episode4-3 おっさんと少女の逃走

 午後二時四七分。滝山市・市街にて。

「待てやごるるるああああああああああああああああ!」

「はあ、はあ、はあ……」

「おじちゃぁん……もう疲れたあ……!」

 息を切らしながら、俺と女の子はビルの合間を掻い潜り、とても長い間あてもなく走り続けていた。

 奴らの仲間なのか、少なくとも例の薬の男女とは別に三人の人間から追われている。

「安全な、所に、行く……までは、だめだ……あと、おじさんじゃねえ……!」

「うううう……」

 とはいえ、俺の体力も限界に近い。そして、終わりの見えない逃亡劇により、精神的な疲労もピークに達している。

「てめえら! 待ちやがれえええええええええ!」

 表通りに差し掛かった時、俺たちに向かって追っ手の一人が怒声を浴びせてきた。

 普段ならちびってしまいそうだが俺は何とか堪え、少女の手を引きながら走る。

「はあ、はあ……!」

「やった、出れた!」

 少女は表通りに出たことで喜びの声を上げる。

 空からは眩い光がいっぱいに入っていた。

 しかし、そんなことを喜んでいる暇はなかった。

「おらあああああああああああああああああ!」

「はあ、はあ……やべえ、逃げるぞ!」

「う……うん!」

 俺たちは表通りの人ごみに向かって走り始める。

 あそこなら、あいつらの追跡を逃れることが出来るかもしれない!

加齢によって昔ほど動かなくなった足を必死に働かせ、人ごみをかき分けながら進み続ける。少女の手は先ほどまでよりも強くこちらを握り返してくる。

「野郎! どこへ行きやがった!」

 見つけるなよ、見つかるなよ……。

 無意味であるにも関わらず、俺は息を殺しながら人ごみをかき分け始める。今度はゆっくりと、存在を消しながら。

 俺は視線だけを動かし、不審に思われないように辺りを見渡す。

「はあ、はあ……」

「おじちゃん……怖いよ……おうちに帰りたいよ……」

 少女は俺にだけ聞こえるように、不安を吐露する。

 ぎゅっと握られる自分の手にはっとした俺は、不安を隠しながら言う。

「大丈夫だ。俺が絶対にお前を家まで送ってやる。……絶対、絶対に……大丈夫だから」

「う……うん!」

 隠せただろうか……。

 信じて貰えただろうか……。

 俺は話してから少女を見ることが出来ず、先程までよりも強く握られた手の感触を感じながら、前を向いて歩き続けた。

 だが、そうも言っていられないようだ。

「野郎出てきやがれえええええええええええええ!」

 後方から驚きと恐怖が入り混じった悲鳴、そして人と人がぶつかるような乾いた音が響いてくる。

 どうやら、先程から怒りと唾交じりに大きな声を上げていた男が、周囲の人間を蹴散らしながらこちらへ向かって来ているようだった。

「不味い、走るぞ」

「……わかった」

 俺と少女は雑踏の中を再び走り始める。

 まさかこんな人ごみで騒ぎを起こすとは。

「見つけたぞてめえら! ぜってえ逃がさねえ!」

 すぐに見つかったことに軽く絶望を覚えるが、それに浸っている余裕はない。

 俺たちは走るスピードを上げる。

 だが、このままではいずれ捕まってしまう。

 何か、何か逃げられるものはないか!

 俺は辺りを見渡した。

 そして、

「そ、そこの人!」

「え? 俺?」

「そう! そのバイク借りるぞ!」

「は? あんた何言って! ってうお!」

 やけになった俺はバイクに乗っていた四〇代ほどの男を押し退ける。

 ああ、これで俺は車両泥棒の仲間入りだ。

 そして、少女とともにヘルメットを被ることなくバイクを走らせ始める。



 しかし、男と幼い少女は自分たちを見つめる、ある視線に気づかなかった。

「ああもう! 遅かった! 涼子さん! すいません! こっちの方で見つけたんですけど、一足遅かったです! ええ、はい。しかも、最悪なことに竜海ちゃん……男と一緒なんです……。ええ、はい。ナンバーは見ました。今から警察に……」

 善意で動く若者の視線に。



 まあ、そんなこんなで、現在に至る。

「貴様あああああああああああああああ! 私の娘をどうするつもりだあああああ! 事と次第によっては生かして返さんぞおおおおおおおおおおお!」

「あっ! お父さんだ! おーーーーい!」

 後ろから来るパトカーやら何やらのサイレンが静かになったと思ったら、今度は黒いバンが来やがった。

 しかも、乗っているのは何でも後ろに乗っている少女の父親だそうで。

 少女は少女でバイクに乗ってからテンション高いし。

 あのチンピラから撒けたんじゃないかと思うけど、妙に胸騒ぎがする。

 今日の俺の不幸はまだ終わっていないって、そんな予感とも確信とも取れる何かが、俺の胸の内をぐるぐると渦巻いている。

「うるせええええ! 俺だって好きでこんなことしてるわけじゃないわ!」

 俺だってこんなことはもうやめたいさ。

 だけど、

 今もどこかであいつらが見ているんじゃないかっていう、強迫観念がそれを許さない。

 俺は隣の大声で喚く“お父さん”に当たり散らすように真実を叫ぶ。

「いいかあ! 耳をかっぽじってぇよーく聞けよ! 俺はなあ! てめえの嬢ちゃんを誘拐してるわけじゃ「ほ! 本当?」うっせえ! だあって聞いてろ! 俺はなあ! 嬢ちゃんと逃げてるんだよ!」

「何からあ!」

「聞いて驚くなよ! 俺は、いや俺たちはヤクの売人から逃げてんだよ! 生憎俺たちゃやばい現場を見ちゃってなあ! 人が化物になる瞬間ってやつをよお! あいつらの追手が来れないとこに行くまで停まらねえからなあ!」

「……おい、その現場はどこだ?」

 そう言った瞬間、“お父さん”の声色が先ほどまでとは一変する。

 全く、そんなことを聞いてどうすると言うのだ。

「早く言え!」

「えっと、滝見通りの裏……そのぉ路地、をぉちょっっっと抜けた所でぇ、ちかくに薬局と工務店があったかなあ……?」

「あと、ペットショップも!」

「あ、そうそうペットショップ」

 少女は後ろで飛び跳ねるような動きでそう言った。

 やわっこい肌が俺の背中に当たる当たる。

 ……いや、そんなことを言っている時じゃないな。

 うん。

 そんなことを考えている間に、話を聞いた“お父さん”は携帯を取り出して、誰かと会話をし始めていた。

「ええ、はい……そうです。至急、出動及び保護をお願いします。……はい、わかりました。それではそのように致します」

 通話を終え、再び“お父さん”がこちらに話し掛けてくる。

「事情は分かった。取り敢えず、三〇〇メートル先で左折、滝山港のコンテナターミナルまで行け」

「はあ!?」

「いいから、言うことを聞け」

 あのおっさん、急に真面目な顔つきになりやがって。

 “お父さん”の有無を言わせない雰囲気に、俺はしぶしぶ納得してバイクを走らせる。



 午後四時三分。

「はあ、はあ……」

 橙色に染まる空の下、隆一は病院から全速力で歩道橋へ向けて走っていた。

 アスファルトを砕くような力で生み出される速さは、優に人のそれを凌駕し、足元からはゴムの焼ける臭いと白い煙がその軌跡を描く。

 青年の心は不安と焦燥で埋め尽くされていた。

 頭に移るのは幼い従妹の少女とそれによく似た幼い頃の妹が重なる姿。

 アレを失いたくない。記憶の片隅に追いやるようなことにはしたくない。

 玉のような汗が体中から零れ落ち、口からは乾いた熱っぽい吐息が這い出てくる。

「竜海、待ってろよ……」

「あれ、隆一? 凄い汗じゃない、こんな所でどうしたの? 大丈夫?」

「うおっ! よ、よお、竜ヶ森」

 視界の端から白銀の髪を夕日で輝かせる少女が現れ、隆一は慌ててブレーキを掛ける。

 隆一の同級生、竜ヶ森クロエであった。

 隆一は視線をクロエが出てきた所へ向ける。

 視界には、寂れて見るからに荒れ果てた神社とその石段が映った。

「平気平気。ちょっと従妹が迷子になったみたいで、探してるんだ」

「へえー大変ね。私も手伝おうか?」

 少女は瞳に軽い心配の色を浮かべ、隆一に言う。

 しかし、隆一は申し訳なさそうにして、

「いや、大丈夫だ。それより、竜ヶ森こそこんな所でどうしたんだ? 何か願い事でも?」

 クロエは目を伏せるようにして、今にも消え去りそうな笑みを浮かべる。

「いや、まあちょっと。……家族について……ね」

 その何かを憂うような表情は妙に湿った艶があり、隆一は思わず唾を飲み込んだ。

 そして、隆一の込み上げてくる感情に釘を刺すように、懐の携帯が震え始める。

「……ん、はい。……分かりました、すぐに行きます。俺そろそろ行かなくちゃいけないから、また明日な!」

「う、うん! また明日!」

 隆一は再び全力で走り始める。

 朽ち果てた神社の下には、夕焼けに照らされ、寂しそうに手を振る少女の姿が残された。

「また……明日……ね」

 名残惜しそうな独り言は、青みがかった夕空に虚しく吸い込まれていく。

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