その地の名はブレストガリア
「ジュノの料理ができるまで、この地の話でもしようか」
炉から降ろされ、ジュノが
バチバチと木の鳴る音と共に、ウォル老人は立ち上がり、奥の部屋に向かった。
そして戻った時には、右手に丸めた紙のようなものを携えてきた。
「この地はブレストガリアと呼ばれている。東方オルディネス第二帝国領で最も東にある
そう言いながら、ウォルじいさんはA1くらいの紙のようなもの描かれた地図を開いた。その紙には、ところどころ手の甲のような皺が刻まれていた。
その、皺のある、皮のような紙に描かれた地図を見る。
黒インクだけで描かれた、決して情報量が多いとはいえないシンプルな地図には、東西を二つの海に挟まれた、Uの字のようにも見える半島が描かれていた。この半島全域が、オルディネスという帝国の領土のようだ。
この地図の縮尺が分からないので、この半島がどれほどの大きさなのかは想像がつかない。だが帝国というだけあって、それなりの大きさがあるのは間違いない。
その半島の北東の付け根に、ブレストガリアと書かれている。
なぜ地図に書かれた文字が読めたのだろう。
見たこともない字の羅列だったが、それを読んだ瞬間に、脳内にカタカナの「読み」が現れた。
これは、異国人(異世界人?)のジュノやウォル老人と会話ができることと同じ原理なのかもしれない。
どんな原理かは、さっぱり分からないけど。
地図に寄れば、州都ヴァルナは西の海であるシェルノ海に面している。
「シェルノ海は内海で、その沿岸にはいくつもの国がある。ヴァルナはそれらの国々との交易の玄関口で、特に東方異文化圏の品々が多く集まってくる。そのため、シェルノ海は、東西文化の交差点とも言われておるのじゃ」
見たことはない街だけど、相当繁栄しているのだろうな、ということはウォル老人の話で想像できる。
そのヴァルナの北、ホレスゲン丘陵と書かれたエリアに、赤点が打たれている。これが、このロッジだろう。
「じい、シャチク、ご飯できたぞ」
素朴な木の皿に盛られたのは、灰色のなにかと干し肉だった。そして肉と野菜が入ったスープが添えられた。
灰色のなにかじゃ分からないって? だけど、俺の貧相なボキャブラリーでは、これは灰色のなにかとしか言いようがないのだ。
だがその灰色は、どこか見覚えがあるような気がした。
ぽつぽつと、黒い粒が混じっている。
うーん、どこで見たのだろう…。
「どうした? 食べないのか?」
ジュノが小首をかしげる。こういう仕草は、まつりちゃんに良く似ている。
「これ、なんなの?」
「ママリガだ」
「名前じゃくて、何を使っているのか聞きたいんだけど」
だがジュノは、そのママリガを頬張って答えてくれない。
まるでまずは食べてみろ、と無言で言っているような。
ともあれ、ジュノがおいしそうに食べてるので、一口入れてみることにした。
…。
……。
なんというか、えらく素朴な味。
そしてこの風味。牛乳とバターのコクの中に、どこかて食べ覚えがある味が混ざっている。
なんだろう、鰹節が効いた
「すりつぶしたそばの実と
そうか。そばだ。なるほどね。どうりでなじみのある味なわけだ。
「同じ材料が使われた別の料理は知ってるけど、ママリガは初めてみる料理だよ」
もしかしたら世界のどこかでは食べられているのかもしれないが、少なくとも俺は知らない。
そして肉と野菜のスープ。こっちには白い液体がかかってる。
「この白いのはなに?」
「キセロムリャコだ」
キセロ…なに??
最初の三文字しか聞き取れなかったぞ。なんて複雑な、そして日本人に苦手な名前なんだ。
とりあえず、口に入れてみる。
…。
すっぱ!!!!!
思わず唇に力が入ってしまった。顎の付け根が痛くなる。
このキセロなんとかも初めて食べるものだ。
簡単に言えば、すごくすっぱいヨーグルト。
「キセロムリャコは万能調味料だ。なんでもこれを入れると美味しくなる」
ほんとかな…。と思いつつ、ぐるぐると椀の中をかき回してから食べてみる。
確かに、混ぜて食べると酸味が効いて、さっぱりとした味わいだった。
牛乳、バター、ヨーグルト。このあたりは酪農が盛んなようだ。
「うちにも牛がいるぞ。あとで会わせてやる」
なぜかジュノは、得意げだった。
ジュノは汚れた皿を持ってロッジを出ていった。洗いにでも行くのだろう。
ウォル老人も、ロッジを出ていった。
そんな中、俺は相変わらず炉端にいて、ぼんやりと薄暗い部屋の天井を見上げていた。
部屋の中心に炉があるため、藁を敷き詰められた天井は
ともかく、「アレ」がこないと話は進まない。そしてやることもない。
部屋を出て、カコーン、カコーンと、音がするほうへと行ってみる。
そこには上半身裸のウォル老人が、手斧を振り上げて薪を割っている。
もろはだ脱いだウォル老人の上半身は、想像通りの筋肉質。斧を振り上げるたびに背中と腕の筋肉が盛り上がる。
どうすれば、こんな年齢でこれほどの筋肉が維持できるのか。
「日々の精進じゃ。体を使うことを
いやー、そんな日々の生活だけでそんなに筋肉つかないでしょ…。
それくらいでそんな筋肉がつくなら、毎日猛烈な勢いでキーボードを打ち続けている俺の下腕もムキムキになっているはず。
思うにこの老人、実は武術の達人で、世間を疎んで山に隠棲しているとか、そんなところじゃないだろうか。
「ほっほっほ。いい線いっておる。確かに私は武術で辺境伯に仕えていたが、年齢を理由に隠居しただけ。そこまで世間を嫌っておるわけじゃない」
「じゃあ、なんでこんな森の中に?」
「人がいない、静かな場所で暮らしたかったんじゃよ。ちょっと世間に疲れてしまってな」
どっちなんだ!
…と思わず突っ込みそうになったが、ウォル老人の気持ちも分からなくはない。
静かなところでひっそり暮らすことに、俺もあこがれているところがある。だがそれは、社会との隔離を意味するわけではない。必要以上に、人とふれあわずに済む環境がほしいとのことなのだ。
この老人も、辺境伯のもとにいたころは、それだけ働きづめだったということなのかもしれない。
やることもない俺は、正確な動作で薪を割り続けるウォル老人を眺めていた。
どこかで牛の声がした。ジュノご自慢のお牛様に違いない。
「ヤマネは、ジュノに気に入られたようだな」
ウォル老人。意外な事を言い出す。
「あれでも、警戒心が強い子なんじゃよ。アレの指図でおぬしを迎えにやったが、正直、不承不承連れてくるもんだと思っていた。だが、今日はずいぶんとご機嫌でな。あやつが客にわざわざ手料理を振る舞うなんて、めったにあることではない」
何がそんなに気に入られたんだろう。俺には理由がさっぱり分からない。
「ワシにも分からん。当のジュノも、分からないかもしれん。じゃが人の縁とは、そういう不思議なところがあると思う」
まつりちゃんに似ているということで、俺の方が警戒心を解いているのも理由にあるかもしれない。
「そろそろ、アレが来る頃かもしれんな」
そう言いながら、ウォル老人は背筋を伸ばした。
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