その痛みは、現実だった。
「来たようじゃな」
ウォル老人は手斧をロッジの壁に立てかけた。
俺も腰掛けていた切り株から立ち上がって、ウォル老人と同じ方を見た。
しばらくすると、森の道の奥に人影が現れた。小さな影と、大きな影。小さい方はジュノだとすぐに分かった。
大きな方は、どうやら馬のようだ。ジュノの背丈の三倍くらいの高さがある。馬って間近で見ると大きいんだよなぁ…。
「じい! 連れてきたぞ!」
食器を入れた桶を持ったジュノが駆けてくる。
その後ろを、白馬がゆっくりとついてくる。
馬上にいたのは、女性であった。肩から深い紺色のケープをまとい、同じく紺色のフードをかぶっている。
彼女はだいぶ手前で馬を下りた。
それと同時に、白馬の足下に光の文様が現れる。その文様が消えると同時に、白馬の姿も消えていた。
なにそれ。どういう仕組みになってるの!?
まるでテレビの消失マジックだ。だが、こちらは文字通りタネもシカケもない。
そんなびっくりシーンを間近で見せられたにも関わらず、ウォル老人は特に驚くこともなかった。きっと、見慣れているのだろう。
それが、この女性の特技なのだろう。
「ウォル師範、お久しぶりです。手紙での不作法、失礼しました」
彼女は、高い位置にある腰を曲げて、深々と頭をさげた。
女性にしては、背の高い。目の高さも、身長175cmの俺と変わらない。もちろん、ヒールなんて履いていない。
「なんの。グーデリアンは元気かね?」
「相変わらずですよ。あの人には、戦いがないといけないみたいで。今の仕事はまったく向いてないとボヤいておいでです」
「平和な世の中で、居場所を失っているのか。難儀な男じゃな」
老人との話が終わると、彼女は俺の方に体を向けた。
赤みがかった茶色の瞳が、じっと俺の目を見ている。
威圧感などはないが、なぜかその瞳の輝きが、俺の心をざわつかせる。
「ようこそ、ブレストガリアへ。シャチク殿」
彼女はウォル老人にしたように、慇懃に、深々と会釈する。
俺も同じく頭を下げる。それも彼女よりも深く。頭を下げまくって出世するジャパニーズ・サラリーマンをなめるなよ、などと、抱かなくてもいい競争心を抱いたりして。
「私はアレーシア。候国専属の占い師ですわ」
そしてほほえむ。口角をあげて歓迎の笑みを浮かべているようだが、残念ながら赤茶色の目は一つも笑ってはいなかった。
ちょっと苦手なタイプかも。美人な分、表情のひとつひとつが作りもののようでうさんくさい。本当の感情は、決して表に出さないような、読み切れないものを隠しているかのように思える。
これは俺の、単なる思い込みかもしれないけど。
それより、アレって名前だったんですね。
アレーシアさんが到着したところで、俺たちもロッジに戻った。もちろん、彼女の話を聞くためだ。
ジュノだけは、牛の世話をすると言ってどこかへ行ってしまった。
彼女は家に入っても、フードを取らない。炉の炎しか明かりがない部屋で、彼女の表情はますます分かりづらいものとなっていた。
「さて、シャチク殿。突然このような世界までお呼びしたのはほかでもありません。今この国には、かつてない危機が迫っているのです」
呼んだ、だって?
「そうです。私があなたを、この世界に召喚しました。国難に、立ち向かうために」
「危機とは、なんじゃ?」
俺が何か言う前に、ウォル老人が口を開いた。
「東から、魔王の大軍勢が押し寄せてくるのです」
「魔王じゃと?」
アレーシアさんは、神妙にうなずいた。
「魔王の名前はザカリア・ハン。遙か東方に生を受け、その戦争の才により瞬く間に周辺諸国を滅ぼし、思うままに版図を広げている貪欲なる征服者です。ザカリアは各地にいる巨人やケンタウロスといった
「その魔王の軍勢が、オルディネスに押し寄せてくると…」
「魔王軍は西征の途ですでに四つの国を滅ぼし、五つの都市国家を手中に収めました。たとえば、東方の大国としてこの国でも知られているホライゾ帝国は、すでに四騎の一人、ザクライの手によって滅ぼされました」
「ホライゾが? そんなバカな」
ウォル老人がおののく。あの鋭い剣のような筋肉をもつ老人が、武をもって国に仕えたという老人が戦慄している。
その反応を見る限り、ホライゾという国の強さが分かる。そして、それほどの強国すら容易に滅亡させるだけの力を、魔王軍は持ち合わせているということだ。
「ホライゾがすでに魔王の領土となった今、魔王の手はシェルノ海の対岸にまで及んでいます。シェルノ海沿いをそのまま東に攻めてくれば、このブレストガリアに到達することでしょう」
「そんな凄まじい軍がくるなら、これはブレストガリアだけの問題ではない。帝国全体で考えるべき話ではないのか?」
ウォル老人の意見はもっともだ。俺も頷く。
「帝国は、魔王ザカリアの存在を、まだ知りません。いいえ、知ろうとはしないのです。内乱が終結し、ようやく得た平和を手放したくはないという願望が、帝府を支配しているのです」
「…」
ウォル老人は、押し黙ってしまった。
「そこで、シャチク殿の出番となるわけです」
…え? 俺?
「シャチク殿が持つ異世界の「力」が、この国には必要なのです」
いやいや、俺にそんな、ただExcelを上手に扱う程度の能力しかない俺に、魔王軍と戦うような力を期待されても困るんですが。
「なぜあなたが選ばれたのか、それはいずれ分かります」
ふと、先ほど見た、光の文様の中に白馬が消えたシーンが思い浮かんだ。
アレーシアさんは、あのように必要なものを召喚できる力を持っているのだろう。
そしてこの国難に際し、必要とされたのが俺。もちろん、その理由は分からない。だがこの人は、なんらかの確信があって、俺を呼び寄せたのだろう、と思える。
なんにせよ、難儀な話だ。断るにしても、もうここまで呼びつけられたらノーとは言えない。ノーと言えば、元の世界に返してくれるのか。
いや、そんな雰囲気ではない。
なにしろ、未曾有の国難が迫っているのだ。それを解決する力が俺にしかないというなら…。
そう思った、瞬間だった。
ぐにゃ、と、視界が歪んだ。
「シャチク殿、私と一緒に、ヴァルナに来てもらえませんか?」
アレーシアさんの声が、鈍いエコーがかかったように聞こえる。
視界は水滴を瞳に落としたように、ますます歪んでいく。声もだんだん遠くなる。
まるで、水の中に顔をつけたようだ。
身体の力も抜けていく。やがて上半身の重さに耐えられず、俺はそのまま、仰向けに倒れていった。
…。
気がつけば、俺はこたつに伏せて寝ていた。
周りを見回す。いつもの風景。大学時代から住み続けた俺の部屋だ。
…なんだ。夢か。
時計を見る。6時50分。いつも通りの時間。
始業は9時からだが、早出しなければ、昨日残してきた仕事は終わりそうにない。
この時間に目が覚める習慣は、すでに体にしみついている。
昨日は風呂に入り忘れた。シャワーだけでも浴びたいと思ったが、冬のシャワーはかえって体に負担をかける。
もちろんヒートショックを気にする歳でもないけど、風邪をひくわけにはいかない。
今日もたくさんの仕事が、俺を待っているのだ。
洗面所に行って、歯を磨く。愛用の電動ハブラシの電源を入れる。
「いってきまーす」
それと同時に、まつりちゃんの明るい声が聞こえてきた。
そしておなじみの、キコキコときしむ音が遠ざかっていく。
「また、油をささないとなぁ」
なんとなくつぶやきつつ、部屋に戻ろうとすると…。
痛っ!
突然、すねのあたりに、するどい痛みが走った。
いわゆる弁慶の泣きどころだ。思わず涙が出そうなほど痛い。
裾をめくってみる。
見れば、すねの一部が赤黒く変色していた。
打撲だ。いつ、こんな傷がついたのだろう。
そのとき、俺の脳内にある映像がフラッシュバックした。
角のある大男。手のひらから炎を吹き出す女の子。手斧を持ったマッチョな老人。紺色のローブをまとった不思議な女性…。
なぜだろう。夢の内容を、俺は鮮明に覚えていた。
あれは、夢のはずだ。夢だったはずだ。
だがなぜ、こんなに、五感全てがその夢を覚えているかのようなのだろう。
なぜ、夢の中で負った怪我が、残っているのだろう。
まさか…。
「現実…だったのか?」
俺は喉を鳴らして、つばを飲み込んだ。
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