箱庭の恋
明月京滋が転がり込んだFHの研究施設は、組織の間では『箱』と呼ばれる少々変わった場所だった。
曰く、あらゆるレネゲイドビーイング、オーヴァードを集められる限り蒐集し、管理している。
標本箱が由来とされているのだとか。
もっとも、明月京滋としては自身の研究に没頭できればそこが標本箱だろうがなんだろうがどうでもよかったのだが。
幸い『箱』は研究施設としてはかなり優秀なものであった為、彼の研究は毎日滞りなく行われていた。
そしてその研究対象、息子である明月透は今日も一等塞ぎ込み、部屋の隅でうずくまっていた。
その日も透は父の研究の一環で、獣のようなレネゲイドビーイングと殺し合い、半ば半狂乱で獣達を滅多刺しにしてきた後だった。
そうして、それが終わった後はいつもこうして落ち込んでいた。
父である京滋はこの行為を褒めることしかしない、お前は素晴らしいなどと屈託無い笑顔で言うのだから気が狂いそうになる。
だからレネゲイドビーイング達を刺し穿ち、切り刻んだ後はこうして一人になりたがる事が多くなった。
すん、と鼻を鳴らして潤んだ目を擦る。
どうしてこんな事をしなくちゃいけないのだろう。
お母さんも真っ赤になって倒れている姿を見て以降、それきりだ。
お父さんもいつもと同じ様に見えて、どこか違う様に感じる。
もうこんなこわい怪物達を相手に、訳のわからない力を使うのは嫌だ。
家に帰りたい。
じわりと目に涙の膜が張る。
それを拭おうとした瞬間、頭の上から知らない人間の声が降ってきたのだ。
「ねえねえ、キミが最近来たアカツキ先生の子どもさん?」
「えっ………うわッ!?」
声のした方向に顔を向けると、そこには多分年頃が同じくらいであろう子供が透の方を見つめていた。
「わあ、キミ随分キレーな顔だねえ!ボク、キミみたいな美人の子、初めて見たよ?」
「えっ……えっ……?ええ??」
歳のわりに、飄々とした子供だった。
亜麻色の髪は肩上で切りそろえてあり、少しくせ毛なのだろうか、ふわふわと揺れている。
この子供は、透のことを綺麗な顔だと称したが、透からしてもその子供も随分と可愛らしい顔立ちをしている様に思えた。
たれ目のぱちりとした目は快活そうにきらきらとしており、菫色の瞳は宝石のようだ。
「え、えと…あの…だ、誰……?それよりなんでここに……?どうやって入ってきたの…?」
突然の来訪者に、透はしどろもどろになりながらも疑問を投げかける。
それを受けた子供は、ああ!と得心した様にぽんと柏手を打った。
「そうだよねえ、まず初めまして同士は『じこしょーかい』をするもんだってパパも言ってたっけ!」
一人そうごちた後、子供は透を真正面から見据えると、快活明朗を絵に描いたような笑顔でこう宣った。
「ボクはクレハ。天皇紅葉(すめらぎ くれは)だよ。この『箱』でキミと同じ様に訓練を受けてるんだ。……でも、キミの事はアカツキ先生の好きな様にさせてるらしいから、細かい事を言うなら全く同じ様ってワケじゃあないらしいけど…まあ大体やってる事は一緒だよ!多分!」
子供ークレハはそう言うとキミの名前は?と透を促す。
「……明月、透…」
「トオル?え〜と……透チャン?」
「………くんだよ」
「エッ男の子だったの!?なんだあ向こうから見てるとめちゃくちゃメソメソしてたから女のコかなって思ったんだけど」
流石の透も、その様な事を言われると子供ながらに男としての矜持が傷つくのか、思わず顔を露骨に顰めてしまう。
それを見たクレハは慌てて謝罪する。
「あっゴメンゴメン!悪かったって!機嫌直してよお透!」
「……そういうキミは、クレハ……ちゃん?それともくん?」
それを聞いたクレハは、目をぱちりと瞬かせた後、にまりと微笑む。
「どっちでもいいよ?ボクは一応女のコではあるけど、実はあんまり女のコって好きじゃないんだ。あ、別にクレハちゃんって呼んでも怒ったりしないから安心してね?」
「……そう、じゃあ…クレハちゃん…で」
「うん、よろしくねえ、透!」
クレハは透の返事に満足そうにうんと頷くと、彼の両手を取ってぶんぶんと上下に振り回した。
「……ところで、どうやってここに入ってきたの?こんな事して怒られないの、クレハちゃんは」
ひとしきり落ち着いた所に、透は先刻から疑問に思っていた事をクレハに問い掛ける。
それを受けたクレハは、にんまりと笑みを浮かべたあと「こうして入ってきたんだよ?」と、透の目の前に晒した右腕をぐにゃりと捻じ曲げてみせたのだ。
おおよそ人間では不可能な、軟体動物の様に捻れる右腕を見た透は口をあんぐりと開けてクレハを見遣る。
「こ、こ、これ………コレ………ッ!?」
「ああ!だいじょぶだいじょぶ!ボクはこういうシンドロームだから!」
「シンドローム…?」
あからさまに動揺する透を余所に、至極あっけらかんとした様でこの異常な光景を語るクレハは、彼の様子を鑑みて、もしかして知らないの?と透に問うた。
驚きのあまり言葉が出ない透は首を上下に振って肯定を示す事しか出来ず、しかしその意はクレハに伝わったのか彼女はなるほど、と納得した様な面持ちになる。
「じゃあボクが教えてあげるね」
そうして彼女は透にレネゲイドウイルスとは、オーヴァードとは、シンドロームとは何たるかを簡単に言って聞かせた。
「…で、ボクは身体のカタチを自由に変えられるエグザイルと火とか氷を操るサラマンダーってシンドロームを持ってるんだ」
「……へ、へえ」
言いながら腕を変形させるクレハに引き攣った笑いを浮かべながらも透はとりあえずの返事をする。
クレハはそんな彼を見遣った後、思い出したかの様にこう言った。
「ねえねえ透、透は外から来たんでしょう?ボク、今までずうっと『箱』から出た事がないから外がどんなか知らないの」
「……ここから出た事がないの?」
「うん、だから外がどうなってるのか知りたいんだ。」
教えてよ、とクレハは小首を傾げて問う。
透はクレハを変わった女のコだと思っていたが、なるほど、この子が変わっている風に見えるのはここから出た事がないからなのか、と一人得心していた。
そうであればと、透は今まで自分の通っていた幼稚園での事、両親と行った遊園地や動物園の事などを彼女に話して聞かせた。
彼としては今までの経験を訥々と話して聞かせるだけのものであったが、それを聴くクレハは些細な事で喜んだり感心したりと表情をくるくると変えていく。
透はそんな彼女の様子を見ていると、なんだか久方ぶりに楽しい様な、浮き足立った様な心地になり、思い出せる限りの話をクレハに語っていった。
そうして随分と時間が経った頃に、透の居る房の扉が開かれた。
「……ああ、君は」
開いた扉の前には透の父親である京滋が食事を持って立っており、クレハの姿を認めて一瞬面食らった後、納得したかのように一人頷く。
「スメラギ所長の娘さんか」
「こんばんわ〜アカツキ先生!」
「………お父さん、あの」
父の与り知らぬ所で勝手に見知らぬ女の子と話していた事にまずいと思った透は、京滋を見るや否や俯いて目を逸らしてしまう。
そんな息子の様子を京滋は微笑んだ後「怒らないよ」と優しい声色で諭した。
「いい事じゃないか、友達が出来るのは」
「…………そう、かな」
「そうだよ、クレハちゃんと仲良くおやり」
気まずそうにする透の髪をくしゃりと撫でて京滋は言う。
「クレハちゃん、今日はもう遅いしお帰り。いくら『箱』の中を自由に見て回れるとはいえここも広いからね。きっと所長も君が帰ってくるのを待っているだろうから。」
「そう?う〜ん…パパもしょうがないなあ…ボクが教えてあげないとすぐ寝るのも食べるのも忘れちゃうんだもの。……ねえ透、また今日とおんなじくらいの時間に遊びに来てもいい?」
京滋の言葉を受けて、透の膝からすくりと立ったクレハは屈託無い笑顔で彼に問う。
透も一瞬逡巡したものの、こくりと頷いて「うん、いいよ」とクレハに返した。
それを聞いたクレハは満足そうにはにかむと、じゃあねと言って元気よく駆けていく。
「……彼女は元気な子だね、透」
「うん…」
「楽しかったかい?」
「………うん、たのしかった」
それは良かった、と息子を見て京滋は頷くと「さ、ご飯でも食べよう」と自身の持ってきた食事を透の目の前に差し出したのだった。
*
それからというもの、クレハは暇さえあれば透の房に入り浸る様になっていた。
彼女はこの『箱』の最高責任者の娘らしく、基本的にどこで何をするにも自由なのだそうだ。
だから彼女が勝手に誰かの房に入ろうが、誰も咎めることはしない、いわゆる暗黙の了解の様なものである。
ならば何故自分と同じ様な入院着を着ているのか、とクレハに訊いた所「ボクは訓練を受けるためにここに来てるからね」としたり顔で答えた。
なんでも、この施設は蒐集だけではなくFHの構成員の養成所も兼ねており、クレハは幼い頃から素養があった為、その訓練を受けるべくここに通っているのだそうだった。
本当はもうちょっと大きくなってから来るものらしいのだけど、というのが彼女の弁である。
透はFHという組織も、勿論UGNという組織についてもいまいちピンとこない為、そこはなんとなく流して聞いていたが、つまり学校の様なものなのだろうと一人で納得した。
クレハは透の知らないオーヴァードの事情やレネゲイドについてを、透は彼女の知らない外の日常の話をして大半の時間を過ごしていた。
そうでなければ京滋が普段透の房に置いていく本をクレハに貸して黙々と読んでいたりと透としては久しぶりに普通の子供の様な事をして過ごしていた。
クレハは変わった女の子であったが、それでも父である京滋以外に話相手の居なかった透にとっては気の休まる相手となっていた。
クレハも元々距離感の近い娘ではあったのだろうが、透に対して随分と懐いていた。
彼の話を聴く時は、彼の膝の上に寝そべって聴き入っていたし、何かにつけて抱き着いたり手を握りしめたりという事が多々あったため、透も最初こそ戸惑ったものの、最近はそういうものだと特に何も言わなくなっている。
「透は楽しいね、ボク、透の話してくれる事すごく好き」
ほう、と溜息をつきながら透の顔を見上げるクレハは少女にしては少し大人びた微笑みを浮かべいた。
「…そう、かな?あんまり珍しい事じゃないよ……クレハちゃんにとっては全部知らないことばっかりだからそう思うのかもだけど」
「ううん、透の話してくれることはなんでも楽しい。きっと透のお話だからそう思うんだね?」
困り顔ではにかむ透に、甘えた猫のようにクレハは擦り寄る。
「ボクねえ、今まで女のコでいるのが本当に嫌だったんだけど、実は最近そうでもないんだ」
「そうなの?」
「うん、透のおかげだよ。透はボクが女のコでも関係なく仲良くしてくれるんだもの。だからきっとそんな事を気にしなくてもいいんだって思えたんだ」
だからずっと一緒にいてね、とおる。とクレハは透の腰に手を回してやんわりと抱き締める。
透は少し逡巡した後、そうだね、と彼女の頭を撫でて言葉を返した。
そんなやり取りをした数日後だ。
いつものごとく房を出された透は、ああまたあの怪物達と対峙しなければいけないのか、とひどく憂鬱な気持ちになっていた。
何度やってもこれは慣れないものだった。
しかし嫌だと言っても京滋は透なら大丈夫、と優しく諭してくるだけで、最早透も拒否をする気力すら湧かなくなっていた。
また今日もあの無機質な檻の中で悍ましい怪物たちと対峙せねばいけない。
陰鬱な面持ちでいつもの場所に行き着くが、そこには普段鎮座している獣ではなく、ここ最近見慣れた姿がちょこんと立っていたのだ。
「あ、透!」
透の姿を認めて、ぱっと表情を明るくした彼女こそ、正しく天皇紅葉その人だった。
「え………クレハちゃん?」
どうして、と困惑する透をよそに京滋は「どうしたんだい?」と至って優しい声色で問い掛ける。
「なんでクレハちゃんがここにいるの」
「なんで、って…今日『実験』に付き合ってくれるのは彼女だからだよ」
「な、なんで……」
つう、と嫌な汗が透の背を伝う。
「じゃあ、クレハちゃんと…あんな……痛いことをしなきゃいけないの…!?」
視界がぐらぐらする。
あまりの動揺に正しく立っていられない。
父がなにかを言っているが、全く耳に入ってこない。
檻の方へと背を押されるが、抵抗がままならず、結局ふらついた足取りでクレハの居る檻の中へと押し込められてしまった。
透は前が見れないまま、ただ呆然とその場に立ち尽くしている。
「透?大丈夫?具合悪いの?」
向かいから掛けられたクレハの声は至っていつもと変わらない。
透はなにも答えられなかった。
ただ真っ白な顔でそこに立っているだけだ。
クレハは少し困った様に眉を下げた後「むう、仕方ないなあ」とうそぶいた。
なにが、と思った次の瞬間、鋭利な刃物が透の目の前を掠める。
「……ッ、ひ」
「あ、すごいすごーい!透ってばウンドーシンケーいいんだね!」
間一髪で刃物を避けた透は飛び退いた勢いでそのまま尻餅をついて座り込んでしまう。
刃物は形を変えたクレハの腕そのもので、それを振るった彼女は普段とまるで変わらない可愛らしい笑顔でそこに居た。
わけがわからない。
いや、状況は理解している。
ただ、なんでこんなことをしなければいけないのか、それだけがわからなかった。
どうして彼女は普段となに一つ変わらないのか。
どうして一緒にいてねと言った、あの時と同じ様な笑顔で自分を殺そうとできるのか。
僕には無理だ。
「や、やめようよクレハちゃん…僕は……クレハちゃんとこんなことしたくない……!」
「なんで?」
「なんでって……」
「だいじょうぶだよ、透。ボクたちオーヴァードは、ちょっとお腹が裂けたり腕がちぎれても死なないもの。だから、ほら、遠慮しないで…ね?」
刃物に形を変えた腕を再度彼女が振るう。
透はそれを再び避けるが、切っ先が頬を掠めて血が流れる。
クレハはいつもと変わらない。
まるでいつもと変わらず透に好意的であるのに、同時に殺意も本物であった。
透にはそれが理解できない。
繰り出される斬撃はあまりにも自分を殺すには容易いものばかりで、透はただただそれを命からがら避けていく。
なんで、どうして、とそんなことばかりが頭によぎる。
自分の話を心の底から楽しそうに聴いていた彼女も、今この場で自分を殺さんとする彼女も全く同じ人物だ。
怖い、全くわけがわからない、空恐ろしい。
気を抜いた瞬間、透はクレハに遂に馬乗りされて動きを封じられてしまう。
「ふふ、つーかまえたっ」
まるで鬼ごっこでもしていたかの様に、彼女は目の前でにこりと笑う。
息がつまる。
やられる。
そんなのはいやだ。
気付いた時には、透はクレハの左眼を自身の能力で生成した刀で貫き抉っていた。
叫びの様な悲鳴を上げて、そのまま彼女の肢体を力任せに押し倒す。
眼窩を貫いた刃を引き抜き、そのまま腹を、胸を、腕を、脚を、無我夢中で斬り裂き、抉る。
横たわる彼女の身体はもうピクリとも動かない。
透はそれを嗚咽を漏らしながら生気のない目で凝視めていた。
手はガタガタと震えていて、今まで倒した獣たちと同じ赤色がべっとりと付着している。
しかし、なによりも恐ろしいと思ったのは、懇意にしてくれた少女にこんな事をしておいて、ああ、自分がこうはならなくて良かったなどと、本気で安堵している自分自身だった。
それを自覚した透は、その場でただただ呆然と自分が手にかけた少女の肢体を眺めることしかできなかった。
**
天皇紅葉は、所謂実験のために造られた娘であった。
父は研究にしか興味がなく、母は男の身体にしか興味がない。
彼らが彼女を産んだのは、お互いの利害が一致しただけであったからだ。
その為紅葉は二人からはろくすっぽな教育も愛情も受けずに育っていった。
父のことは嫌いではなかった。
研究者としてしか接してこないが、それでもそれなりに会話をして、気にかけてくれるから。
対して母親はこの世の何よりも嫌いなものであった。
暇さえあれば知らない男を取り替え引っ換えして夜を過ごし、淫蕩な生活に耽る女を紅葉は酷く気持ちが悪いと思っていた。
彼女も彼女で紅葉の事など無いものとして扱っており、偶にお互い顔を見合わせても素知らぬ顔で通り過ぎていく。
紅葉は自分も大人になったらああなってしまうのだろうか、と思うと酷く気分が悪くなった。
どうして女になど産まれてしまったのだろうか。
私はあの女みたいに何人の男と毎晩下品な行為をするなんて御免だ。
だから紅葉はなるべく女の様に振る舞わないようになっていった。
自分のことを僕と呼び、なるべく中性的に振る舞う様にした。
どれもこれもあの吐き気のする女から遠ざかる為である。
そんな風に『箱』の中で生き6年近く経った頃、明月京滋という研究者が新しく『箱』に訪れたのだ。
京滋は物腰が柔らかく、周りの人間に対して柔和な男であり、紅葉は特に自分の父親にそれほど不満はなかったが「きっとこういう人がパパだったらもっと毎日楽しかったかもしれない」と思い彼を眺めていた。
ある日ふと興味本位で「アカツキ先生には家族はいないの?」と訊いてみた所、京滋は普段から優しげな表情を殊更柔らかくしこう言った。
「子供がね、居るんだ。奥さんも居たんだけれど、つい1年前に先立たれてしまってね」
「そうなの?アカツキ先生かわいそう」
「ううん、僕よりもきっと僕の子供の方が可哀想だ。まだクレハちゃんと同じ年頃なのに、もう母親の愛情も受けられないなんて」
紅葉はふうん、と京滋の話を聴いていた。
そして、そんな彼の子供とはどんな子なんだろう、と少し興味が湧いたのだった。
その日すぐにその子供が収容されている房まで脚を伸ばしてみたところ、房の中でうずくまって泣いている子供が一人居たのを見つけた。
多分あれがそのアカツキ先生の子供なのだろう。
遠目からぼんやりと眺めていたが、しばらくして紅葉は飽きてそのまま父の元に帰る事にした。
今日はもういいや、また明日来て様子を見よう、そう思った。
そんな事をして数日ほど経ったある日、いつまで経っても相変わらずめそめそとしている京滋の子供に業を煮やした紅葉は遂にその子供に話しかける事にしたのだ。
自身の身体をするりと格子の間に滑り込ませる。
ぐすぐすと泣いている子供は自分の侵入に気付いていない。
それならば、声を掛けてみるかと「ねえねえ、キミが最近来たアカツキ先生の子どもさん?」と子供の頭上から呼びかけてみる。
えっ、と顔を上げたその子供の顔は、紅葉が今まで生きてきてみた事がない様な、かわいらしい綺麗な顔をした子供だった。
まずったな、女の子だったらちょっと困るぞ、と紅葉は少し思ったが声を掛けてしまった手前もう後戻りも出来ない。
そのまま話を進めて子供ー明月透をちゃん付けで呼んでみたところ、本人は怪訝な顔で「くんだよ」と訂正を入れてきた。
男だったのか。綺麗な顔も相まって彼の性別を曖昧にしていたのもあったが、紅葉は彼があんまりにもしおらしいので女の子だと思った、と本人にそのまま伝えたところ、透はより一層怪訝な顔になってしまったのでこれはいけないとあわてて謝罪を入れる。
こうして天皇紅葉と明月透は談話相手となったのだった。
それからの毎日は紅葉にとっては心踊る日々であった。
透の話してくれる『箱』の外の話はどれもこれも楽しいもので、また、それを語る彼の表情を見ているとまるで自分のことの様に浮き足立ってしまう。
彼の一挙一動で紅葉の心は高鳴りふわふわとした気持ちになるのだ。
そんな事を彼女は毎日食事の席で父親に話していた。
「…紅葉はその男の子のことが好きなんだね」
「好き?」
食事に頓着しない父親は、自分が食事にしようと言わないとそのまま飲まず食わずで作業に没頭してしまう。
いくらオーヴァードとはいえそれは体によくないと他の研究員達に言われて、彼女は食事の知らせを伝える役を請け負っていた。
「そう。ボクはあんまりそういう気持ちになった事はないから参考にならないと思うけど…それはきっと恋とか愛とか、そういう類の好きなんじゃないかな」
「パパ、こいとかあいってなあに?」
「……ボクとママには無かったものだよ」
ぼくらが得られなかったものを娘のキミが獲得するなんて、不思議な話があったものだと父親は食事を咀嚼する。
紅葉は父の話を聴いていたが、まだあまりピンとこないのか、不思議な顔をして小首を傾げたのだった。
***
「透は楽しいね、ボク、透の話してくれる事すごく好き」
彼の膝に頭を乗せたまま、紅葉はほうと溜息をついた。
透は一瞬きょとんとした後「…そう、かな?あんまり珍しい事じゃないよ……クレハちゃんにとっては全部知らないことばっかりだからそう思うのかもだけど」と言ってはにかむ。
それを受けた紅葉はゆるりと首を横に振ると「ううん、透の話してくれることはなんでも楽しい。きっと透のお話だからそう思うんだね?」と、そのまま透の身体に猫の様に擦り寄る。そうして今まで抱えていた思いの丈をそのまま彼にぽつりと零した。
「ボクねえ、今まで女のコでいるのが本当に嫌だったんだけど、実は最近そうでもないんだ」
「そうなの?」
「うん、透のおかげだよ。透はボクが女のコでも関係なく仲良くしてくれるんだもの。だからきっとそんな事を気にしなくてもいいんだって思えたんだ」
「…だからずっと一緒にいてね、とおる。」
そのまま、擦り寄った身体にゆるりと腕を回す。
暖かくて、とくとくと胸が高鳴った。
これが父親の言っていた「こいとかあい」というものなら、ああなんて幸せな気持ちなんだろうと紅葉は思う。
自分の言葉にそうだね、と答えた透の掌が自身の頭を撫でる。
ボクは透を好きになれて幸せだなあ、紅葉は心の底から、純粋にそう思った。
それから数日経って、天皇紅葉は明月透と殺し合いをしている。
天皇紅葉にとってこれは普段から行なっている訓練であり、別段動揺するものでもない。
しかし透の方は勝手が違うらしく、彼は紅葉の攻撃を避けるばかりで全く反撃をしてこなかった。
ダメだよ透、それじゃあ訓練の意味がないじゃないか。
心の中で紅葉はそう思う。
ならば、と彼を追い詰めた後、馬乗りになって逃げ道を無くす。
「ふふ、つーかまえたっ」
にこりと眼下の透に紅葉は微笑んだ。
さあこれで詰みだと思った瞬間、彼女の左眼にぐさりと刃が突き立てられる。
一瞬何が起こったのかまるでわからなかったが、すぐに紅葉は透のシンドロームによる攻撃かと判断する。
が、そのままどうすることも出来ずに彼女は透に力任せに押し倒されてしまう。
赤い緋色の刃はブラム=ストーカーのものだろうか。
平素の穏やかで美しい顔は恐怖と動揺で引きつり歪んでおり、半狂乱で紅葉の身体に刃を突き立てていく。
紅葉はそれをただ受けるだけだ。
そして彼女は思った。
ああなんて素晴らしいのだろうと。
あの優しい彼が有りっ丈の激情を携えて自分の身を切り裂いてゆく。
身体から力が抜けていき息も弱くなっていくのを自覚しているのに、天皇紅葉はこの瞬間をなんて贅沢で幸せなんだろうと歓喜に打ち震えていた。
彼の殺意は、激情は今この瞬間自分にだけ向けられ振るわれている。
そう思うと脊髄の奥が痺れるような、えもいわれぬような感覚に襲われた。
この時彼女は今までの人生であれ程までに忌み嫌っていた女に産まれて本当に良かったと、切実に思ったのだ。
女に産まれて良かった、だってこうして透に好きになる事を、愛される事を教え込まれたのだもの。
ああ、この人がわたしののろいを解いてくれたんだ。
ならばわたしはこの人の為だけの、この人だけの女だ。
ボクは透だけのものなんだ!
そう心の中で叫んだ彼女の、うっそりとした微笑みを、明月透本人はついぞ見る事は無く二人は袂を分かったのである。
****
「…ン」
のそり、と身体を起こす。
ああ、『箱』にいた時の夢か、と寝起きの頭で彼女は考える。
彼、明月透と離れてから十数年間、もう何度もこの記憶を夢に見た。
天皇紅葉が女に戻った日。
天皇紅葉が明月透の為だけの女になった日。
紅葉は晒された左眼があった場所に手を這わす。
ほう、と甘い吐息が自分の口から漏れたことを自覚してそのままうっそりと微笑んだ。
「ねえ透、ボク寂しいよ。キミがいないとボクは生きてる意味がないのに……一体どこに行っちゃったの」
彼女はあの時以降、父親により別の場所に移され療養し、回復後はFHチルドレンとしてあるセルに所属していた。
それでも、彼女にとってはいま所属しているセルなど本当はどうでもいいのだ。
「ボクにはFHもUGNもどうだっていいんだ……透がボクの側にいてくれればもうなんでもいいんだよ、とおる……ずっと一緒にいてねって言ったのに」
俯いてひとりうそぶく。
これだけ見れば十数年間離れ離れになった想い人への情を吐き出す健気な娘であったが、その実それほど生易しいものではない事はきっと他人から見たら歴然であろう。
「いつか絶対に見つけてあげる。そしたら今度は、今度こそ二人きりで誰も知らないどこか遠いところに行こう。そうしてボクに、ボクだけに全部ちょうだいね。」
いつかを夢想して天皇紅葉は微笑む。
そのいつかが来るかどうかは、また別の話だ。
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