episode5-1 失貌の彼女/魔の都

 これは少し昔の物語。

 一年前の甘く苦い恋の始まり。



 彼女の名前は、峰山惠水。

 彼女はクラスの中で目立たない存在だった。

 いつも教室の隅で一人、物憂げな瞳で窓の向こうを見たり、本を読んだり、或いは机で俯いたままだったり、とにかく誰かと関わりを持とうとしない孤独な少女。そういう印象だった。

 ある日の放課後、俺は生来のお節介焼きという難儀な性格を発揮してしまい、一人帰ろうとする彼女に話しかけてみようと思ってしまったのだ。

 彼女からすれば余計なお世話もいいところだったのではないか、迷惑極まりない行為だったのではないかと頭を抱えたが、その時はそれが正しいことのように思えてしまった。

「おーい、啓ー帰ろうぜ! 美味いコーヒー専門店見つけたって言ったろ? 木島と三人で帰りに寄っていかないか!」

「悪い、今日はちょっとパスな」

「おう、分かった。また今度な!」

 俺は友人の誘いを断ってまで、帰りの支度をする彼女に近づいた。

 夕陽に照らされる彼女の横顔はとても美しかったと思う。そんな彼女に俺は、

「み、峰山!」

「……?」

「ちょ、ちょっと俺と話さないか?」

「……はい?」

 その後、俺たちがどんな会話をしたのかは、緊張していてよく覚えていない。

 ただ一つ覚えていることは、話している間、彼女が俺の前で微笑んでいたということだけだ。



 それから、俺と峰山は放課後の僅かな間だけ話すようになった。

 俺自身はやってしまったと思い、少し話し掛けるのが億劫になっていたのだが、彼女に話し掛けたあの日、友人達も陰で覗いていたのか、にやにやとからかってきた後、俺と彼女の関係を後押ししようと協力者を買って出てきたのだ。

 初めはうんざりしたが、長年付き合ってきた分、彼らが善意で言っているということは分かった。……半分好奇心で言っているということも。

 しかし、そんな友人達の助力の甲斐あってか、他愛のない会話をして、長い時間が経て、以前ほど気兼ねすることなく、朗らかな笑顔を浮かべながら話せるようになっていった。



「へえ、街田くんも、“ウォーターバーン”のファンだったんですね! 私もなんです!」

「そうなんだよ。特に“水の空”とかすげえ好みでさ」

「私も“水の空”大好きです! あのしんみりしたメロディがいいですよね」

「ああーわかるわ」



「私、あんまんが好きなんです。よくコンビニで買い食いとかしちゃって……体重が……うう……ダイエットとかしないとですね……」

「美味しいよな……わかる、わかるぞー」

「分かっていただけますかー」



「なあ、今度の日曜に友達と遊びに行くんだけど、一緒に行かないか? あ、もちろん女子もいる。ほら、この前転校してきた竜ヶ森っていただろ? あの銀髪の」

「……ええ」

「あいつの街案内ってのも兼ねてさ」

「……二人で行きたかったなー」

「え?」

「あ! いえいえ! 今の無し! 無しです! いいですね! 街案内! 行きたいです! いえ、行きます! 絶対行きます! で、ででででは今日はこの辺でええ!」

「お、おう! またな!」



 共通の好きなバンドについて語り合ったり、好きな食べ物について話したり、一緒にどこかへ遊びに行ったり、本当に充足した日々が続いていた。次第に俺は彼女の事を恋愛の対象として見ていったし、それは彼女も同じであったように思っていた。

 でも、そんな楽しい日々はある日を境に終わってしまった。



「え……どういうことだよ?」

「……今は詳しいことは言えません。ですけど、必ず街田くんに相応しい女性になって戻ってきます」

「いや、全然意味わかんねえよ? どういう意味だよ?」

 俺の声は震えていた。顎はうまく噛み合わず、脚に力が入らない。今にも床に崩れ落ちそうだった。

「本当にごめんなさい!」

 そう言って、彼女は俺の前から走り去っていった。

 あまりの突然さに理解が出来なかった。

 それが、今年の五月のこと。



「なあ、隣のクラスの峰山さーすげえ美人になったと思わねえ?」

「あーそれ俺も思ったわ。なんつーか自分に自信を持ち始めたっていうか、堂々としてるよな」

「おまけに髪型も変えちゃってさー。あいつ目鼻立ちすっきりしてたんだなー前は髪で全然分からなかったけど」

「でもなーどうも男が出来たって噂だぜ?」

「えーマジかー。残念だなー。あーあ、こんなことなら早いとこ、お近づきになっときゃよかったなー」

「うーわ、下心丸出しじゃん! そんなだから彼女ができねーんだよ」

「うっせ!」

 彼女が俺と離れて一週間が経ち、クラスではそんな会話が聞こえるようになっていた。

 進級してから彼女とはクラスが別れ、そのことから彼女と顔を合わせることはまずなくなった。偶に廊下ですれ違うことはあるが、俺は彼女の顔を見ることが出来なかった。

 俺の恋は突然終わりを告げたんだ。



 そして時は現在、昼休みの時間。

 滝山学園・別棟一階、学生食堂にて。

「で、それ何度目だよ。もう聞き飽きたっての」

「いや、お前な。竜ヶ森との恋路を応援してやったの忘れたのかよ。お前がみょーに落ち込んでた時もだ。それを笠に着るのは自分でもどうかと思うが、ちょっとくらい相談に乗ってくれても罰は当たらないんじゃないか?」

「それは分かるけど。……つーか前に、一度顔を合わせて話したらってアドバイスしたじゃないか。それを聞かず、実行もせず、毎度毎度NTRモノの導入みたいな会話を聞かされる身にもなれよなー」

「そーだそーだ」

 隆一の街田への苦言に同意を示したのは、共通の友人である。

 五月に入ってから街田は何度も隆一や他の友人に一連の話及びその愚痴を話していた。普段の街田の人柄から陰口を叩かれるようなことはないが、軽い語り口でなるべく街田へ刺激を与えずに苦言を呈したいという思いは、どうやら周囲の人間たちの間で一致していたようで、これはその結果であった。

「つってもよー。俺だってどうしようもねえんだよ。もうあれだよ? 傷ついた幼気な若者だよ? そんな心に傷を負った若人に慈愛の念を向けてくれよー」

「お前も大概、変わってるよな」

「なー」

 隆一と友人は街田の潤んだ庇護欲を誘うような視線にも目もくれず、自らの昼食に手を付ける。

「でも啓よー。世の中に女はたくさーんいるんだからよー。いい加減諦めて次の恋に向かって生きた方がいいんじゃねーの? AVやらエロ漫画みたいに、そこでお話が終わるわけじゃないんだ。お前の人生はこれからも続くわけだし」

「じゃんー?」

 隆一と友人の意見も確かに一理あると思った街田であったが、それを承服しかねるという考えが街田の頭の大半を占めているのも事実であった。

 そんな考えも、中学時代から一緒に過ごしてきた隆一の前ではお見通しである。目の前の特製滝山ラーメン(ベースは醤油)に気を取られながらでも簡単に解る。

「まーなんか行動起こす気になったら言えよ。……んっ。お前が助けになってくれたのは確かだからな。……あっつ! ほんと、兎に角なんかあったら言うんだぞ。絶対な」

「絶対なー」

「おう……あ、ありがと」

 隆一のぶっきらぼうな思いやりの言葉に、街田は少し照れが入り手に持ったコーヒーカップで口元を隠しながら礼を言う。砂糖は入れていないはずだが、中に注がれている黒い液体は妙に甘く感じられた。

「じゃあ、お言葉に甘えて。今日から早速情報を集めるか。手伝ってくれるよな?」

「……はい?」

「はいー?」



 滝上重工別棟・会議室にて。

「では、これより捜査班全体会議に移る。形式的な挨拶はほどほどに、一班から得た情報について話してもらおう」

 そう言って場を取り仕切ったのは、APCOの理事を務める滝上隆源であった。

 その言葉に従って、立ち上がったのは捜査第一班の班長を任されている東藤である。東藤は手元の資料を見ながら話し始める。

「ここ数日、滝山市・浅見原町で起こっているシーカーの多発的な発生についてですが、先日捕まえた、三人のチンピラからいい情報が出ました」

「なんだね?」

「はい。なんでも、“ブルーアイ”バイヤー同士にも縄張りがあるそうで、その縄張りにはお互い不可侵でなければならないという暗黙の了解があるんだとか……」

 東藤は一度喋るのを止め席を離れる。

「これを見てください」

 そして会議室のスクリーンに滝山市の地図が映され、その横に東藤が立った。

 薄い光を放つ地図上には複数の赤い点が加えられている。

 その場にいた者たちはすぐにそれが浅見原町で起こった事件の場所を示したものであることに気が付いた。

「見てわかるように、これは浅見原町で起こった事件現場。そして、」

 東藤はパソコンを管理している者に目配せをする。

 すると、透過された複数の青の円が地図に重なる。その内、一つの円が赤い点の群と重なっていた。

「この青い円はチンピラから得られたバイヤーの縄張りです。そして、この赤い点ので起こった事件は一つのバイヤーグループによって引き起こされたものではないか、というのが一班での意見であり、今後も詳しい調査をしていきたいと思っています。以上です」

「そうか。では次に二班」

「はい」

 自席に戻った東藤と入れ替わりに立ったのは、二班を務める、四十過ぎのパンツスーツに身を包んだ女性であった。

「兼ねてから、“ブルーアイ”に使用されていたペン型の注射器についての出所を探していましたが、ようやく確度の高い情報を得ました」

 女性は四十過ぎとは思えない整ったプロポーションの肢体を揺らしながら、スクリーンの横へと歩いていく。

 スクリーンには、中身が空になった“ブルーアイ”の写真が映されている。

「この針とそれを固定する小さな三つの短い支柱、というあまり見かけない構造を持つ注射器についてですが、これは光金製薬が独自に造っていた注射器、その改良型とも言えるようなものであるということが分かりました。そして、光金製薬を洗ってみたところ」

 スクリーンが切り替わり、スーツを着た男たちがホテルの一室で話し込んでいる様子が映し出された。

「これは滝山グランドホテルで撮影した写真です。ここに映っているのは光金製薬の専務と“ブルーアイ”の売人グループに注射器を卸していると見られるグループのトップです。レーザー盗聴器により、会話を拾ったところ、光金製薬と“ブルーアイ”の売人との密接な関係があると確信いたしました。今後は更なる情報を収集しつつ、潜入を行い、一斉検挙を行いたいと考えています。以上です」

「そうか、では次に三班」

「はい」

 次に立ったのは脂ぎっただらしのない身体を持つ厳つい中年の男性であった。時代劇ではまず悪代官役に間違いなく抜擢されるような風貌の男だが、その実仏と呼ばれるような慈悲深い男で通っている。

 男はしわがれた、これまた悪代官のような何か企んでいるような声で話し始める。

「約二年前から散発的に発生していた行方不明者が、一部記憶を失った状態で発見されるという事件ですが、どうやら“ブルーアイ”が絡んでいるようです」

「ほう」

「発見された行方不明者にはいずれも左腕に注射跡が見受けられ、“ブルーアイ”が出回る前はそれを疑問に思われなかったのですが、一連の事件を追っていた警察が、ここ最近のシーカーの事件を受け、発見された人たちに血液検査を行ってみたところ、血液から“ブルーアイ”が検出されたそうです。これを受け、我々第三班は今後もこの事件について調査を行っていきます。以上です」

「そうか、では次、四班」

 男はほっと息を吐いて自席に座る。

 それから会議は一時間にも渡って続いていった。



 この街は欲望渦巻く魔の都。

 善と悪とがせめぎ合い、今まさにそれらは衝突する。

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