episode5-2 少女の噂/青い着物の女
放課後。
隆一と街田は同学年の知り合いに峰山に関わる噂を聞いて歩いていた。無論、峰山と街田が鉢合わせないように細心の注意を払いながら。
「峰山? ああ、最近なんか妙に美人になったわよね。何て言うの? 野暮ったさがなくなったていうのかな。あれは恋の匂いがするわね」
初めに聞いたのはクロエであった。
以前大勢で遊んだこともあり、何か峰山について知っているのではないかということと、身近な同じ学年の女性と言えばまずクロエというほどには隆一との仲は進展していたからということもある。
「でも私に聞くよりは街田の方が峰山に詳しいんじゃない? 元から私と峰山って特別仲がいいわけじゃないし。クラスが変わってからは特にね」
「噂とかそういうレベルでもいいんだけど」
隆一は、クロエ……というよりは、一緒に遊んだときは割と仲が良さそうに見えたというのに、そこまで仲が良くないと言い張る女性のドライな部分に恐怖した。しかし、そんな感情をおくびにも出さず、話を続ける。
「噂……噂。そうね……隆一、ちょっと」
隆一に手招きをするクロエ。その僅かな動きでさえ蠱惑的であった。
隆一はその仕草にどきりとしながらも、クロエに近づく。
隆一の耳へ顔を近づけ、街田に口元が見えないように手で覆い隠した。いわゆる、こそこそ話というやつだ。
クロエの生暖かい吐息が隆一の耳をくすぐる。
「峰山とあの……名前なんだっけ、今日の保健の授業で寝てた隆一を怒ってた先生」
「豪山先生か? あと寝てたんじゃなくて、うとうとしてただけだ」
「同じじゃない? まあ、そんなことは置いておいて、峰山とその豪山がよく一緒にいるって噂が流れてるわ。私もちょくちょく一緒にいるところを見るし、結構、信憑性はあるんじゃないかな。峰山に男が出来たって噂の、その男って豪山なんじゃないかしら……ていうのが私の仮説よ。これを信じるか信じないか、街田に言うか言わないかは、隆一の判断に任せるわ。ふうー」
「うひゃっ!」
言い終えると同時に隆一の耳元へそっと息を吹きかけるクロエ。
その生暖かい風とくすぐったい感触、そして甘い香りが隆一を天井を衝くのではないかという高さまで飛び上がらせる。
「あはっははは!」
「りゅ、竜ヶ森!」
「おい、隆一ぶっ飛ばすぞ」
「怖い! てか俺全然悪くない!」
思い人について聞いている所を急に目の前でいちゃつかれたことによって、街田の心の内から殺意の波動が溢れ出したが、出すだけに留まった。
そんな混乱を招いた女、クロエは腹を抱えながら笑い、鞄を持って扉の前に立つ。
「はーはー……はあ、可笑しい。じゃあ、隆一、今日は無理そうだから、また今度一緒に帰ろうね!」
「お、おう! また明日な!」
クロエは手を振りながら隆一に、あどけなさが残りながらも妖艶さを感じさせる笑みを浮かべて教室を後にした。
魂の抜けたような顔をして手を虚空に向けて振り続ける隆一の耳を、街田が引っ張ることによって現実へと引き戻す。
「で、何を聞いたんだ?」
街田の表情が一変して真剣なものに変わり、その瞳が隆一の眼を射貫く。そして、同時に嘘を許さないという確固たる意志を伝えてくる。
「お前、本当に聞きたいんだな?」
隆一もその意志に応えるように真剣な眼差しを街田へと向けた。
「おうよ」
「いいか、あくまで噂ってレベルだってことをよーく頭に置いとけよ。で、心をしっかり保つこと。いいな?」
「お、おう!」
隆一はクロエから伝えられたことを街田に包み隠さず話した。
始めは心ここにあらずといった顔をしていた街田であったが、段々と平常心を取り戻していった。そして、それを知ってもなお隆一に真実を知りたいと街田は言う。
街田が冷静を取り戻した後、隆一と街田はともに自身らの知り合いや、峰山のクラスメイトに話を聞いて回った。しかし、その大半がクロエから聞いたことと似たようなものであったが、一つだけ気になる情報があった。
「峰山が薬を売ってる?」
そう言ったのは、隆一の知り合いの学園内でも札付きのワルと呼ばれる人物であった。何故そんな人物と隆一が知り合いなのか、というのはこの場においては特段重要なことではないため省くとしよう。
「ああ、いや、あくまで俺様の想像だから、実際に薬かどうか分かんねえけどな。俺様をよくしょっ引いてる、あの風紀委員のいいけ好かねえ神経質そうな眼鏡野郎いるだろ? あのすげえ頭よさそうな。そいつ、最近やけに機嫌がよくってよお、俺様やダチがなんかしてても、こっそり見逃してくれるようになってよ。どうにもおかしいと思った俺様はある日な、下手っくそな口笛を吹くあいつの後をつけたわけ。でな、校舎の陰で誰かと会ってる所を見たのよ。それが、」
「峰山ってことか?」
隆一はそっと呟いた。それを聞いたワルはまるで正解と言わんばかりに指を鳴らす。
「流っ石、隆ちゃん、察しが良い。っでもな、初め俺は彼女かと思った。ほら、地味ーな眼鏡と同じく地味で目立たない女子、なんてーの? いかにもお似合いのカップルって感じするだろ?」
「は?」
街田が今にも視線だけで相手を射殺せそうな目でワルを睨んだ。
とはいえ、ワルも中々肝が据わっていて、そんな街田の様子を微動だにせず見つめていた。しかし、その額からはとめどなく汗が流れていることを隆一は決して見逃さなかった。
「でもなー。ちょーっと様子が違ったんだよな。まあ、あの童貞眼鏡の野郎の顔は背中ごしだったから、地味子ちゃんに恋愛感情抱いてないかどうかは分かんねえけどな。……ああわりーわりー。薬の話の方が大切だったな。……えーっと。あーそーそーなんかなピンクの可愛げな化粧ポーチっての? あん中から何かを出して、それを眼鏡に渡してた……ように見えたのよ」
「それ、どんなのだ?」
隆一の声がこの場にいる二人の人間が来たことのないような真剣で鋭いものに変わる。それもそのはず、彼の脳裏に最悪の仮定が導かれようとしていたからだ。
「い、いやあ……それは角度のせいでよくわかんなくてよー。わりーな」
「いや、謝る必要は……」
隆一の声色が普段のものへとトーンダウンした。
周囲に気まずい空気が流れ、心なしかじめじめとしてきたように感じられる。
「で、薬? を受け取った後になー地味子ちゃんの耳元でなんか囁いて、眼鏡はどっか行っちゃったわけよー。そんで残された地味子は地面に膝ついて下向いちまうし、なんか気まずくなった俺はさっさと家に帰ったんよー。話はここまで、あの後、なんか怖くって眼鏡と地味子ちゃんには関わらねえようにしてんだ。これ以上は何もでねえよー」
「そっか悪いな。嫌なこと聞いちまって」
「いやいや、気にするこたねえって。世話になったしよー」
「じゃあな! なんか困ったことあれば言えよな!」
「おうよーありがとさーん。じゃあなー」
一通り、現状で聞けるだけの話を聞き終えた二人はそれぞれの帰路へとついた。
隆一は街田の様子が気になり、家まで一緒に帰ろうとさえ考えたが、街田自身がそれを固く拒否した。その時の言葉が、
『いや、なんかきもいわ』
マジトーンであった。
そんなこともあり、隆一はあの様子きっと大丈夫だろうと、帰り道に通る公園の自動販売機で何を買うか選びながら、そう考えていた。
そこへ、
「そこの小童」
「はい? えっと僕のことですか?」
背後から掛かってきた声に隆一は後ろを振り返りながら言う。振り返った先には、鱗のような模様の青色の和服を着た、二十代前半程に見える妖艶な女が、折りたたんだ扇子をこちらに向けながら立っていた。
「そうじゃ。貴様、じどうはんばいき……なるモノを知っておるか?」
は? 何言ってんだコイツ――――
「え、僕の、後ろにあるものがそうですけど……」
「そうか、では、こーひーなる飲み物を知っておるか?」
「ええ、この今まさに僕がどれにしようか迷っている飲み物ですけど」
「ほう……」
ほんと何だよこの人――――
隆一の困惑が深まる中、女は扇子を持っていない方の手を手のひらを空に向けながら差し出してくる。
「あの……その手は何を指しているのか……教えていただいてもよろしいでしょうか」
「はあ、小童よ。妾がこうしたらそれを差し出すのが、下々の者の務めであろうが」
はあ? ――――
隆一はこめかみに痛いほど血管が浮き出るような感覚を覚えた上に、顔が引きつる感覚に見舞われたが、必死にそれを隠しながら身を翻して、自身が選ぼうとしていた缶コーヒーを選ぶ。
すかさず缶が落ちてくる。熱くなった缶をそっと取り出し、尊大な顔をする女の手に優しく置いた。その時の隆一の顔は苦虫を潰しながらも必死に我慢して笑顔を作っているようであった。
「うむ、苦しゅうないぞ。我が番ほどではないが、よくやった」
「はあ、そうですか。……ありがとうございます」
「なんじゃ、そなた顔色が優れぬようだな」
あんたのせいですよ――――などとは決して口にしない。隆一の勘がこの人物はキレると途轍もなく面倒なことを引き起こすタイプだと脳内でサイレンを轟かせているからだ。
「むむむ、開かぬ」
まあ、あんたの爪長いもんなあ。そりゃやりにくいよなあ――――
「……貸してください」
あーさっさと帰りたい――――既に隆一は帰りの密かな楽しみを諦め、このまま帰ることを選んだ。そうするためには、なるべく眼前の女を刺激せず、平常を保ち、恙なく女の障害を取り除いてやることが重要だろう。……決して、女に同情心や庇護欲が沸いた訳ではない。決してだ。
人差し指をブルタブに差し入れ力を加えると、子気味の良い音とともに缶が開く。
それを黙って女に戻す。
全く今日は災難な一日だった――――
「いえ、別にそのようなことは。では僕はこれで」
「そうか、ではな」
隆一は必死に苦笑いを作りながらその場を去っていく。幸いにも、女に呼び止められることはなかった。
「ただいまー」
時刻は午後八時前。
隆一がバイトを行っていた頃から、生活リズムがずれることはよくあったため、返事が返ってこないことに関しては慣れている。……今日はやけに声が小さいということも理由にあるのだが。
大きな疲れがこもったため息を吐きながら、床板を鳴らしながら居間へと向かっていく。
「ああ兄さん、お帰りなさい」
居間に入ると、首にタオルを掛けパジャマを身に着けた椿姫がテレビを見ながら兄を迎え入れた。
「おうーただいまー。あー疲れたぁ……」
ため息を吐くようにそう言うと、隆一は今の奥の方へと向かい、インスタントコーヒーの瓶と自分専用のマグカップを手に取った。
「ほんと、兄さんはコーヒー好きですよね。小さい頃はピーマンとか苦い物大っ嫌いだったのに」
「まあ、俺も大人になったってことだな」
得意げにカップへお湯を注ぐ隆一。
湯気とともにコーヒー特有の香りが部屋に充満する。
隆一が視線で椿姫にコーヒーが欲しいか問うたが、椿姫は首を横に振った。
カップを持って食卓へと歩いていき、椿姫と対面するように座った。背中からはバラエティ番組の騒がしい音声が聞こえてくる。
「あー落ち着くわー。疲れが吹き飛ぶー」
「まあ……昨日今日と連続で戦ってますからねえ。疲れますよね」
「いや、そうじゃなくって今日は学園やら帰り道で色々あってさー」
カップを口に運ぶ。
コーヒーの苦みが口いっぱいに広がる。しかし、瓶が開封されてから時間が経っているためか、酸化が進んでいた。
隆一が再三に渡り、常温保存ではなく空気を抜いた状態での冷凍保存するようにと言っているにも関わらず、邪魔だからという理由で外に出されてしまっている、これではコーヒーが泣いていると言っても過言ではないだろう。
「あの……コーヒーのレビューはいいんで、何があったか言ってください」
どうやら口に出してしまっていたらしい。さて、友人のプライベートな話だがどうしたものか――――隆一は葛藤したが、これ以上自分だけの知識で友人の力になれる自身がなかったため、話すことにした。
「うーん、実は友達の恋愛絡みでさ」
「え! 恋愛!? マジすか!? 早く早く!」
おい、キャラぶれしてるぞ。
「ああ、すみません。つい」
椿姫も一人の女子だということだろう。隆一はそう納得することにした。
一度カップに口をつけてから、話し始める。
「名前は伏せとくけど、友達とその友達の好きな女の子がな」
「うん、うん」
「結構いい雰囲気だったんだよ」
「うんうん!」
「でも、その女の子がな。貴方に相応しい女になってきます! とか言って、友達と関わらないようになって、最近じゃあ先生と付き合ってるって噂が流れてるんだと」
「へえーなんか昼ドラっていうか、ドロドロっていうか。……少なくとも青春って感じの恋じゃないですねー」
椿姫は少し残念そうな顔をしながら、テレビのリモコンを構っている。
「なー。まあ今日は結局その友達と、件の女子について色々聞いて回ってたんだよ……でー……」
「で?」
しまった。この先を話すべきなんだろうか――――隆一は峰山が薬を売っているのかどうか、その確証を得られていない。無理に話して余計な混乱を招くべきではないとも考えられた。
「いや、流石にこれ以上は個人を特定しやすくなると思ったから……ふぁあーちょっと風呂入ってくるわ」
「そう……ですか。お風呂場で眠らないようにしてくださいね? あと今度風呂に電気ながしたら承知しませんからね」
「おうー分かってる分かってる」
流し台でマグカップを洗うと、隆一は早々に居間を出ていった。
しばらくして、取り残された椿姫は一人、天井を見上げる。
「兄さん、分かりやすいなー。やっぱり私が……」
兄は優しすぎる――――椿姫は静かに心に誓った。
これ以上何かを背負って心に枷を嵌めていく兄を少しでも楽にしてやるために。
滝上家の次期当主はあくまで自分自身なのだと、心優しい人の盾となり、悪鬼を打ち払うそれが自分であるべきなのだと。
家という呪いに縛られた少女は心に再び影を落とす。
……夜番組を見ながらというのが何とも格好がつかないが。
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