時の止まった街で
沢田和早
生成と消滅の狭間で
この街を訪れるのはこれで何度目だろう。誰もが「時が止まる街」と呼ぶlimΔt→0によって特徴づけられた場所。週に一度、数十分間だけ出現する特異点だ。
「本当に停止しているのだな。粒子以外は何もかも」
私に所属しない何もかもが停止した空間を
「あ、ごめんなさい。お怪我はないですか」
「い、いや平気だ。それによそ見していたのはこちらだから」
彼女との出会いは蛍光灯の中だった。陰極高校を卒業し、熱電子として発生した私は、たまたま管の中に紛れ込んでいた光電子と衝突してしまったのだ。二人で仲良く陽極大学に進学すると、私たちは講義の合間に語り合った。
「へえ、光電子さんは半導体光センサ高校出身なのか。もしかしてどこかのお嬢様?」
「そんなことないわ。父は普通のサラリーマン電子だし」
私たちの仲は急速に接近していった。もちろん顔を突き合わせて語り合うことなど出来はしない。私たちの電荷はどちらも負。近寄れば互いの距離の二乗に反比例する力で引き離されてしまう。けれども私たちの気持ちは距離の二乗に反比例して引き付けられていく。そうして大学四年となり就職先が決まったある日、私は彼女の家へ行った。
「光電子さんを嫁にください」
両親は大反対だった。当然だ。結婚相手は自分と逆の電荷を持つ者、それが粒子族の常識だからだ。
「熱電子君、やめておきたまえ。電子同士で夫婦になってうまくいくはずがない。同じ電荷では手を握ることすらできないのだからな」
「いいえ。私たちの愛の力はクーロン力より大きいのです。必ず光電子さんを幸せにしてみせます!」
彼女の両親は頑として結婚を承諾してくれなかった。私の両親も同じだ。それでも諦めきれなかった私たちは駆け落ち同然で都会に出て籍を入れた。大丈夫、絶対にうまくいく、私も彼女もそう信じ切っていた。
だが、日が経つにつれその確信は僅かずつ揺らいでいった。肌と肌を触れ合うこともできず、常に離れて暮らさなくてはならない空間的距離感が、次第に心理的距離感へと変わり始めていったのだ。
会話がなくなった。互いを見詰め合うことがなくなった。そして決定的だったのは彼女の浮気だ。
「あ、あなた!」
「だ、誰だ、そいつは!」
勤務時間中、忘れ物を取りに自宅へ戻った私は、寝室のドアの向こうに広がる光景を見て百万ボルトの電撃を浴びたように立ち尽くした。妻が見知らぬ人物とベッドを共にしていたのだ。
「あ、すみません。私は光子です。ひょっとしてご主人ですか。実は……」
「黙れ。夫の留守中に妻を寝取っておきながらその態度は何だ。しかも光子って、相手は男じゃなくて女なのか。ベータ族属性の他に百合族属性も持っていたとは。光電子、君がそんな女だとは夢にも思わなかったよ」
「違うの。あなた、話を聞いて」
「うるさい。一刻も早くここから去れ。おまえの顔など二度と見たくない」
私は家を飛び出した。そのまま会社へ戻らず街をブラブラし、夜遅く帰宅するとそこに妻の姿はなかった。身の回りの物もなくなっていた。本当に出て行ってしまったのだ。苦い後悔が込み上げてきた。
光電子が去ってから私はこの街を訪れるようになった。噂にしか聞いたことのなかった「時が止まる街」
半信半疑でやって来た私は実際に時が止まっている状態を体験し、驚きと安らぎを覚えた。動いているのは私の固有時間だけ。それ以外は変わらない。空も大地も大気も、何も変わらずにそのままの状態を留めている。人の心も時が止まったように同じ状態のままでいてくれたら、私と光電子は別れずに済んだのかもしれない……
「あれは……」
私は足を止めた。人影が見える。この街で他人を見掛けたのは初めてだ。しかも、
「似ている」
その女性は妻に似ていた。表情も体付きもどことなく妻の面影を感じさせる。私は彼女に話し掛けた。
「初めまして。あなたも一人旅ですか」
「はじめ、まして? ああ、そうなだったわ。これがあなたにとっての初めてだったわね」
随分馴れ馴れしい態度だ。私のことを知っている、そんな口振りだ。
「失礼、どこかでお会いしましたか?」
「あなたにとっては初めての出会い。そして私にとってはこれが最後の出会い。もうあなたに会うことは二度とない」
彼女の言葉の意味が分からない。けれどもひどく悲しんでいることだけは分かった。
「ええっと、別にもう一度あなたに会っても構いませんよ。私は熱電子と申します。あなたは?」
「私? 私は……陽子」
胸中に喜びが広がった。私とは逆の電荷だ。独りぼっちになった私を憐れんだ神が、この出会いを仕組んでくれたに違いない。彼女とならきっとうまくいくはずだ。
「では陽子さん、もう一度と言わずにこれからどこか別の街へ行って……」
「一週間後のこの時刻この場所で、あなたは私に会う。それがあなたの運命」
私の言葉を遮ってそう言うと、陽子は去って行った。姿が見えなくなると同時に時間停止特異点は消滅時刻になった。時が止まる街は消え、周囲の時間が動き出す。
「変わった人だな。二度と会うことはないと言いながら一週間後に会うなんて言うんだから。まあ、女性は謎めいているほど魅力が増すと言うし、わざとやっているのかもな」
再会を楽しみにしながら私も街を去った。
言葉通り、一週間後の同じ場所同じ時刻、私は彼女と再会した。
「こんにちは、来てくれたんですね。またお会いできて嬉しいです」
「そうね。あなたにとっても私にとっても、これが二度目の出会い。そして次があなたにとっての最後になる。前に会った私は何か言っていた?」
「えっと、二度と会えないとか言っていましたが、こうしてまた会えたわけですし、そのことについては何とも思っていません。気にしないでください、陽子さん」
「陽子? 前の私がそう名乗ったの?」
「はい。そう言われましたが」
彼女は黙っている。悲しそうな表情で私を見詰めるばかりだ。
「あの、この街では何もできないし、もうすぐ特異点が消滅する時刻です。別の街へ行ってお茶でも飲みませんか」
「それは無理。私とあなたはこの街でしか意思疎通できないの。それも私は知らなかった。もし知っていればあんなことはしなかったのに。確かに以前は辛かった。でも今のほうがもっと辛い。お馬鹿さんだったわ、私」
やはり何を言っているのか分からない。興味を引くためにわざとこんなことを喋っているのだろうか。
「陽子さん、もしよかったらあなたの身に何があったのか話してくれませんか。こんな私ですが何かのお役に立てるかもしれません」
陽子は口を閉ざしている。何もかも諦めたような表情をしている。
やがてため息を吐くように言った。
「私はもう全てをあなたに話したのよ、一週間後のこの場所で。それを聞きたいのならまたここに来ればいいわ」
そして背を向け歩いていく。姿が消える。特異点の消滅。消える街。動き出す時間。私はしばらくそこに立ち尽くしていた。
一週間後、時が止まる街が発生すると同時に、私に向かって誰かが駆けてくる。陽子だ。
「会えた、やっと会えたのね。嬉しいわ、熱電子さん」
これまでの彼女とは全然違う。多少の驚きを感じながら私は声を掛けた。
「こんにちは、陽子さん。今日はいつもと違って明るいですね。何か良いことでもありましたか」
途端に彼女の表情が曇った。くぐもった口調で言う。
「陽子……私は陽子だと私が言ったの?」
「えっ、そうですよ」
「いつ……いえ、私があなたに会うのはこれが何度目なの?」
「三度目ですけど」
「そう、三回で諦めてしまったのね。私は……」
やはり何を言っているのか分からない。どんな話をしようかと考えていると陽子が意を決したように口を開いた。
「本当のことを話すわ、聞いて熱電子さん。本当は私、陽子ではないの。私は光電子、あなたの妻よ」
「ええっ!」
驚かざるを得ない。似てはいるが明らかに妻とは別人だ。電荷が正なのだから。
「嘘だろ。冗談はやめてくれ」
「信じられないのも無理ないわ。それに正確には光電子ではなく元光電子。今は陽電子なの」
「陽電子! 全ての性質が逆になる反粒子だって言うのか。馬鹿な。あれはファンタジーの世界にしか存在しないはず」
「いいえ、現実に存在するのよ。私は光電子から陽電子へと変身したの。放出型対消滅を使ってね」
「そんな……」
私は言葉を失った。あまりに大胆な妻の行動に恐怖さえ感じた。
「結婚する前から感じていたの。負電荷同士では必ずいつか結婚生活は破たんするって。その予感は当たった。あなたと私の距離は少しずつ広がっていく。何とかしたかった。広がる距離を縮めたかった。その時、私の前に光子が現れたの。彼女は言ったわ。『簡単よ。あなたの電荷を正にすればいいのよ。対消滅って知ってる? 電子と陽電子が出会うと光子になる儀式。でも最初から電子と光子が一緒にいれば、電子が光子を放出した瞬間、電子は陽電子になるのよ。それを使ってあなたも陽電子なればいいわ。陽電子は正電荷。負電荷の熱電子さんとはお似合いのカップルになれるじゃない』そう言われたの」
「なんてことだ。じゃあ、あの時同じ寝室にいたのは浮気ではなく、陽電子になる下準備だったのか」
「そうよ。でも私は本当のことが言えなかった。あなたに反対されるような気がして。そしてあなたの家を出て光子と一カ月暮らした後、私は対消滅で陽電子になった。それが三日前。あなたにとっては三日後の未来」
また話が分からなくなった。三日前とか三日後とか、彼女は何を言っているのだ。
「理解できないでしょう。私もそうだった。知らなかった。陽電子になって初めて分かったの。反粒子は全てが逆、電荷も、そして時の流れもね」
「時の流れも? どういう意味だ」
「そのままの意味よ。私の固有時間はあなたとは逆向きに進んでいるの。あなたの過去が私の未来、そして私の過去があなたの未来。時間を逆向きに進む電子をあなたは陽電子として観測している、それが真実だったのよ。あなたは私とは三回会ったと言った。けれども陽電子になった私があなたに会うのはこれが初めて。これから私はあなたの過去に向かって生きていく。三度目に会った時、自分は陽子だなんて嘘を言ってごめんなさい。きっと未来の私は本当のことが言えないくらい別れるのが辛かったのね」
ようやく真実が見えてきた。陽電子、反粒子、全ては絵空事だと思っていた。正直、まだ信じられない。しかし全ての辻褄が合う。彼女は紛れもなく私の妻だ。
「分かった。君の浮気は私の誤解だ。謝罪する。虫のいい話かもしれないが、もう一度やり直してくれないか。この街が消滅したら元通り家へ戻って……」
「いいえ、それはできない!」
頭を振りながら激しく拒絶する彼女。ここまで感情を露わにする姿は見たことがない。
「言ったでしょ。私とあなたとは時間の進み方が逆なの。ここでは時が止まっている。だからこうして言葉を交わせる。でも時が動き出せば、言葉の出現も逆になる。私にもあなたにも、相手の言葉はまるで逆回しに再生しているみたいに聞こえるはず。一度陽電子になってしまったら、もう普通の電子と共に暮らすのは無理なのよ」
「だったら毎日でなくていい。週に一度、この街が出現した時に会ってくれないか」
「それも無理よ。私が陽電子になったのは三日前。あなたにとっての三日後、それより後のあなたの未来に私は存在しない。対消滅の瞬間、私の固有時間は反転してあなたの過去へ向かって動きだしたのですもの。三日後より未来のあなたの世界には光電子も陽電子も存在していない。二人とも消滅してしまったのだから」
「……光電子、君は……」
私は膝から崩れ落ちた。何もかも手遅れだった。どうして彼女を信頼してやれなかったのだろう。浮気だと決めつけてしまったのだろう。後悔の念が私の心を責め立てる。このまま放ってはおけない。全てを知った今、このまま彼女と別れることなどできるはずがない。私は決心した。
「ならば私も対消滅の道を選ぼう」
私は両手を広げて彼女に近付いた。
「な、何をするつもりなの」
たじろぐ彼女を優しく抱き締める。初めての抱擁。これまでクーロン力に遮られて触れることすらできなかった彼女の体。それが今、私の腕の中にある。
「駄目よ、離れて。言ったでしょう。今は時が止まっているからいいけれど、時が動き出した時に電子と陽電子が触れ合っていれば、対消滅が発生してしまうのよ」
「構わないさ。君は私のために対消滅を選択した。私もまた同じ選択をするつもりだ」
「私とあなたでは状況が違うわ。電子も陽電子も私自身だったから、発生型対消滅として私は生き残れた。でもこれは電子と陽電子が別々の変換型対消滅。このままでは私もあなたも対消滅の瞬間、ただのエネルギーとなって存在自体が消えてしまう」
「いいよ、それで。君のいない未来をひとりで生きるくらいなら、君と一緒にただの輝きになったほうがいい。それとも君は嫌なのかい」
「私は……」
彼女の言葉は続かなかった。私を抱き締める彼女の腕の力を背中に感じた。幸せだった。手を握ることさえできなかった私たちがこうして抱き合っている、それだけで今日まで生きてきてよかったとさえ思えた。
「街が消滅するわね」
「ああ。そして私たちも……」
感じる。時間停止の特異点が消えていく。同時に私たちの存在も消え、眩いエネルギーへと変換していく。何もかもを消し去り生み出す輝きに包まれながら、私はこれまで味わったことのない至福の時を感じていた。
時の止まった街で 沢田和早 @123456789
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