episode7-10

「クソッ!」

「何があったんだよ!」

「今は気にするな! 逃げることだけを先に考えろ!」

 東藤が勢いよく扉を閉め、傍にあった棚や段ボールなどを倒して障害物を作る。そして、国松を押しやるようにして扉から離れた。今、東藤の脳裏では命の危険を知らせる鐘が痛いほどに鳴り響いていて、すぐにここから離れろと言う。しかし、まさに悪夢というのだろう、その危険はすぐに形となって現実に現れた。東藤たちの背後から鉄がへしゃげる音と何かが潰れて弾ける音が耳に入る。

「おい! さっさと走れ!」

「わ、分かってるって!」

 上手く力が入らないのか、国松の走りには腰が入っていなかった。

 そんな彼を押して走りながら、東藤は後方に障害物を作り続ける。上沢の持つ異形の力の前では無力なものだが、無意味なものではない。そう思い込みつつ棚や椅子を倒す。

 こうしているうちにも、上沢はゆっくりと近づいてきていて、その軽やかな足取りと奇怪な音からは強者特有の優越感と得体の知れない恐怖を感じさせる。それは東藤と国松をおもちゃにして遊んでいることを表していたが、そのおかげで二人の命が助かっているのも確かだった。

「死にたくねえよぉ……確かに良い人間だったとは言わねえけどよぉ~!!」

「無駄口を叩いていないで、さっさと!?」

 そうしているうちに、後方から一際大きな音が届いてくる。

「てえ! 無駄だっていうのが分からねえかなあ! 棚が小指に落ちて痛えんだけど!」

 届いてきた上沢の荒げた声から察するに、先程の大きな音は棚が倒れた音であることが分かる。怒りと苦痛に満ちた敵意が直で伝わってくる。それは肌を通じて東藤たちの心を揺さぶり、上沢が怒りに任せて方針転換し、走ってこないか不安でたまらなくさせる。

「国松! 上沢の持つ力で何かわかることはないのか!」

「アイツの右腕のもやもやに食われたら、車だって跡形もなく無くなっちまう! そんぐらいしか分かんねえよ! あーあと! 背中! アイツ背中から食ったもんを吐き出るんだ! 食ったもんは粉みてえにバラバラになってな!」

「……そうか」

 上沢の凶悪な能力にも弱点らしきものがあることが分かり、東藤に光明が見えてくる。

 恐らく、噛み砕いたモノは上沢の身体の何処かに溜められていて、きっとそれは無限に溜められるわけではなく、必ず排出する必要があるのではないか、というものだった。東藤たちに残された生き残る道と言ってもいい。

「国松、ライター持ってるか?」

「……? ああ」





 場所を移し、風切亭にて。

 相も変わらず、風切家の客間は喧騒に包まれていた。遠くで繰り広げられている死闘に比べれば何てことのないものだが、それを知る由もない隆一にとっては冷や汗が止まらない状況である。とはいえ、大局的に見ればこれが重要な案件であることも確かで、失敗は許されないことなのだ。何としても、白髪の妖女をこの家に住まわせなければ。その思いを胸に隆一は、

「で、この二人は誰なのよ?」

 正座していた。

「えーっとそれはですねえ」

 しどろもどろになりながら。

「……むぅ」

「……あら」

 傍らにいる二人の妖女たちもこの時ばかりは黙っていた。つい先ほどまでは熱烈な視線を浴びせ合っていたのだが、流石に時と場所を選ぶべきだと思ったらしく、その鳴りを潜めている。だが、そんなことをした所で彼女たちの身分が保障されるわけもない。かといって、異世界から来た異形のモノ、その親玉的存在であると正直に言えるわけでもない。

 そういったこともあり、この家の主である風切の視線は更に訝し気なものになっていく。

 こんな現状を打破すべく、意を決して隆一が口を開いた。

「師匠、真実を話しましょう。これは我が一ぞ……くぅ?」

 隆一が風切に真実の一端を告げようとした瞬間、ポケットに入れていた携帯が振動を始める。そのせいで、始めは凛とした顔を浮かべていた隆一も、言葉尻で間抜けな声を出した頃には風船から空気が抜けたような腑抜けた顔になる。

「あっえっ、……すいません師匠、緊急の連絡が」

 だが、番号を見てその顔が再び引き締まり、彼の目には強い意志が宿った。

 真っ直ぐ見つめてくる彼の瞳に、風切は信頼に足る何かを感じ取り、視線で了承する。

「ありがとうございます」

 隆一は素早く居間から縁側に出ると電話を取る。

「隆一くんかい!? 今どこにいる!?」

 電話の主は高水だった。その口調からかなり逼迫した状況であると判る。

「何かあったんですか?」

 高水とは対照的に隆一は落ち着いた様子で話す。

 今の高水に引っ張られてはダメだ、そう思ってのことだった。

 そんな隆一の企みが実ったのか、高水の声色が目に見えて落ち着く。

「東藤さんからの連絡で、第一容疑者の国松と上沢がいる場所が判明したんだ。すでに東藤さんは中に入っている状態だと推測され……正直に言って危険な状態だ。出来ればすぐにでも向かって欲しい。僕はこれから応援部隊との調整を済ませてくる。頼んだよ」

 高水は言いたいことを伝え終わったのか一方的に電話を切る。それと同時に、隆一の携帯に東藤がいると思われる場所の位置座標が送られてきた。送られてきたはいいのだが、

「えっと……その、滝山市水面町三-四-六ってどっちなんだろう?」

 生憎、地図と人探しは苦手な男であった。おまけに携帯の扱いも上手くない。

 隆一は縁側で一人頭を抱える。だが、幸いにもこの状況を打破することの出来る可能性を持つ人物が、自分のすぐそばにいることに思い当たる。彼はすぐ客間にいる白髪の女を手招きして、自分の近くに呼び寄せる。呼んではいないものの、【水龍】もこちらの会話に耳を傾けているようであった。風切も同様のようで、ちらちらと縁側を見ている。

「あの、俺が探してる人がいる場所……分かったりしない?」

「分かるわよ」

「マジで!?」

「マジ」

 そう言って、白髪の女は北西を指す。

 しかし、視界に入ってくる光景は、

「ワンっ! へっへっへ」

「おーよしよし、よく出来たなあアレックス!」

「……えっとあっち? でぇ合ってるんですよね」

 見えるのは、飼い犬と戯れるその飼い主。

 その光景に隆一は思わず敬語を使ってしまう。

 きっと、方角そのものは合っているのだろう。

「あの……道案内、お願いしてもいいですか?」

 隆一は何とも言えない情けない声で問う。

 そこへ、背後から尊大な高笑いとともに声が掛かる。

「ふふん、お困りのようじゃなあ?」

「アザレアさぁん!」

 【水龍】、いや、アザレアの方を向いて拝み倒す隆一。

 その姿を見てアザレアは増々胸を張り、悪役のような高笑いをする。

 それを傍から見る風切は、目頭を押さえ、ひどく重い頭痛に覚える。





「おっとぉ? 刑事さんだけ? 国松の野郎はどこへやってくれたのかな」

「アイツなら、先に逃がした。君には悪いがこれも私の仕事だからな」

 砂埃が舞う薄暗い工場の中、東藤と上沢の二人が、今は使われていない機械たちの隙間越しに会話していた。東藤の表情や声はやや強張っており、それは目の前の異形なるモノを前にしながら、自身は防護ジャケットはおろかライフルすらない状況からくる、心許なさが原因であった。しかし、彼の瞳には確かに輝く意思が宿っていて、それは上沢ですら崩せない気高さを含有していた。

「刑事さんさあ……どうしても諦める気はない感じ?」

「…………」

 東藤はゆっくりと胸の部分にある、拳銃のホルスターに手を掛ける。

 上沢も東藤の行動に合わせて、右腕に蜃気楼もどき、いや、見えざる顎門を形成する。

 靄が形成される瞬間、女のものと思われる怨嗟の声が周囲に響き渡る。具体的な言葉を発しているわけではないが、その声からは強い怒りと苦痛が感じられ、東藤の背筋に気味の悪い怖気が奔り回る。だが、拳銃を握る右腕は微動だにせず、何時如何なる時でもそれを引き抜ける状態を保っていた。

「……抵抗はするだけ無駄だ」

 その言葉とともに、東藤はホルスターから勢いよく拳銃を解き放ち、鈍く黒光りする銃口を上沢に向ける。真っ直ぐに伸ばした両腕は先程までと変わらず揺るがない。

「あぁん!? 何カッコつけてんだよおっさん! 俺ぁそんなカッコつけを見ると、昔の自分を思い出して死にたくなんだよ! その減らず口を聞けねえようにしてやんぜぇ!」

 突然怒りを露にした上沢が、目の前にあった作業用機械のパイプを噛み砕き、真っ直ぐ東藤に向かって突進してくる。パイプは他の障害物と同様に、始めから存在しなかったかのようにこの世から消え去り、周囲に奇怪な断末魔を響かせる。

 それに応じて東藤は拳銃の引き金を引いた。銃口からは眩い輝きとともに鉛の弾丸が放たれ、上沢の太ももに向かって、目にも留まらぬ速さで正確に飛んでいく。しかし、

「効かねってんだよ! 死ねやおらぁ!?」

「ぐっ!」

 上沢の攻撃を紙一重で躱す東藤。彼の背後にあった他の機材が跡形もなく消えうせる。

 そして、東藤は再び一定の距離を取ってから発砲する。唸りを上げて上沢を肉薄する二発の弾丸は、肩と腿、それぞれへと突き進んでいく。上沢も二つの攻撃に対する対応は出来ず、左肩を弾丸が掠め、白いシャツに血を滲ませた。

「痛いじゃあねえかよ! お気に入りのシャツだったのによお! どうしてくれんの!」

 地団太を踏んで、八つ当たりで周囲にあるモノを次々と噛み砕いていく上沢。

 その間にも、東藤は目の前に障害物が出来るようしながら、一定の距離を取って拳銃を構える。彼の額から玉のような汗が一滴垂れ落ち、砂埃に塗れ、黄色がかった灰色のコンクリートの床を滲ませた。

「だったら」

「降参する!」

 上沢は唐突に顔色を変えてそう言った。

 一瞬、東藤はその姿を見て内心で安堵する。しかし、

「……何て言う訳ないだろうが。俺が悪夢から覚めるには、過去から一歩踏み出すには、これは必要なことなんだよ。他の誰のためのわけでもなく、他の誰かから赦しが欲しい訳でもない。ただ過去と、千草と、決別するために……未来へ進むために必要なんだ」

 その言葉を紡いでいる上沢の表情は、先程までの怒りを滲ませるものでも、ましてや、異形の力に呑まれてしまったモノの歪んだ笑みでもない。ただ一人の何処にでもいる人間の男の顔だった。だが、しかし、それでも、

「……私がすることは変わらない。君が何を思い、何を為そうとするかは勝手だ。だが、それが他人の命を奪うというのならば絶対に君を止める。この命に代えたとしてもだ。……いや、白状しよう」

 言葉尻をため息交じりに話しつつ、息を出し切るとともに拳銃を降ろす東藤。

 その額には薄っすらと脂汗が滲んでいた。

「何を?」

 上沢も拍子抜けした様子になり、見えざる顎門がふっと消える。

「私もきっと、過去に囚われているんだ。刑事を辞めて、逃げるように今の仕事に就いたから。私と君がこうして出会ったのは、いい加減、過去を清算しろってことなんだろう。だから私も、私のために君を止める。お互い、自分の心が最も納得出来る選択を」

「はんっ、カッコつけは嫌いだって言ったじゃねえか」

 しかし、言葉とは裏腹に上沢の表情は何処か晴れ晴れとしており、それは憑き物が取れたという表現が似合うものであった。だが、それもすぐに無表情に戻り、右腕が再び揺らぎを纏い始める。それに合わせて、東藤も拳銃のマガジンを交換し構える。

 そして、憎悪に塗れた死霊の叫びが周囲に響き渡った。周囲の砂埃を吹き飛ばし、作業用機械や壁、天井を細かく震わせる。彼、いや彼女の、水木千草の絶叫が引き金となり、上沢と東藤はどちらともなく動き始めた。

「おらぁああぁあ!!」

 東藤の銃撃を意にも介さず、上沢が力任せに突進してくる。途中、左の脇腹を銃弾が掠めたにも拘らず、その勢いが止まることはなかった。真っ直ぐ、最短距離で、東藤の前にあるパイプや機械ごと彼を噛み砕こうしているのだ。

「くっ……!」

 東藤に備わる本能が彼にすぐこの場を離れろ告げる。だが、彼の理性はギリギリまで引きつけろと、身体を釘付けにさせる。目の前から弾けるように消えていく鉄塊を前に、心がヤスリで削り取られていくような感覚が奔る。そして、自身の頭部を消されそうになる瞬間、地面に倒れ込むことによって攻撃を躱し、上沢は東藤ではなくコンクリートの壁を噛み砕くこととなる。

「……ッ!!」

 地面に倒れこんだ状態のまま拳銃を構え、上沢の太ももへ向けてマガジンの弾がなくなるまで引き金を引き続けた。乾いた破裂音が立て続けに工場中へ響き渡る。

 一瞬の隙をついた連撃は、上沢に防御させる暇を与える間もなく、彼の穿いているジーンズを容易く貫いて、未だ人体のままの肉を穿つ。だが、上沢は立っている。太ももから夥しい血を流しながら、微動だにしていない。その表情にもまるで変化が見られない。

「あーもう……。こんな時に」

 しかし、東藤への追撃は行われなかった。いや、行えなかったという方が正しい。そしてそれは東藤にとって待ちに待った瞬間でもあった。上沢の背後が不規則に揺らめき始める。廃工場をかつてないほどに包み込む、地鳴りのような低い唸り声が響き、揺らめきから黒光りする粉塵が雲のように広がっていく。

 それを確認した瞬間、東藤は上沢から出来るだけ距離を取り、渾身の力を腹に込めて全力で大声を出す。

「国松! 今だあああああああああああああ!!!」

「おおおりゃあああああああああああああああああ!!!」

「は!? お前逃げたんじゃあなかったのかよ! 国松ァ!」

 その声とともに、唐突に物陰から出てきた国松が、火のついた一斗缶を投げつける。

 多分に鉄を含んだ雲は燃える一斗缶によって、直視出来ないほどの強い光を伴って勢いよく燃え広がる。そんな肌を焼き尽くしかねない熱とを前に、東藤と国松は自身の肉体を守るために地面に伏せる。確認は出来ないが、猛烈な熱が頭上を通過していくのが分かる。そして、

「端から! 俺を殺す気でいやがったんだなああああああああああああああ!!! 止めるだの何だのカッコつけてたが! 始めから殺すつもりだったんだよなあ!!? 東藤おおおおおおおおおおお!! 国松もォ! お前もォ! 絶対に殺す! 絶対だ! 絶対殺してやるうううううううう!!!」

 燃え盛る炎に包まれながら、上沢は尋常でない怨嗟が籠った呪詛を唱え続ける。全身を覆いつくす熱が全身の毛を、皮膚を、焼き尽くし徐々に炭へと変えていく。床でのたうち回りながら炎を消そうとするが、段々とその動きも鈍っていき、炎が燃え尽きるころには動かなくなってしまった。やがて辺りに静寂が訪れる。

「……終わったんだよな?」

 伏せた頭を僅かに上げながら、国松がぽつりと呟いた。その視線の先には黒焦げになった肉塊が天井に向けて右腕を伸ばしたまま固まっている姿が映っていた。一見して、それは死んでいると言って間違いない状態である。

 国松は恐る恐ると言った様子でゆっくり立ち上がると、上沢だった炭の塊に近づく。そしてくすんだ煤塗れの足を二度、蹴る。感触は人の肉というよりも、どちらかと言えば乾いた木に近い。コツコツと軽木を小突いたような音が工場中に虚しく響く。

「へっへへっ! 死にやがった! ざまあみろってんだ! はっはははは!」

 緊張の糸が切れた国松は自身の太ももを叩きながら、狂ったように笑い始める。

 そんな光景を見て、東藤はやるせなさと虚しさを感じるとともに、言いようのない不安を覚えていた。まだ終わっていないのではないだろうか、という漠然としたものが胸の内で沸々と沸きあがってくるのだ。そしてそれは、

「……ッ! 国松離れろ!」

 上沢だったものから黒い煤がどんどん剥がれ落ちていく。固まっていた彼の身体は微弱に振動を始め、煤が剥がれた箇所からは揺らめきが噴き出し続ける。

 そんな異常事態に気付いていない国松に対して、東藤は声を掛けるが一足遅かった。

 鋭い風を切る音が聞こえ、直後に石が砕けるような音が周囲に響き渡る。

「あああああああああああああ! ……はぁっ! はぁッ!」

 国松が左足を抱えながら地面を転げまわる。痛みを必死に耐えようとする悲痛な息遣いが生々しい痛みを伝えてくる。よく見ると、その左足の脛には大きく抉れており、文字通り薄皮一枚で繋がっている状態だった。傷口からは滝のように血が溢れ出しており、そう長くない内に失血死してしまうであろうことは容易に想像がつく。

 しかし、東藤は国松にすぐに近づくことは出来なかった。何故なら、

「ハァァァァァァァ」

 異形の存在へと変貌した上沢が二人の間を挟むように立っていたからだ。

 全身は恐竜を模ったような揺らめきに包まれ、その内側にはかつて人であった証である人骨と、ぽつりと浮いている心臓だけが申し訳程度に残っているのみ。揺らめきはそれらを決して離さないと言わんばかりに強く抱きしめているように見える。いや、それは鎖とも呼べるのだろう。全身を異形の鎖で締め上げられた、一人の男とそれに纏わりつく亡霊の虚しく、悲しい叫びが工場中に響き渡る。

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