episode5-6 少女の選択/迷える子羊たちの足掻き

 これは何処にでもある現実。

 一年前に起こった、私の分岐点。


 彼の名前は、街田啓。

 彼はとても親切で、優しくて、クラスでも人気のある人でした。

 いつも教室で楽しそうに話していたり、馬鹿みたいなことをする友人を親のように見守っていたり、そして、時に必死に色んな人を手助けしたり、とにかく人と強い絆で繋がっている人でした。私とは住む世界そのものが違う存在、そういう印象を持っていました。

 でも、ある日の放課後、それは起こりました。彼にとってそれはただの親切心から来るものだったのでしょう。ですが私にとっては特別で、幸福で、夢のような時間の始まりでした。今となっては本当にいい思い出になっています。

「峰山、俺と話さないか?」

「……はい?」

 そう言われた時、私は意味が分かりませんでした。クラスではいつも一人で誰とも関わらずにいた私に、クラスの中でも一目を置かれるような存在に話し掛けられるなんて、関わることなんて、絶対にないと思っていたからです。

 始め私は彼との会話は正直に言って、迷惑だったし、話が合うはずないと思っていて、すぐに切り上げて帰ろうと考えていました。ですが、彼と話すうちに意外にも彼と私には多くの共通点を見つけられたのです。好きなバンド、好きな楽曲、休日は何をしているか、放課後の帰り道に何をしているのか、最近食べ過ぎて体重が増えたとか、どれもが他愛のない話でした。でも、私にとって、放課後の限られた時間、彼との時間はとても充実したものでした。いつしか、私は街田くんのことを好きになっていて、自惚れでなくそれは彼も同じ気持ちだったと思います。

 ですが、幸福な時間はある日突然、日常のありふれた出来事で崩れました。



「最近の峰山ちょっと調子乗ってない?」

「あーちょっとクラスで煩いよね。この前の美術の時はかなり煩かったよねー」

「そうそう! 街田が気を使って話し掛けたってのに、それで自分もクラスの中心人物になったー的な感じっていうの? なんかそんな感じしない?」

「あーそんな感じ、そんな感じ。いくらイケメンの友達が出来て、放課後に話すっていう甘酸っぱい恋します! って言ってもねー、あんた恋愛ドラマの主人公じゃないんだから身を弁えろって感じするわー」

 それは、女子トイレでの何気ない会話でした。今になって思えば、それは彼女たちにとってはただの世間話だったのでしょう。私も、初めはそんなことを気にしないで別のトイレに行こうと思ったのですが、次の言葉で私はその場に釘付けになりました。

「でもおー峰山も可哀想だとは思うんだよねー」

「えーなんで?」

「だってさー、街田って確か生徒会の琴吹さんとこの前のミスコンの一位になった城ケ崎の幼馴染なんだってさー」

「滝山美人三十傑衆の二人かー。うちの学園美人多いからなー。ってか美人の幼馴染持ちとか街田のやつ、ドラマの主人公かよ」

「でー琴吹と城ケ崎って仲が悪いってよく噂で言われるじゃん? あれ、実は街田を取り合ってるんじゃないかって話だよー」

「えーマジー? 修羅場じゃん。流石は“学園の勘違いさせ野郎”だねー」

 女子たちの話など、最早気になりませんでした。

 私は、今までの自分が嫌になりました。何故なら、私は彼にそんな相手がいるなど知りもしなかったのですから。……“学園の勘違いさせ野郎”というあだ名も。

 え? 滝上くんもあだ名を知らなかったんですか? ああ、すいません脱線してしまいましたね。話を戻します。

 今まで彼と行ってきた交友も、実は私が彼に自分の気持ちを押し付けてきただけだったのではないか。彼は“私が望む彼”を演じてくれていただけだったのではないか。いえ、たとえそうでなくとも私が彼について知らないことがあったという、その事実が悔しくて、惨めで、気持ちが悪い、許せない、嫌だ。そう、思えて仕方がなかったのです。



 失意の下、私が下校しようとした時、彼に出会ったんです。

 彼は言いました。

「お金さえ払ってくれたら、良い人を紹介しよう。そうすれば君は今とは違う自分になれるものを授けてくれるはずだ」

 こんな言葉、普段の私なら真に受けることなどなかったでしょう。でも、その時の私には何よりも救いの言葉に聞こえたのです。彼の言葉に乗り、私は定期的に彼にお金を払うことで、“良い人”なる人物を紹介してもらうことにしたのです。

 そして、その甲斐あって“良い人”を紹介して貰ったんです。それが、


「その“良い人”ってのが、豪山先生ってわけか」

 隆一の言葉に、峰山が頷く。

「でもよお、その前にお前に豪山先生を紹介した彼っていうのは誰なんだよ」

「彼は、“ブルーアイ”を豪山先生と一緒にこの学園周辺で売って……いたらしいです。私は彼がどんな人間なのか知りたくて、彼の後をつけたんです。その時、」

「お前が公園の前にいたのはそういう理由だったってのか」

「……はい」

「って、まだ肝心の彼を教えて貰ってないぞ。……あっもしかして、その彼って、風紀委員の地味眼鏡じゃないか?」

「え? よくわかりましたね。っていうか言い草酷くないですか?」

 この場の空気が軽くなってしまったが、よく考えれば峰山が“ブルーアイ”と関わっていたことは確かであり、それは非常に危険な状況に身を置いているというである。最悪、命を失いかねないことである。

 隆一は真面目な空気に戻そうと、真剣な瞳を峰山に向け、言葉を放つ。

「なんで……なんでそんな方法をとったんだ。やっぱ意味わかんねえよ。ばっかじゃねえの。もっと色々やり方があっただろ! 啓のことが知りたかったら、もっと一緒に話せばよかったじゃないか。啓の幼馴染と比較されるのが嫌なら、他人が口出しできないくらい啓と仲良くすれば良かったじゃないか! お前は今、凄い危ないことに首を突っ込んでる たとえお前がそれによって、変わることが出来たとしても! きっと不幸な結末を迎えることになる」

 少女もまた、青年の真剣な言葉によって自身の置かれた状況、行ってきた所業を俯き、力が抜けたように地面にへたり込んだ。

 梅雨の湿った冷たい風が頬を撫で、背筋を凍り付かせる。

「大体、何で豪山先生が“ブルーアイ”を売ってるんだよ! あの人はちょっと熱血でうざったくて、鬱陶しいくらいお節介で普通の、いい先生じゃないか! なんで……なんであんなもん売ってんだよ!」

 一度整えた心や息は見る影もなく、俯いた峰山に詰め寄る隆一。

 冷静さを欠いた隆一の言動は峰山を萎縮させるばかり。

「それについては……分かりません。本当です」

 意を決した峰山は震える声でそう言った。

 空は徐々に星に穿たれた闇が夕焼けを包み込んでいき、不安を掻き立てる風の囁きが強まっていく。雲に隠れていた月は不気味なくらいクリアに光っていた。

 既に生徒のほとんどが門から出ていく様子が見え、背後から見える別棟の明かりは一つずつ消灯されている。

「すう……はあ……」

 再び深い呼吸を行い、精神を整えるために青年は見えない重しを掛けられた口を開いた。やけに渇いた口内や喉奥に湿った空気が入り込む。胸は締め付けられるような感触と跳ね回るような脈打ちでいっぱいだった。全力で走り切ったマラソンの後でさえ、こうはならないのではないかと感じさせるほどに。

「…………」

 少女もまた、胸が締め付けられるようだった。いや、昔からそうだったのかもしれない。地味眼鏡こと、三ツ木くんと出会ったあの時から。ずっと私の心は痛んでいたのかもしれない。

 少女は自身に嫌気が差した。悲劇のヒロイン気取りもいいところではないか、と。心に更なる重しが掛かる。

 隆一は押し黙った峰山に再び声を掛けた。

「峰山はもう自分に“ブルーアイ”を打ったのか? ていうか、お前はこの状況をどう思ってるんだ?」

「……いえ、打ってないです。まだ、心の整理がついてなくて」

 歯切れの悪い返事だった。

「迷っているなら、俺にそれを預けてくれないか? 多分その中身、“ブルーアイ”なんだろ? ああ、大丈夫だ。ネコババとかするわけじゃない。言ったろ? 俺、こういうことには力になれるって。何とかするからさ。今ならまだ、峰山は引き返せる」

「…………」

 無意識に峰山はポーチを自分の胸へと引き寄せる。

 その行動を見て、隆一は悲しみと自嘲が入り混じった表情を浮かべた。

「信用してもらえないよな……何度もキレちゃったし、それに。俺は峰山に助けになれるって証拠、見せてないもんな」

 隆一の言葉に、峰山は胸を針で突き刺さされるような痛みが襲った。街田が信頼する友人の言葉を信用できない自分に、更なる嫌悪を覚える。

 峰山の頬を涙が伝う。

 峰山はこれでは自身が悲劇のヒロイン気取りのようではないかと、嫌気が増す。涙を拭おうと服の袖を顔に当てた。それにより、化粧ポーチが地面に落ちる。涙は制服を濡らし続け、一向に止まる気配はない。

 隆一が意を決して峰山へと近づいた。そして、傍らに落ちた可愛らしい化粧ポーチへと手を伸ばす。ひとまず、彼女から離すべきものであることに変わりはないからだ。

 一応、確認のために隆一は震える手で手に取った化粧ポーチのジッパーを降ろした。その時、ドアが開く音とともに、

「……何やってんだよ」

 二人の真横、屋上と階下を繋ぐ扉から、目じりが吊り上がった険相な面構えになった街田が出てきた。

「……啓」

「何やってんだって聞いてんだよ!」

 街田は一気に二人の所へと距離を詰め、隆一の胸ぐらをつかんだ。

 呆気に取られていた隆一は反応できず、ほぼ無抵抗な状態で首元を圧迫される。

 その拍子に、手に持っていたポーチから、五本は優に超える“ブルーアイ”が屋上へと散らばった。注射器に描かれた不気味な猫の青い目が怪しい輝きを放つ。

 それを見て、隆一は頭から血の気が引き、背筋に悪寒が奔った。そして、同時に頭を抱える。街田に何と言ったらいいのかと。

「おい、何とか言えよ。何か……理由があるんだろ?」

 俯き、隆一の襟を掴んだ街田の両腕は震えていた。先程までの勢いはなくなり、隆一の襟をただ掴むばかりで、首を絞めるほどの力と勢いはどこかへ霧散している。

 すぐそばでは峰山が嗚咽を上げながら、泣いていた。

 お前の好きな相手は化物になる薬を手にするために金を払っていた。そしてそれを今手にしていると、言えと? ――――出来ない。無理だ。隆一の頭がその二文字で埋め尽くされる。全てを包み隠さず言えば、街田の心は深く傷ついてしまうことだろう。峰山も同様だ。

「今は、言えない……言えないんだ。ごめん」

 真実は伝えなかった。いや、伝えられなかった。逃げだと、問題の先送りでしかないということも当然、隆一は解っていた。だが、友人の必死さを見てきた隆一にそれを言う覚悟はなかった。

 隆一は街田の腕を振り払い、足元に落ちたポーチと散らばった“ブルーアイ”を持って階段を下って行った。残ったのは、ぼうっと屋上の扉を眺める街田と、どう見ても話せる状況でない峰山の二人。

 冷たい湿った一陣の風が虚しく、暗い空の下で唸った。


 

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