第4話 微笑む男

 左手には大量な雑誌や封筒が整然と並ぶ、壁一面の本棚。斜め後ろにはプリンターなどの事務機器で、トイレか洗面所に続くのだろうとのドア。


 キッチンの横には大きな冷蔵庫と、奥の部屋への仕切り扉が見える——目の届く範囲を一通り確認したチサは、何かを意を決したように、あるいは何かを諦めたように、マスクを外した。


 そして掌を合わせて。


「いただきます」


 置いてあるカップを手に取り、ゆっくりとコーヒーをすする。


 透明感のある酸味。


「おいしいです」


「お口に合ってよかったです」


「ありがとうございます」


「どういたしまして」


 定型文のような会話を交わしながら、おっさんは淹れたてのコーヒーを方手に、チサの向かいに座った。


「冷静ですね」


「どういうと?」


「普通、何か聞くんじゃないですか? 『きゃー、あなた誰?』とか『きゃー、なんなのあなた?』とか、きゃあなぜ、きゃあどうして、毎回毎回しつこく、きゃあきゃあきゃあうるさく聞いてきますよね」


 やわらかな口調に心地良い声、紳士的な振る舞いと全く釣り合わない、小学生レベルの嫌味を吐く。


 ご丁寧に声まね入り。


 本人は嫌味のつもりで言っていないかもしれないが——語尾の「よね」とは、こちらの賛同を求めようとするとも解釈できる。


 ちなみに「きゃー」か「きゃあ」を言うたびに角砂糖を一個。七つも入れた。


 よほどの甘党と見る。


 その入れ方では透明感も酸味も台無しだろうと、無言のままあきれているチサ。


 つうか——「普通」って何なんですか?「毎回」って何回もこのような場面があったのですか? どういう根拠からの「普通」でしょうか?


 そもそもどちらさまですか?


 17歳のコウジくんはどこにいますか? おとうさんですか? 本当は一体おいくつですか? スキンケアはどうしていますか?


 なぜお酒が大量にありますか? ウィスキーが好きですか?

 キッチンパネルに真っ赤なタイルってどういう趣味ですか? よく見ると天井も真っ赤じゃないんですか? こんなとこで打ち合わせなどをして、頭はおかしくなりませんか?

 このゲーム雑誌コレクションは誰のですか? 『PC Engine FAN』に『マル勝メガドライブ』って、なつかしすぎませんか? ずっとここで読んでもいいですか? なぜ復刻版の『新青年』もあるのですか? 揃うのにおいくらかかりましたか? 中野ブロードウェイで買ったのですか?


 ここは私が今日から「親」として「息子」と暮らす「家」ですよね? 何かの間違いはないのでしょうか?


 なぜが、ここにいるのでしょうか?


 なにが、どうなって、どうしてですか——と。聞きたいことは山ほどあって、聞こうと思えば思うほど支離滅裂なので、チサはまぶたを閉じ、深呼吸をひとつだけ。


 それから目を開いて立ち上がり、相手を真っすぐに見つめるように。


「……こんにちは。早島チサといいます。今日から、えっと、よろしくお願いします」


 一礼して、着席する。


 かなり端折はしょったが、用意したセリフが言えた。


 けれど、おそらく笑えていない——おそらくでなく、自覚はある。


 ひきつる笑顔。ひきしまる空気。


 しばしの沈黙。


「…… はじめまして。保取ほとりコウジです。小説家です」


 座ったまま、おっさんはぺこりと軽く会釈した。視線を交わしながら、念押しするように、にっこりと微笑んでみせた。


 しかし目は笑っていない。

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