episode6-7 彼の真意

 人生の転機とはいつだって突然に訪れ、予想だにしないものが来る。

 私が病に伏した母を助ける医師の姿に感銘を受けて薬学を志したこと。

 その母が他界するとともに、念願叶って就職した首都の大企業を辞めたこと。

 当時の同僚とともに、私の地元で総勢二三人ほどの小さな製薬会社を立ち上げたこと。

 子どもの頃の夢が殿様だった私にとっては全て想像がつかなかったものだ。

 何よりも予想していなかったことは、

「者どもぉ! かかれええぃ!」

 こうして私が悪代官よろしく悪漢達を従え、悪を働いていることだろうか。



「悪いねえ嬢ちゃぁん? アンタに恨みはないんだけどぉ、これもお仕事ぉだからさぁ? クライアントの言うことは基本的に従わなくちゃなあ? これでも、信用ってやつで成り立ってる商売だからぁ? 死んでもらうしかないんだよねえ!」

 椿姫を取り囲む、金光の配下と思しき五人の人間の内、ちょうど真ん中に立っていた一際ガラが悪い女がそう言いつつ、拳銃の安全装置を外す。それに他の四人も続こうとした時のことだった。

「遅い!」

 椿姫は自身の言葉が粗暴な女に届くのとほぼ同時にその懐に入り、拳銃を握った右手を抑えて射線を外し、懐に蹴りを放つ。華奢な少女が放ったとは思えない勢いで、女が片側に立っていた配下二人の方へ倒れこんでいく。

 倒れこんできた女を配下は受け止め切れずに地面に倒れこみ、三丁の拳銃が床に転がる。

 隅に佇んでいる【疾風】以外の者達は一瞬で起きた出来事に反応することすらできない。

「あと二人!」

 その隙を見逃す椿姫ではない。倒れこんでいない側の配下たちへ詰め寄り、その内の一人に足払いを掛けて体勢を崩す。すぐさま、もう一人の懐を通って背後に回り、首筋に手刀を当て、その意識を刈り取る。

 椿姫は転がっていた拳銃をすぐさま取れないような距離まで軽く蹴り、滑らせる。

「っ! なんてことだ……。総額三六四万と五七〇〇円で雇った精鋭たちが一瞬で……」

 それは殺し屋界隈では安すぎるんじゃない? ――――

 少女は内心で呆れ返っているが口にはしない。自分の危機はまだ去っていないからだ。部屋の隅では異形のモノがこちらをじっと見つめている。何故自身に手を出してこないのかは分からないが、警戒を解く理由にはならない。落ちた拳銃の内、一丁を金光に向ける。

「ひぃっ!」

「こちらの指示に従うというのなら、無駄な怪我をしないで済みますよ」

「ふふっはっはっは! そんな下手な脅しうひっ!?」

 やれやれとでも言うような表情を浮かべた金光の耳元を、ギリギリで掠めない程度で弾丸が通り過ぎる。弾丸はすぐ後ろの壁に当たり、白い壁紙に黒く深い傷跡を創る。

「指示に従えば無用な怪我を負わせる気はないと、言ったはずです」

少女の眼光は純粋でそこに迷いや偽りなど微塵も存在していない。

 その場にいる、後ろめたい感情を持つ者にとっては眩しいものだった。

「動かないでくださいよ」

 銃口を金光に向けたまま、椿姫は徐々に彼に近づいていく。

 その間も【疾風】の動向は逐一目配せで確認する。

「着いてきてください」

「……!!」

 椿姫が金光の背後に回ると、彼のシャツの襟を掴み、その後頭部に拳銃を突きつける。そして、金光を自身の前に立たせ盾のようにして、応接室から出ようとする。武術などに全く精通していない金光は、反撃という選択が頭をよぎることすらなく、ただ椿姫の指示に従う。

「…………」

 【疾風】は何も言わず、ただ壁際に背を預けながら椿姫の方をじっと見つめるだけだ。

 早い内にここから脱出しなくては――――少女は牛歩のような歩みの金光を急かす。

 【疾風】を通り越すことが出来れば、ほぼ逃げ出すことに成功したと言ってもいい。目的を達成した以上、この場に長居する必要性もない。椿姫の歩みが自然と速まる。

 しかし、その歩みは止められることとなる。

 何故なら、 

「全く騒々しいのう……って、おろろ?」

 青い着物を着た女、【水龍】が入ってきたからだ。

 【水龍】は部屋の中をぐるりと見渡して、中の惨状に対して深いため息を吐く。

「……」

 最悪な状況ね――――椿姫の背中と衣服が冷や汗によって引っ付く。

 自身の前に立ちふさがる二体の異形。彼らの力に対抗するには、椿姫が持つ拳銃程度ではあまりにも非力。いや、椿姫が身に着ける鋼鉄の鎧や白き魔人ですら力が及ばないかもしれない。

「なんじゃ、皆床に伏せておるではないか。【疾風】、案外貴様さぼる男だったんじゃのう。任された使命くらい、しっかりこなすべきだと思うぞ。【幻相】に嫌味を言われたくないならな。……言っておくが、妾はあの悪趣味外道から庇ってやるつもりは毛頭ないからの。だが、連帯責任とかいうものを負わされるのも嫌じゃなあ……ふむ」

「……――?」

 当の【六柱】たちは悠然と会話らしきものをしている。……【疾風】は首を傾げながら、何処かを向いて唸るばかりで、意思疎通が問題なく行われているか定かではないが。

 私はどうすればいいの? お兄ちゃん――――椿姫は思わず頬の内側の肉を噛む。

 圧倒的な力を保持したモノたちの態度は、その場にいた人間にとって、天と地ほどの力の差を感じさせるほどの余裕があった。生まれた時からの絶対的強者。自分たち人間は、彼らにとって餌、いや、道端に転がる石のように歯牙にもかけない存在で、如何に鍛錬を積み重ねようと埋まらない溝があるのだと、思考を、心を、蝕んでいく。

 静寂が場を満たす。それは、決して穏やかなものではなく、全身の余すところなく刃を突きつけられたように、不快感と焦燥感、抑えようのない動悸を覚えさせるものだ。

「はあ、面倒じゃ」

 異界において至高の存在たる龍が口を開く。見目麗しい、華奢な人間の女に扮しているにも関わらず、纏う雰囲気は俗世と隔絶したもので、他愛のない発現でさえも神の言葉のように思わせる。

 敵対する椿姫は勿論、彼女らの味方側であるはずの金光すらも息を呑む。

「“王”の復活など妾からすればどうでもよいことじゃし」

「“王”の復活? それが貴方たちの目的なの?」

 恐る恐るといった感じで、椿姫は【水龍】に問うた。

 【水龍】の無機質な眼光が椿姫を射貫く。

「ねえ、どうなの?」

「やっやめぅ……!?」

 恐怖を必死に堪えながら、椿姫は【水龍】に食らいつく。

 盾にされたままの金光はボディランゲージで椿姫に“止めろ”と伝えようとするが、後頭部に銃口を強く押し付けられたことによって、押し黙らされる。

 【水龍】はしばし考えるとでも言うように、顎に手を置く。

「気に食わんが、まあ、冥土の土産に教えてやるというのも悪くないじゃろ。妾はミラジオの気高き龍、その片割れじゃからの! そうじゃ、“王”の復活というのが、一応、我らの目的ということになっておる。各々、思う所はあるがの」

「“王”っていうのは、何なの?」

「別名、百の貌を持つ獣。ミラジオに生きる全てのモノを生み出した存在じゃ。親というよりは分身に近いがの。まあ! 龍は“王”と同格、いや、それ以上じゃがの! “王”は我が番によって討ち取られちゃったしのう!」

 遠き日の思い出を懐かしむように、恍惚とした表情で天井を見上げる【水龍】。見る限り、彼女の精神はこの場ではなく遥か遠くに旅立ってしまっていることが分かる。

 仲間が倒したという“王”を何故復活させようとするのか。また、“ブルーアイ”をこちら側の世界で製造、販売することが、復活にどう繋がるのというのか、聞き出す必要がある。椿姫は更なる情報を聞き出すために、慎重に言葉を選ぶ。

「貴女のちょーぅ強いお相手が倒した存在を、何故復活させようと?」

「……それは」

「それは?」

「“王”に代わって、我が番がミラジオの世を統べていたが! 数年前、貴様ら人間の謀りによって死に! 新たに世を統べる存在が必要になったからじゃぁ!」

「っ! 伏せて!」

「んひっ!?」

 突如として激昂した【水龍】が、右手から圧縮した水がレーザーのように放たれる。

 自身や金光が怪我をする可能性はあったが、最早なりふり構っている余裕はなかった。【水龍】の挙動から、何処を狙っているか目星を付けた椿姫は、床へ伏せさせるために、金光の襟を掴んで思いっきり地面に叩きつける。

 霧のように細かな水飛沫を上げた水流は、盾にされた状態の金光ごと椿姫を貫こうと、目にも留まらぬ速さで直進する。しかし、椿姫たちが射線を外れたことによって、水の刃は椿姫たちの頭上を突き抜けていき、甲高い弾ける音が部屋に響く。

「ちっ……生意気にも避けおったわ」

「あぁたねえ! 危ないじゃあないですか!」

 床に打ち付けられた痛みと、自分ごと殺そうとしたことへの怒りをぶつける金光。

この男、思った以上に肝が据わっているというか、小心者でありながら図太さも持ち合わせている。少し金光への印象が変わる椿姫であった。

「すまぬ手が滑った」

「そ、そんなわけな」

「手が、滑った」

「左様でございますかっ」

 長い物には巻かれろ、やはりこの世で生き残るにはこれが一番だな――――金光は思考を停止して、ただ争いの波が収まるのを待つことにするした。

 椿姫の目から光が失われ、金光へ生ごみに集るハエを見るような視線を向ける。

「結構危ない技を持っているんですね」

「こんなものは我が力のほんの一端にすぎんわ。数少ない龍の中でも、指折りの力を持つ龍である妾は天候すら容易く操ることが出来る」

「そんな力を使わないだなんて、随分と優しいんですね」

「場所が場所だからの。後で延々と嫌味を言われたくはないのじゃ」

 嫌味を言われたくない、そんなちっぽけな理由一つで自身の命は薄皮一枚で繋がっているということに、椿姫は再び絶望感を覚える。だが、自身の命がなくなる危険は未だになくなったわけではない。すぐさま、行動できるように体勢を立て直す。

 本気を出していないとはいえ、先程の水の槍は彼女の柔肌を貫くには十分すぎる。

 その上、現在何もせずに静観しているものの、【疾風】がいつ動き出すか分からない。

「貴方たちの事情はどうでもいいですが、こちらにとっては好都合ですね。このまま、私を逃がしてもらえると助かるんですけど」

「ふん……小娘よ、あまり調子に乗るでないぞ。その顔を奇麗に保ったまま死にたいのなら、あまり動かないことじゃなぁ?」

「鼻っから死ぬ気なんてありませんよ」

 【水龍】がピンと立てた右手の人差し指を椿姫の顔に向ける。

 椿姫の額から一滴の汗が顎に垂れ、やがて床に小さな水溜りを創る。

「威勢や良し、だが、それがいつまで続くか……見せてもらおう!」

 【水龍】の陶磁器のような白い細指の先に、直径二センチほどの小さな水の玉が形成される。水玉は沸騰しているかのように内側から無数の泡を溢れさせ、その形を変えては即座に球体へ戻すことを繰り返している。やがて、泡の放出を止めた球体は針状になっていき、甲高い音を立てて弾けた。

「っ!」

 本能から危険を察知した椿姫は、元いた場所から横に跳ぶ。

間を空けず、軽石を落としたような音と空気が抜ける音ともに、椿姫が元いた場所のすぐ後ろの床に小さな穴が開いた。穴は三センチに満たないものだったが、下の階が見えるほどに深く床を穿っている。その位置は、椿姫の心臓目掛けて撃たれたものであった。

「苛々させられる、貴様のその態度! 動き! 何よりもその眼が! 妾の脳裏にあの女の姿をちらつかせる!」

 続けて、二度三度と椿姫目掛けて水の弾丸が放たれる

「勝手に他人の姿を重ねられても迷惑っ!」

 椿姫は置かれているソファや机などの障害物すら意に介さず、曲芸師顔負けの身体能力で、前転やバク転などをしながら次々と向かってくる水の槍を躱し続ける。しかし、それも長くは続かない。肩や服の裾を弾丸によって抉り取られる。

「ぐっ!」

 鋭い痛みとともに、抉られた部分から血が溢れ出る。

 それによって椿姫の動きは鈍り、その瞬間を【水龍】は見逃さなかった。精確に水の刃を彼女の脚へ放つ。勢いよく放たれた美しき刃は、椿姫の柔肌を容易く切り裂き、その歩行能力を奪う。

「ああぁぅ!」

 椿姫の苦悶に満ちた呻き声が部屋に漏れ出る。

「っ……!」

 続けて、目の前の光景により、椿姫から声が失われる。

 その光景とは、

「多少、ここにあるものが壊れてしまっても許してくれるな? いや、許せ」

 【水龍】の周囲を取り囲むように、無数の水の玉が形成される。それらはチリチリという奇妙な甲高い音を立てはじめ、部屋中にその音を染みわたらせる。

 椿姫の目には透明な球体たちが自身をじっと見つめ返し、狙いを定めているように見えた。いや、事実なのだ。たちまち螺旋を持つ針へと姿を変えていくそれらは、椿姫に無数を風穴を開けるために創られたものなのだから。

「小娘、貴様との会話はそこそこ退屈を紛らわせてくれた。武においても、目を見張るものがある。だが、ここで仕舞いだ。では」

 水の弾丸が一斉に高速回転を始め、周囲に霧のように細かい水を振りまく。

 その霧を全身に浴びて、【水龍】の青い着物は黒へと変色していく。

「さらばじゃ」

 霧が勢いよく弾けるとともに無数の水の槍が解き放たれた。それらは椿姫が移動できる範囲を埋め尽くすかのように、目にも留まらぬ速さで飛んでいく。それはさながら豪雨のようだった。

 椿姫は避けようのない飽和攻撃に思わず目をつぶり、腕で出来る限りの防御態勢を取る。しかし、それは無意味なことだと思う椿姫。床を容易く貫いた攻撃を自身の細腕程度で守れるはずがないと。

「っ」

 椿姫の心情が如何なる状態に陥ろうと時の速さは変わらない。

 人であるならば、生き物であるのなら死の時間は必ずやってくる。

 死にたくないと思いながら、生きたいと願いながら、少女は諦め、ただその時を待った。

 だが、

「え?」

 その時は訪れない。

 少女の死を許さないモノがいる。

 椿姫の視界はくすんだ白に包まれていた。

「…………」

 白い甲殻を纏う彼は窓ガラスを突き破り、突風とともに部屋に侵入してきたのだ。

 その紅き瞳は自身の腕の中にいる妹の姿を捉えている。

「兄さん……!」

「……」

 白き魔人は振り返り、青い着物の女を一目見て、次に黒い魔人の方を見る。そして、もう一度女の方を見る。何処かを見やった後、さらに女を見る。魔人の内心では、何故あんたがここに居るのだ、と困惑していた。

 魔人が二度見、三度見と続けるうちに、【水龍】も気になり出す。

「何じゃ貴様……。何処かであったかの? というか、そこの小娘とは随分見た目が違うんじゃな」

「……!?」

 身振り手振りで自身が滝上隆一であること、何故ここに居るのかということを【水龍】に伝えようとするが、全く伝わる気配はない。そもそも、それを伝える必要があるのか、という疑問が沸いて出てくる。

 【水龍】が白と黒の魔人を交互に見て、ため息を吐く。

「はあ……、貴様も【疾風】と同じタイプか。貴様ら“混ざりモノ”というのは、皆こう、喋れないものなのか? まあ、どちらにせよ……」

「……ッ!」

 【水龍】から不穏な気配を感じ取った魔人は椿姫を庇うような体勢を取る。

「その娘ごと死んでもらうだけじゃがな!」

 予想通り、【水龍】は攻撃の意思を見せてきた。しかし、それは椿姫に放ったものとは違うものであった。彼女は高く上げた手を振り上げる。すると、周囲の空気が凍てついていくような感覚に襲われる。それに続くように天井の蛍光灯が一斉に割れる。

「っ!」

 椿姫は背後の窓ガラスを見て絶句した。ガラスの下部が氷を張っている事に気づいたのだ。そして、氷はガラスを覆いつくそうと徐々に這い上がっている。次の一撃は一体どのようなものなのか、想像するだけで恐ろしくなり、身震いをする椿姫。

「……!」

 【水龍】が天高く上げていた腕を一気に振り下ろした。その瞬間、彼女の腕から氷柱が生じ、魔人目掛けて飛んでいく。いや、伸びていくといった方が正しいのだろう。水晶のように澄み切った氷の槍は、椿姫の前に立ちはだかる魔人ごと貫こうと、尋常でない加速で持って魔人を肉薄する。

 凍り付いた部屋の中、魔人の紅き瞳が煌々と輝いた。彼の周囲の空気は震え、青白い光によって、熱を取り戻す。魔人の左腕に青い稲妻が収束し、やがて、巨大な刃が形成される。魔人はその刃を自身の前に突き出し、迫りくる氷柱を迎え撃つ。

「き、貴様……その力は!?」

 【水龍】がかっと目を見開いて驚きの声を上げ、魔人の輝く刃に釘付けになる。

「……ァ!」

 直径五〇センチはあろう氷柱が、稲妻の剣に触れた傍から融け、蒸気へと姿を変え、視界を白色へ染め上げていく。しかし、それでもなお、氷柱は止まらない。後ろから押し出されるように進む氷柱が、二つに裂けながら、魔人と椿姫を避けるように、それぞれ窓ガラスを割って外に飛び出していく。

「……!」

 動きが止まった氷柱を魔人が右足で乱暴に蹴る。

 氷柱はガラスが割れるような音を立てて、粉々に砕け散り、白に染め上げられた世界は徐々に色を取り戻していく。静けさに包まれた空間の中、緊張が高まる。

 魔人は隙を見計らって刃を解く。余計に体力を消耗させないためだった。

 しかし、その一瞬の判断が勝負の命運を分ける。

「その光は目立ちすぎるぞっ! …………て…………」

「……ッ!」

「きゃっ!」

 白い闇の中で光が消えると同時に、【水龍】はこっぽり下駄で床を勢いよく踏みつける。

すると、何ら変哲のない床から水が大量に溢れ出し、魔人と椿姫を置かれていた調度品や倒れていた人間たちごと窓の外へ押し出していく。あまりに一瞬の出来事であったためか、誰もが反応すら出来ないまま、地上から約八〇メートルの高さに放り出された。

 冷え切った空気から一変して、夏らしい暖かな空気が身体を包む。同時に、重力に従って、猛烈な風を浴びながら、熱された硬い地面に向かって落ちていく。

「たたた、助けてくれえっ!」

「ひえええええええええ!!」

 金光やその配下の者達の悲鳴が地上の遥か高くで響き渡る。

「……!」

 魔人は空中で体勢を立て直すと、右脚に巻き付いていた黒いナニカを金光や配下達の下へと伸ばした。一瞬は戸惑う彼らだったが、迫る地面を前にして迷っている時間はないと思い、黒いザイルを必死に掴んだ。

「兄さん……!」

 椿姫の声が宙に響き渡る。

「……ァアァ!」

 黒い触腕は他の人間たちで手一杯、魔人は必死に椿姫へ手を伸ばす。だが、絶望的なまでに届く気配はない。手をばたつかせながら距離を詰める。

 地面はすぐそこまで迫っている。もう、二〇メートルは切っているだろう。

「……ァァァァァ!」

 あと少し、あと少しで届くんだ! ――――魔人はもどかしさに苛まれる。

 椿姫まで、精一杯腕を伸ばして、残り六〇センチという所まで接近する。

 だが、あと僅か止まりだった。一向に届く気配はない。

「きゃあああああああああああ!」

「…………ァァァァ!」

 間に合ってくれええええええええ! ――――

 届かない。

 この手は大切な者の手を掴めない。

 白い甲殻に覆われた凶悪な左手は、少女が伸ばした手を掴めず、空を切った。

 視界の端に見えた街並みは消え、その殆どが熱された白いタイルで埋め尽くされる。

 もう残された時間はない。もう駄目だ、終わりだ。そんな言葉が脳裏を埋め尽くす。

「……ッ!」

 迫りくる地面を前にして、魔人は着地姿勢を取る。

「…………」

 少女は今度こそ、目を瞑り、待つ。

 さようなら、お兄ちゃん。それと……ごめんなさい――――少女は心の中で呟いた。

 太陽に照らされ、キラキラと輝くタイルが、やけに冷たく、恐ろしいものに椿姫は思える。いや事実恐ろしい。身を守る機械の鎧がなければ、こうも簡単に人は死ぬのだ、と無力感が身体を包み、時間の長さは永遠にまで引き延ばされたようだ。

「……っ!」

 一段と強く吹いた風に、椿姫は思わず目を瞑る。

 それに続いて、身体の浮遊感も強まる。

「え?」

 いつまで経っても、椿姫が地面と衝突することはなかった。代わりに、自身を優しく抱く、硬い腕の感触がする。椿姫は困惑の色を隠せずに声を漏らす。ゆっくりと瞼を開き、自身の身に起こっている現象を目の当たりにする。

「……――」

「……え!?」

 椿姫を抱き、地面に直立していたのは、

「なんで……?」

 黒い甲殻を身に纏う異形の魔人、【疾風】であった。

 【疾風】は固まって動けない椿姫を優しく地面に降ろした。そして、風を巻き起こして敷地外へ飛び出ると、何処かへ消えてしまった。

「…………」

「…………ッ」

 椿姫と白亜の魔人は【疾風】を止める気力もなく、ただその背中をじっと見つめていた。

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