episode8-8
〈これ、何なんです?〉
藍色の鋼を着こんだ椿姫は、その上から更に半透明の雨合羽のような何かに袖を通しながら、近くで何かの調整をコンソールで行う叔父の隆次郎に対して質問をする。
「耐火ジェルコート。ここに潜伏している幻獣の黒炎の対策として作った試作品だ」
隆次郎は時折ズレ落ちそうになる眼鏡を直しながら、端的にそう言った。
〈こういうことを訊くのは何ですが、効くんですか?〉
「ないよりはマシのはずだ。あの炎が水というものに弱いのなら、それを身に纏えばいいのでは? ……何ていう安直な考えから突貫工事で造られたものだが、さっき言ったようにないよりはマシさ。まあ、炎はなるべく避けることに越したことはないが」
〈……やれるだけのことはやってみます〉
「……すまないね」
〈いえ、これも使命ですから〉
椿姫はそう言って会話を断ち切り、現在の鎧のデータに目を通す。
その脳裏では消えた兄の事がふっと浮かんでは消え、浮かんでは消え、という現象が幾度となく起きていた。その度に椿姫は頭を振り、無理やり頭の中から情報を消そうとするのだが、全く意味はない。
「隆一くん、何処にいるかまだ分かっていないんだって?」
隆次郎が手を止めて、椿姫にそう訊ねた。いや、答えは解っていた。意地の悪い行動だともすぐに思ったが、既に喉からは声が漏れ出てしまった。彼は自身に強い自己嫌悪を覚える。
〈……ええ、その様ですね〉
隆次郎の予想に反して、椿姫は冷静だった。
だが、隆次郎は気付いていない、当然だ、叔父であっても親ほどに関わったことはない。だから、彼女が不自然なまでに冷静であることの異常さなどには、露程も気づかなかったのだ。
「全く、源兄さんは何を考えているんだ」
〈父さんには、父さんの考えがある、そういう事なんでしょう〉
酷く冷めた口調の椿姫に、隆次郎は然もありなんと思い、疑問は覚えなかった。
時間は刻々と過ぎていき、外は次第に、蒸すような熱を持つ闇夜に包まれていく。
「すみませーん! 誰かいらっしゃいませんか!」
すっかり夜が更けてきた頃、ある男が山奥にある屋敷のドアを叩いていた。
その格好は至って普通の成人男性のもので、立ち振る舞いにもおかしい部分は見当たらない。しかし、彼は何らトラブルになど巡り合っていないのだ。その証拠として、
「すみませーん! 誰かいらっしゃいませんかー?」
彼の穿くチノパンには、正面から見えない場所に拳銃が無造作に突っ込まれている。
そして、彼から僅かに離れた森には、複数の重武装の人間たちが隠れていた。
ここから言えることは一つ、彼は助けを求めてドアを叩いているのではない。
中の人間にドアを開けさせることこそが、彼の本当の目的なのだ。
「…………何か?」
「こんな夜分遅くにすいません」
固く閉じられた扉の向こう側から、陰気な女の声が聞こえてくる。
扉の向こうの女に明らかに警戒されているように思えた。
男は気を引き締めて口を開いた。
「県外から来たものなんですが、恥ずかしながら……その、タイヤがパンクしてしまいましてね。出来れば、工具を貸していただきたいのです。あの、ジャッキを」
「……少々、お時間を頂いてもよろしいでしょうか?」
「勿論です」
たどたどしい口調だったが、かえってトラブルで混乱しているように見えた。
それからしばらくして、扉の向こうから足音が聞こえてくる。一人ではない。
一人は先ほどの女のもの、そして、もう一人は気配を消そうとするきらいがあるが、隠しきれていないようだった。まるで獣、そう表現されるような身のこなしだ。
「持ってまいりました」
そう、獣のような……。
『斉木! 後方へ下がれ!』
「……ッ!」
男は言われがままに後方へ飛び退く。
直後、黒い腕がドアを突き破って彼の首を掠めた。
ギリギリだった。少しでも判断が遅れていたら、首を掴まれていただろう。
黒い腕はドアを障子のように軽々と割り、腕を引き抜く。その腕は獣のような黒い体毛に覆われており、明らかに人のものには見えない。けれど、ゴリラや猿のモノでもない。
「ァァァァァァァァ!」
思い通りにいかないことで、異形の存在は怒りの咆哮を上げる。
その叫びを合図にするかの如く、森に隠れていた武装集団が屋敷を取り囲む。
群青色のタクティカルアーマーの背中には、白い文字でAPCOと書かれていた。
「ちッ!」
男は微量な血液が流れ出る首を押さえながら、武装集団の後ろへ下がっていく。
それと同時にAPCOの集団がライフルを構え、ドア越しに、中にいる異形に狙いをつける。孔が開いたドアに無数の赤い光の点が散りばめられた。
「…………」
周囲に沈黙が訪れ、孔の開いたドアの蝶番の軋む音が響いた。
やがて限界が来た蝶番が壊れ、支えを失ったドアが地面に倒れ落ちる。
明かりが消えた屋敷の向こう側には、もう誰もいなかった。だが、例えようのない気配だけは確かに残っている。
「……」
集団は暗視ゴーグルを身に着け、慎重に闇の中へ足を踏み入れる。
異形が踏み砕いたと見られる床のタイル以外、暴れた形跡は見られなかった。
集団は早々に散り散りとなり、それぞれ各部屋を隈なくクリアリングしていく。
外の多種多様な虫の鳴き声に反して、屋敷の中は恐ろしくなるほど静かであった。
「はぁ、はぁ……」
隊員の一人が呼吸を荒げながら、暗い部屋を確認する。
暗視ゴーグルのお陰で、彼はクリアな世界を見ることが出来ているが、心が休まることはなかった。それは偏に彼が新人だからとも言えるが、それ以上に、先程ちらりと見えた異形の腕の影響が大きい。
「ク、クリア」
体脂肪五パーセント未満まで鍛え上げた肉体が、これほど頼りなく思えるとは。
隊員は拠り所がないことへの恐怖を強く感じながら、己が今為せることを為す。
彼は備品室らしき部屋へと足を踏み入れる。業務用と思しきスチールラックには、丁寧に備品が五センチ間隔で置かれていた。
「……はぁっ」
隊員がしゃっくりのように上擦った呼吸をする。
いつどこで異形が見ているのか、分からないからだ。
もしかしたら、こうしている内にも自分を見ているかもしれない。
「ひッ!?」
瞬間、彼の前を何かが通り過ぎていった。
彼は銃口を構え、通り過ぎていった方向を見る。
「……なんだ、ネズミか」
視線の先には小さなネズミが一匹、部屋の隅で丸まって何かをしている。
彼はほっと息を吐きながら胸を撫で下ろし、部屋のクリアリングを再開した。
特におかしな点は見当たらなかった。彼はクリアリングを終えようとする。
だがその前にネズミは一体何をしているのか、見たくなってしまった。
先程からねちゃねちゃと何かを食しているような音が聞こえている。
「……」
本来、こんなことをしている暇はないはずなのだが。
胸の奥から湧き上がってくる衝動が、彼の身体を突き動かすのだ。
ネズミが逃げないように、足音を最小限に抑えながら距離を縮めていく。
彼はライフルを構えて、ネズミにしてはやや大きな身体に銃口を向ける。
ネズミには過剰なような気もしたが、相手は人智を超えた異形、万が一もある。
しかし、その動作によって僅かな音が鳴る。そして、ネズミがゆっくり振り返る。
「うわあああああああああああああああ!!!」
ネズミが食べていたのは、人間の指だった。
性別や年齢、そういった特徴などを気にする余裕などなかった。
一刻も早くここを離れたい。その一心で、彼は右脚を後退させる。
だが、出来なかった。何かにぶつかったのだ。いや、正確には誰か。
そのモノの粘度の高い唾液がゴーグルに滴り落ち、不快な臭いと熱を感じさせる。
何時の間にか、ネズミは逃げ出していた。背後のモノに恐れをなしたのだろう。
「ひ、ひひっ」
狂ってしまったのか、背後のモノに背中を預けたまま、隊員は笑いだす。
視界の端に映るナニカは、最早人の形を成しておらず、それを表せる言葉を探し始めた時にはもう遅く、その笑い声は大きな悲鳴となって、館に響き渡った。
〈アイツ、何処に逃げた!〉
藍色の装甲を身に纏った椿姫は、憤りを感じながら館内を慎重に探索していた。
森では目立つ外見をしているから、山の下で待機させられていたのが失敗だった。
既に中へ突入した隊員たちからの通信は途絶えている。先程も山羊の異形から襲われたこともあってか、彼女の緊張の糸はギリギリまで張り詰めていた。
〈時間もないし、これを使うしかないわ〉
そう言って、彼女は左手に提げていたアタッシュケースを地面に置く。
開くと中には小型のドローンが五機、折りたたまれた状態で収納されていた。
椿姫はそれらを起動して取り出すと、空中へ放り、散開、館内を巡らせる。
〈よし、探索を続けよう〉
全機が角を曲がったと同時に、椿姫も立ち上がり、再び館内の捜索を始める。
一方、【水龍】とクロエは館内が騒がしくなるのを部屋で感じていた。
外の剣呑な雰囲気とは裏腹に、両者はリラックスして、ソファーに腰かけている。
「始まったようじゃな」
「【幻相】のヤツ、あの得体の知れないのを放ったのね……」
「ああ、あの継ぎはぎか。あんなのを“王”にするとは【幻相】め、狂ったか」
「“王”に関してはぶっちゃけ興味ないわ。それよりどうすんの? さっさと隆一を助けに行った方が良くない? まあ人間側の“虫”が五匹くらい飛んでるっぽいけど」
「確かに、あやつと妾たちの関係がバレるのは得策ではないの」
【水龍】は扇子で顎を軽く叩きながら思案している。
そんな彼女にやきもきしながらも、クロエは自身の考えを口にする。
「でも、助けに行かない……訳にもいかないんじゃない? いやまあ、あの人間たちが助けることも十分考えられるけどさ。多分、私たちが助けた方が早いわよ」
「そうじゃなあ、まあ、助けに行くかのう。【幻相】と鉢合わせなければ良いのじゃが、この際気にしておる余裕もない、か。……よし! クロよ、行くぞ」
「はあ!? いつの呼び方してんのよ! キモッ!」
「ほほほ、……後で覚えておれよ」
口ではそう言うものの、両者の雰囲気は悪くなかった。
扉を開け、部屋の外へと出ていく二人は、夜よりも暗い闇の中へ消えていく。
(……ッ! ここ何処だ!?)
僅かな灯りすらない部屋で、隆一は目覚めた。
口には布を噛ませられ、体は椅子に括りつけられている。
なけなしの力で身体を攀じるも、びくともしない。かなり固く縛られていた。
部屋の外からは風が吹き抜ける音と、何かが這いずるような音が聞こえてくる。
それを追って走る誰かと、虫のような何か、そして幾つもの銃声が響いてきた。
(力が出ない。あの薬のせいか……。次からは気を付けよう)
異常なまでに冷静で、他人事な考えが頭に浮かんでくる。
これ以上ないほどの危機的状況であることは間違いないのだが。
「ん! んんー!!!」
隆一は助けを呼ぶために声を振り絞る。
当然と言えば当然だが、彼の声は虚しく部屋に消えていく。
一刻も早く脱出し、この場で起きていることを確認したい。
しかし、青年の思いとは裏腹に、縛られた身体は言う事を聞かなかった。
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