?」
「えへへ……実はもうお腹ぺこぺこだよ〜」
ばれたかーと頬を人差し指で掻きながらにやけ笑いを浮かべる由莉をえりかはいつもより遥かに嬉しそうな様子で中に引き込んだ。すごく積極的なえりかに由莉も若干押され気味だったが、まずはお風呂に入りたいと部屋に直行した。
もちろん、えりかも一緒に入ったのは言うまでもない。
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
体の火照りが取れぬままにジャージに袖を通した2人は部屋の外に出ると、丁度のタイミングで音湖も風呂上がりのようで、髪がぺっとりとしなっていた。
しかも相当な薄着だ。見えてはいけない部分まで見えそうになっていて、2人の前では初めて見せる濃艶な姿の音湖に暫くの間釘付けになってしまった。
「にゃっ、どうしたにゃ、2人とも?」
「あれ……? 音湖さん……そんなに大きかったですか?」
2人の視線の釘付けになってる事に音湖は理由も分からず頭にハテナマークを浮かべていたが、すぐにその視線が自分の胸にいっているのが分かると少しだけ照れながら、かつ、うざったいように自分についている邪魔な脂肪を摘んだ。
「これにゃ〜……いつもは、さらしでキツく巻いてるんだにゃ。こんなもの、あっても邪魔にしかならないにゃ……はぁ、少し前はうちもそこそこだったんだけどにゃ、どうしてこうなったにゃ」
段々暗くなっていく音湖を見た由莉はちょこっといいかも? なんて思っていた胸への憧れがだいぶ引けてしまった。一方のえりかはそう言ったものに興味がなかったので、反応すること無くサラッと流した。
「……まぁ、なってしまったものはしょうがないから、仕事で邪魔にならないくらいには毎日キツく縛ってるんだにゃ。はぁ……」
「あ、あはは……ともかく音湖さんも行きましょうよっ! お腹が空きすぎてどうしようもないです」
「それもそうかにゃ。さて、2人とも行くにゃ」
気だるさを強引に振り払った音湖が由莉たちの先を行くようにして、3人は阿久津のいる場所へと足を運んだ。
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
キッチンのすぐとなりのダイニングのような所についた3人を待っていたのは阿久津だった。……音湖を見た瞬間、ちょっとため息をついていたが。
「……ねこ、しっかり服は着るようにと前も言ったはずですよ」
「だーかーらー、仕方ないんだって言ってるんだにゃ……うちだって着れるものなら着たいにゃ。好きで……こう言ってると思うのかにゃ?」
男の君には分からないだろう? と言わんばかりの音湖の辛そうな声を聞き阿久津も声をつまらせてしまい、若干肩を落とした。
「……分かりました。少し悪い事をしましたね。さて、夕食にするので早く座ってください」
「…………にゃ」
そんな会話を聞いていた由莉もえりかも、本当に何があったんだろう? と思うくらいに重い空気が漂ったが、それもすぐさま解消され、ようやく夕食を食べる準備が出来たのだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます