まちけん ~みとり高校街角研究部~
LUTE
第1話 登校、またはサイアクな日の幕開け
白を基調に、かわいらしい家具がしつらえられた部屋に、朝日が差し込んでいる。大きく開け放たれた窓からは、ほのかに潮の香りを乗せた風が入り込んでいた。
タブレット端末に接続されたスピーカーからは、毎朝聞いているラジオ放送が終了し、聞きなれないキャスターの声でニュースが読み上げられていた。
部屋の壁は一面が本棚に丸々埋め尽くされているが、その一部はごっそりと抜き出され、ローテーブルに投げ出されいている。読み散らかされた本の数々が、昨夜の出来事をうかがわせる。
「ああ、もうサイアク」
部屋の主――
主すら正確な所在を把握できているのか怪しいほど化粧品が並んだドレッサーの前で、陽菜は悪戦苦闘の最中だった。
昨晩の夜更かしによって寝坊、貴重な朝の身支度の時間が削られ、肌の調子も悪いのか化粧のノリも悪い。ノリの悪さも時間の無さにもへこたれず、時間の節約重視の簡素な化粧で今年最速の記録をたたき出す。
さらなる不幸はヘアセットの際に起きる。前日まで使用できていたはずのヘアアイロンが故障したのか、まるで温度が上がらないのだ。
一般高校へ通う女子高生である陽菜には、ヘアアイロンの故障を直せる技術などあるはずもなく、なんとか寝癖は直したがそれ以上はどうしようもない。
へこんでいるわけにもいかずヘアピンで前髪をまとめ、後ろはヘアゴムでまとめ上げ、身支度を終えた。
ベッドサイドに投げ出されていたスマートデバイスを手に取り、時間を確認する。起床時は多少の余裕があったはずの登校時間はぎりぎり、走らなければ遅刻は免れない時間となってしまい、悪態をつくのも無理はなかった。
メッセージ画面を呼び出すと、大量に並んだ連絡先から友人のものを選択する。
いつもの待ち合わせ時間はとうに過ぎているが友人からの連絡はない。
『ごめん、遅れそうだから先行ってて』
操作に支障をきたしそうな長いネイルで彩られた指先で、器用に超高速で打ち込まれたメッセージは、陽菜の予測に反してすぐに既読のマークがつく。
だがしかし、少し待っても返信は来ない。仕方ないとバッグへと突っ込み、リビングを通り過ぎて玄関へ向かう。朝食を摂る余裕もなかった。
玄関の姿見でもう一度、全身を確認する。規格化された制服とは思えない独創的な発想でカスタマイズされ、あらゆるアクセサリーでカラフルに装飾された姿は、見る人が見れば卒倒してしまいそうなほどに若々しい。
もはや下地が紺色だったのか疑わしいほどゴテゴテにデコられた学校指定のバッグを肩にかけ、靴を履く。その靴もまた、独特のものだった。ガンメタルの光沢を放つ、鋼鉄のブーツへと足を滑り込ませる、主の侵入を感知し、ブーツは自動でアジャストされ、陽菜の足に一体化したかのようにぴったりとフィットした。
さらにはもう一つ、制服姿には少々似つかわしくない、金属製の長細い箱を手に持ち家を出る。吹奏楽部の楽器ケースのようにも見えるが、中に収められているものは楽器とは比べ物にならないほど物騒だ。
「行ってきます」
出発の挨拶とともに家を出る。寝室からかすかに返事が聞こえたような気がした。
家は集合住宅の三階、玄関から見える景色は面白みもなく、自宅と同じような集合住宅、その横も、そのまた横も、それがまた大したスペースもとられず鼻先に立ち並んでいるのだから、景観の変化には乏しい。
建物に遮られ、まともに陽光が差し込まないからか、すっかり春の陽気だというのに、足元には夜の空気の残滓がわだかまっていた。
陽菜は玄関前の通路、落下防止の欄干から身を乗り出し、下の状況を確認する。
誰もいない、ちょうどいいタイミング――。
ならば何の問題もないだろうと、玄関のドアにぴったりと張り付くまで後退し、助走のための隙間を小さく空けると――。
迷いもなく、欄干を飛び越えた――。
体は重力にとらえられ、その動きは自由落下へと移行する。
耳には風を切る音、はためく前髪を押さえる。
自宅から脱出するための最短経路。
空中で身をひるがえし、両足から地面へと激突。生身なら両足の骨折は免れない高さでも、両足を覆う金属製の靴が補助をし、何の支障もなく陽菜は着地していた。
軍事用に開発研究が進められ、当時は強化外骨格、パワードスーツなどの呼称もあった運動機能の補助装具。昨今の急速な分野の発展、世界情勢の変化から一般的にも浸透していき、女子高生の生活環境にもごく自然と運用され、日常において三階からの飛び降りという暴挙すらも常識化する技術。
降り立った路地の左右には、集合住宅が互いの隙間を埋めるようにひしめき、上を見上げても壁やら屋根やら、張り出したパイプやらに阻まれ、窓枠で切り取られたような小さな青空しか見えない。だが、閉鎖的な景観とは裏腹に、潮風によってよどんだ空気は感じさせない。
着地の衝撃などみじんも感じさせずに、陽菜は走り始めた。
裏路地にあたる自宅前の路地を抜けると、朝方だというのにすでに道路は人であふれかえっている。このあたりならばメイン通りに位置するというのに、四輪駆動の車両が通れないほど狭すぎる幅員が原因だった。
路面店はシャッターを開け、開店の準備をしているのか、公道か敷地かなどお構いなしに物を広げているのだから、より一層狭く感じさせる。
陽菜はその喧騒の中を、するりと抜けつつ走っていく。
この街の道は、迷路か、クモの巣か、ビルの隙間を埋めるようにつながれた空中回廊も縦横に走り、立体的でとにかく複雑だ。住人ですら慣れていない道では迷うこともある。
人通りの多い道から、少ない裏路地まで、幾度か曲がりくねって目標の場所へと到達する。よく行く喫茶店が正面に居を構える三差路。
普段ならば右折し、学校への直線距離に比べれば、大きく迂回することになる道である。しかし、
疾走の勢いは留まることなく、三差路の正面へと突進していく。陽菜は視線を上に向けている。
『バーストシューズ……
合成音声と感じさせない自然な抑揚で、デバイスからのガイダンスが流れる。
バーストシューズ――陽菜の履いた靴が、わずかな振動と共に、その心臓部を起動体勢に入れる。
足に伝わるその脈動につられ、自らも高揚していくのを陽菜は感じていた。
簡単に言ってしまえば、少しワクワクしていた。
この後に起こることは、珍しい事でも何もない、いつも通りの日常の一つであったけれど。いつもと変わらず、陽菜にとっては楽しみの一つであるのだ。
正面にはシャッターが閉じられ、まだ開店の気配を見せない喫茶店。その頭には、年季を感じさせる事務所が入った、五階建てのビルを乗せている。
バレーボール選手の踏み切りのごとく、両足をそろえ身をたわませる。呼応するように、靴が稼働、解放直前の待機状態でロック。
『
きれいなソプラノの電子音声と共に、陽菜の体は宙へと飛び出した。
その跳躍は、驚くほど軽やかに、驚くほど高くに。
あっという間に五階建てのビルを飛び越え、わずかばかり、だれよりも高い場所に身を躍らせる。跳躍の最高点にて、陽菜は体をひねりながら周囲を一望する。
陽菜は、この瞬間がいつも好きだった、だれよりも高くに、世界を飛び出したようなちょっとした優越感。
眼下に広がる――というには少々高さが足りない気がするが――街並みははるか遠くまで見渡せる。いつもと変わらない平凡な街並み、ありふれた日常。遠くには海と、ひときわ大きい巨大な白いドーム。
人の営み、自分の生き方を一歩外から眺めているような感覚。自由の形を確かめるような解放感。
だが、晴れやかな時間は長くは続かない、内臓が浮くふわりとした感覚と共に、上向きだったベクトルは逆方向へと変わり、
先ほどまで目の前にあったビルの屋上へと、陽菜はビタリと一歩で着地した。
一度大きく息を吸って小休止をしつつ、再び周囲を見渡す。地上とは違ってその視線ははるか先まで届く。
建築規制によりビルの高さは揃えられ、地上に比べて障害物のほとんどない屋上群は、実鳥市の第二の地平、なんて揶揄もされているほどだ。そしてその第二の地平こそ、陽菜の近道の正体だった。
実鳥市――陽菜の暮らす街は、押し込まれるようにして人口が急増した影響で、土地整備もままならぬまま無秩序に発展した。
建物は押し合い圧し合い、無尽蔵の改築や増築によりぎゅうぎゅうに詰め込まれ、混沌の様相を呈している。
ちらほらとまばらに背高な建物は見えるが、高層ビルといえるほどではない、高い建物は、詰め込み過ぎた街から少しはみ出してしまったかのようで滑稽にも見える。
乱雑な街並みの中、数少ない整頓が行き届いた区域の一つに、目指すべき我が校の姿が見えた。
背後から吹く潮風に髪を押さえながら、デバイスを取り出し、もう一度時間を確認する。時刻は八時四〇分、相変わらず友人からの返信はない。多少急げば崩れたセットを整える余裕もできる時間だと、陽菜は再び駆け出した。
バーストシューズを起動して屋上を飛びわたっていく。風にあおられ、盛大にスカートが翻っているが陽菜は気にした様子もない。
よくよく周りを見渡せば、同じように屋上伝いに移動している人間がまばらに見える。複雑怪奇に入り組んだ街は、路地を歩くよりも屋上に上ったほうが圧倒的に早いためだ。
数度ビルを飛び越え、整備された区画の大通りに着地する。あとは直進すればそのまま学校へ到着することになる。
街の中心部、大陸間横断鉄道の巨大なターミナルを心臓部としてそこから伸びる動脈、ターミナルストリートは、先ほどまでの迷路と見紛うばかりの路地と違い、悠々と車両が通れるほど幅広く、おしゃれな雰囲気の雑貨店やレストラン、ショッピングモールなどが立ち並ぶ。銃砲店や装具店のショーウィンドウもすでに開かれ、ファッションの一部のようにマネキンが
ここまでくればもう安心だと、歩みを緩めたところ――。
空に少し影が射し、大きな黒い雨が目の前へと降ってきた。
「ああ、もうサイアク」
ここにきて陽菜は、今日が厄日であることを確信した。
黒い液体のようなものが、次々と周囲に降り注いでくる。
明らかな異常事態だったが、陽菜は取り乱す様子もない。
『サイアク、遅刻確定』
慌てるどころか、悠長にデバイスを開きメッセージを送り始める、既読はすぐにつくが、相変わらず友人からの返信はなし。
地面に落ちた黒い水たまりは、みるみる元の形に復元していく。溶けていく氷を逆戻ししていくような、この世界の物理法則にそぐわない異様な光景が広がる。
出来上がったのは、金属のような黒曜石のような、不思議な質感を持つ異形のもの。生物のような特徴的構造は一切ないシンプルな外観は、ナメクジや単細胞生物を想起させる。
金属をすり合わせるような耳障りな音と共に、大きな黒いナメクジは動き始めた。
取り乱してない、それは周囲の人間も同じであった。
出来上がった大量の黒いナメクジに対し、慌てた様子もなく逃げる妊婦。避難誘導をするファミレスの店員。気楽に写真を撮り始める高校生。剣で斬りかかるスーツ姿の男性。カウンター越しにショットガンを撃つ出店の店番。ベランダからアサルトライフルで応戦する洗濯物を干していた主婦。ごく当然、といった様子で街の住人は異常事態に対応し始めていた。
陽菜は異形など眼中にないかのように自分の手のひらを名残惜しそうに見つめている。このあとのことを考えると、お気に入りのネイルが割れてしまわないのか、その点のほうが陽菜にとっては心配だった。
「はぁあマジだるっ!なんでこんなタイミングで降って来てんのマジ」
乱暴にカバンから小瓶を取り出す。小瓶の中の液体は、淡く発光しているようにも見え、ボトルキャップにはリボンがあしらわた、かわいらしい女性物の小物だ。それをオーデコロンのように全身に吹き付けていく。ほのかな芳香が、周囲の緊迫した空気からはひどく場違いのように感じさせた。
瓶を再びカバンの中にしまうと、一緒に持ち歩いていたガンケース状の箱を左腰へとあてがった。ベルトのように腰に巻いていた
『
ネオンのような青い光が箱の表面を幾筋か伝うと、光の道筋に従い、箱の外装が割れ、その姿を変えていく。
前面がバカリと開かれ、手で握るにはちょうどいいサイズの、三〇センチほどの四角い棒が飛び出した。
陽菜は棒を右手に持ち、厳かに、神へ供物を捧げるごとく、ゆっくりと引き抜いていった。
陽菜は、何事もカタチから入るタイプの人間だ。この行為も、自身を守る力への敬意と、これから起こる出来事への覚悟の表れである。
――シャラリと、異形のものが奏でる不協和音とは違う、涼やかな金属音が響き渡った――
先ほどまでの軽薄さとは打って変わった真剣な態度で抜刀されたのは、鈍色に光る見事な刀身である。片刃で少し反りのある形状は、まさしく日本刀であったが、柄の形状や随所に施された細工が、現代技術を取り入れた最新鋭の武器であることを物語っている。
儀式めいた、神々しさすら感じさせる見事な所作は幻だったのかと思うほど、まじめな態度は一瞬にして霧散し、陽菜は鞄を肩にかけたまま、だらけた様子で片手に刀を構える。
「ウザ、ありえなくない!?」
不満を爆発させ、八つ当たり同然に片手でぞんざいに振るわれる刀は、しかしながら驚くほど鋭い。
大型犬程度のサイズはあり、動きは鈍重ながらも、人ひとりを圧殺するには十分な質量をもつ。拳銃弾程度はびくともしないナメクジでさえも、彼女にとっては動く藁束のようなものだった。
単分子成型され高周波振動によって切断能力を極限まで高められた刃が、虫の羽音のような小さな音を立てながら、ナメクジの体を飴細工のように切り裂いていく。
陽菜は次々と切り捨てていく。その速度はまわりの一般市民に比べても圧倒的だ。一撃のもとに切り捨てたと思えば、すでに次へと切り込んでいる。
決して武器の能力だけではない、彼女の動きそのものが、場数と鍛錬に裏打ちされた確かな強さを発揮していた。
うっぷんを晴らすかのように力任せに繰り出される刃は、荒んだ陽菜の胸中とは裏腹に、流麗な弧を描きナメクジを三枚に下ろしていく。
周囲をあらかた片付け、援護が必要な場所はないかと周りを見回した途端、背後から巨大な破砕音が鳴り響く。
振り向けば、盛大に粉塵を上げながら、ビルの壁が倒壊している、何かが、足元に転がってくる。
自分と同じ制服、スカート、三つ編みに結われた肩にかかる程度のセミロング。同じ学校の女子生徒が吹き飛ばされて転がってきたのだ。
「大丈夫!?」
返答もなければ動くこともない。下手に動かさないように慎重に仰向けにし、容態を診る。脈拍、呼吸を確認する。大丈夫、どちらもしっかりとしている。
骨折や出血などの大きな外傷は見当たらない。軽く切っているのか、額からは一筋の血が流れている。頭を打って気絶しているのだろうか、現状ではそこまでしか確認することができない。
女生徒に気を取られ、なぜ、女子生徒が吹き飛ばされてきたのか、その原因を一瞬忘れる。陽菜の上に影が落ち、ようやくその存在を思い出した。
「ヤバっ」
振り向けば、視界を覆いつくすほどの黒い巨体が鼻先にまで接近していた。その大木のような腕が、陽菜の胴を根こそぎ削り取るように薙ぎ払われる。少女の華奢な体は、枝葉の如くあっけなく宙を舞った。
野球のライナーのように一直線に飛んでいき、通りに立ち並ぶビルの壁へと叩き付けられ、コンクリートの壁が砕け散り、内部の鉄筋がむき出しになった。
――人の体はこのような衝撃に耐えられるほど頑丈に出来てはいない。見るも無残な姿に変り果て、陽菜はがれきの上に転がっている――。
そう思われたが、立ち込める粉塵の中、陽菜は何事もないかのように立ちあがった。その周囲を青い燐光が蝶のように舞っている――。
液体内に含まれた粒子が体全体を覆うように対流し、攻撃に類する急激な運動エネルギーによって結束、体表面全体を覆う鎧となり、エネルギーのベクトルを瞬時に変更し、全身及び空気中へと拡散する近代防御技術。青い燐光は、役目を終え剥離する際の発光現象だった。
「チョーシノり過ぎじゃね?」
オーデコロンを取り出し、再び防御膜を身にまとう。化粧品メーカー、セフオラから販売されているC.S.D.Cスプレーの一種。おしゃれなデザイン、香水の一種として普段使いにも利用できるこの商品は、若い女性たちの間で絶大な支持を得ているものだ。香りの種類も豊富に揃えられ、洋梨を思わせる甘い香りが特徴的な、四番が、陽菜のお気に入りだった。
切っ先を敵に突き付け、挑発するかのように小さく左右に揺らす。
黒い巨体、黒曜石でできた、不格好なブリキのクマ。
それが、ナメクジと同じ、金属をすり合わせるような不快な咆哮を上げ、大地を砕かんばかりの勢いで陽菜へと突進してくる。
予想をはるかに上回る速度で肉薄し、勢いそのままに振り下ろされた前足の一撃を、陽菜は慌ててかわした。クマの動きは止まらない、荒れ狂う暴風のように繰り出される連撃を紙一重でいなしていく。
柳に風、刀で受けるのではなく、流す。一撃も直撃をもらうことなく、わずかな剣捌きでその猛攻をそらしていく。暴風渦巻く剛腕では、陽菜をとらえることはできなかった、だが、対する陽菜も、後ろに下がるばかりで反撃には至らない。
――チョーシノってたのは……ワタシかっ!!
大きいなら鈍いはずとタカをくくった陽菜自身の油断が招いた危機。
間断なく攻め立てられ、反撃の糸口を見つけられない。不意打ちの際は続く追撃がなかっただけ、今度直撃してしまえばどうなるかはわからない。一人の人間を叩き潰すなど造作もない剛腕を受けるのには、少女の腕はあまりにも心もとない。
大きな膂力の差と、想定外の速度が陽菜を一方的に防戦に押し込んでいた。陽菜の装備は、跳躍の補助を担うバーストシューズ、斬撃の威力を高めるヴィヴロブレードのみ、膂力をアシストする
しかも、体勢を立て直せないのにはもう一つ理由があった。
学生カバンだ、今にもずり落ちてしまいそうなカバンが気がかりで、体のバランスと冷静さを失っていた。カバンが台無しになることと、自分の命を天秤にかければ、結果は推して知るべくもないが、そこに気が回るほどの余裕もなかった。
――この状況、シショーにばれたら怒られる!
命の危険性さえあるその攻防のさなか、陽菜の胸中には、実感の湧かない死への恐怖よりも、無表情で叱責する師の顔ばかり浮かんでいた。
状況は刻一刻と悪化していく、焦るがゆえに他愛のないことへと思考が逃げ始めている。逼迫した状況に陥ると、動物は本能的に目の前の現実から目を背けるようにできていると、陽菜はどこかで聞いたことがあったが、今まさに実感をもって体験しているさなかだ。
陽菜の腕は、完璧には流しきれない衝撃が刀身を通し伝わり、徐々にしびれ始めている。感覚を失ってしまえばそのまま窮地へ陥ることになる、その前に反撃に転ずることはできないかと全神経を総動員してスキを窺うが、息を切らせるそぶりも見せず、クマの猛攻は止む気配がない。呼吸の概念が存在するかも怪しい異形に、ガス欠によるスキは望めそうにはなかった。
――永遠に続くかと思われた暴風のさなか、クマの頭が一瞬、小さく揺れた。
――ただの一瞬、瞬きほどの間隙。
――今っ!!
全身の神経を一本に束ねようかという小さく鋭い呼吸と共に、クマの首を一閃――
影さえ置き去りにする早業から数瞬遅れ――
クマの頭がずるりと地に落ちた――。
落ちた首をじっと見据え、油断なく剣を構えていたが、やがて完全に沈黙したことを確認すると、型にはまった見事な所作で刀をウェポンラックへと収めた。
そのまま流れるようにバッグからスマートデバイスを取り出すと、思いもよらぬ行動をとり始める。なんと倒したクマと共に、陽菜は自撮りをし始めたのだ。入念に顔の角度を確認し、ピースサインまで添える有様だ。
しばらくの熟考の後、ばっちりポーズを決めて撮影をし終えると、死骸の背後に、人影があることに気付く。
眼鏡をかけ、陽菜と同じ制服を着た女生徒が、ハンドガンをこちらに向けたまま、驚嘆と安堵の入り混じった表情を浮かべて突っ立っている。
そう、先ほど気絶していた女生徒だ。わずかなスキを作り出した援護射撃も、おそらく彼女のものだろう。
「マジ助かったわー」
陽菜が大きく手を振りながら近づくと、女生徒は、ようやく戦闘が終わったことに気づいたように、ハッとしながら陽菜と視線を合わせた。
目の下に少しだけクマができているが、愛嬌のあるくりくりとした目、アンダーリムのメガネが理知的な印象を添えている。少しカサついた薄い色素の唇は、中途半端に開いたままで、整った白い歯が少しだけ見えている。おさげ髪はほこりで汚れて乱れているが、もとは色素の薄い、ふわりとした猫っ毛であるように思われた。
「おー、今気づいたけど同クラの
化粧っけの無い肌を、赤い筋が伝う。
こめかみから、丸みのある頬を伝って、血が地面へとぽたりと落ちた。
先ほど倒れていた時の流血はまだ止まるに至っていないようだった。
陽菜はハンカチを取り出すと、ごく自然に頬の血を拭い、傷口まで辿っていく。
ぱっくりと割れていたこめかみの血をふき取ると、ハンカチと一緒に取り出していた絆創膏を張り付ける。
絆創膏を押さえている間、まつ毛も結構長いんだな、なんて観察していると、百合音と視線が交差する。驚いたのか、そのくりくりの目はもう一段階見開かれ、口元は不自然に開いたまま、何か吐き出そうとし、とどまっているかのように、喉をひくひくとさせていた。
判然としない態度は、戦闘の高揚から日常への復帰に時間がかかっているだけではないのだと、陽菜は察した。
「二組の白瀬陽菜だよっ。百合音さんも同じクラスでしょ?」
「はっ……あ……はい、そうです、東雲百合音です……」
同じクラスというのに名前を憶えていなかったことがうしろめたかったのか、うつむきがちな返答は今にも消え入りそうだった。
目の前で地面に視線を落とし、微動だにしない百合音のこめかみを押さえたまま、陽菜は沈黙を破る算段を考えていた。
百合音さん自身に押さえててもらえばよかったかな、なんて益体の無いことを考えたが、タイミングを逃してそのままになってしまった。
他に会話の糸口がないか考えるが、脳みその端をつついても話題が降ってくることはなかった。
陽菜と百合音は同じクラスではあったが、会話をした記憶すらなかったのだ。
絆創膏はあっという間に傷口を直していた。
一昔前ならば数針縫うほどの怪我でも、再生医療の発達した現代では、絆創膏ひとつで患部の洗浄と治療を終わらせてしまう。
陽菜はようやく百合音の頭から手を離した。
「もう傷口はふさがったと思うけど、念のため二時間くらい貼りっぱにしといて、おっけー?」
「何から何まで、ありがとうございます。助かりました」
「お互い助けあいっしょ、こっちもマジサンキューだったし。じゃあ、そろそろいこっか」
「え、どこへ?」
「いや、そりゃ学校っしょ、一緒にいこ」
「あ、はい! そうでした! すいませんちょっと待ってください!」
陽菜の提案に、一瞬驚いたようだが、百合音は荷物を急いで探し始める。
陽菜からしてみれば、すでに遅刻はしているし、寄り道にしようのないほど一直線の通学路、なんとなく一緒になったから、なんとなく一緒に行こう、という程度のものだったが、百合音が慌てふためいた様子で準備しているのを見て、何か変な事でも言ってしまったかと首を傾げた。
がれきに埋もれて砂ぼこりまみれになっているカバンをはたいている百合音を横目に、陽菜はデバイスを取り出し弄り始めた。
友人に対する遅刻の旨を伝えた謝罪の文には、短く一言
『あっそ』
とだけ返信があり、それ以降は何のメッセージも届いていない。
同じ女子高生とは思えないほど淡白なメッセージは、相変わらず我が友人らしいと一人納得してデバイスをバッグにしまう。
対する百合音も、ハンドガンをケースにしまい込み、きれいに形の整っている通学カバンの奥深くへと押し込むと、出発の準備が整ったようだった。
陽菜が歩き出すと、遠慮がちに百合音は隣を歩き始めた。
相変らず百合音から話しかけてくることはなかったが、この、あまり目立つタイプでもない、ともすれば優等生のような風情がある同級生に対し、陽菜は一つだけ疑問が湧いた。
「百合音さんさ、アレが降って来て対応してたのはわかるんだけどさ、どーしてこんな時間に登校してたの?」
たとえ戦闘に巻き込まれなかったとしても、運動が得意なようには見えず、足に何も
「実は……」
「実は?」
言いよどむ百合音にオウム返しで先を促す。
「昨晩、読書に夢中になっていたら大変な時間になっちゃっていて……」
小さくなりながら、尻すぼみに昨晩の失態を告白する百合音。対する陽菜の表情は晴れやかだった。
「マジで!? 私も本読んでたら昨日やべー時間になっちゃったんだよね、『ベルク侯爵の憂鬱』ってシリーズがあって、昨日新刊が出たんだよねー、読み始めたら止まんなくて、気づいたら深夜、マジありえねーって思ったわ」
「え! 侯爵シリーズ読んでるんですか! 私も昨日の夜更かしはそれが原因なんです」
思わぬ行動の一致に、星があふれ出るのではないかというほど、陽菜の目は一段と輝いた。陽菜の趣味は読書だったが、普段付き合いのある友人たちとは話題が合わず、小説の感想を語らう機会に恵まれず、うれしくなるのも無理はなかった。
「もう読み終わった?」
「はい、目の覚めるような展開とはこのことか、って感じで」
陽菜は小さくガッツポーズ、心の中ではミラーボール輝くクラブハウスでダンスをキめている。
「もうね、仕方ないよね、うん、遅刻仕方ない! マリアちょーかわいいし、侯爵も男を見せたって感じだし。しかもまさか一巻からずっと伏線になってるとは思わないし! 思わず全部本棚からひっくり返してあれこれ読み返してたの!」
「全く同じです、新刊だけならちょうど就寝時間になると思ってたんですけど、読み返していたらこんなことに」
『ベルク侯爵の憂鬱』は、ベルク侯爵という吸血鬼が、古の赤竜、マリアに恋してしまったところから始まる小説シリーズ、昨日最新刊の八巻が発売。丁寧な心情描写が評判で、タイトルとは裏腹にどこか明るい雰囲気を感じさせる作風に、陽菜のここ最近で一番の推しであるシリーズだった。
感想に花を咲かせて登校していく。歯を見せながら大きく笑う陽菜は陽光に力強く花弁を広げるヒマワリのようで、対照的に手を口に当て淑やかに笑う百合音は、頭を垂らし風に揺れる白ユリのようで、そこには確かに、二輪の花が咲いていた。
今日までほとんど言葉を交わしたことがなかったのに、一気に距離が縮まったように感じた。趣味の合う友人が一人増えたことにもお互いうれしくなっていた。
楽しい時間を過ごしていれば、登校などあっという間だった。戦いの疲れも吹き飛んで、いつの間にか校門をくぐっている。
正門の先には車両など珍しいというのに巨大なロータリーが広がり、ロータリーの先には巨大な講義棟、右手には特別教室棟、左手には武道館と体育館が見える。講義棟の裏には大きな校庭まで備えている。
実鳥市最大の規模を誇る学校、公立みとり高校が、二人の通う学び舎であった。
「もうちょっと話していたかったけど、私ちょっと寄るところがあるから。頭のケガ、気になるんだったら念のため保健室行きなね。じゃあね!」
「はい、ありがとうございました。また今度」
手を振りながら、陽菜は講義棟とは別方向へと走っていく。百合音は控えめに手を振りながら見送った。もう授業は始まってしまっているのにどこに行くのだろうかと訝しみながらも、百合音は言われたとおりに保健室へとその足を向けたのだった。
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