episode1-1T 後継者の決意

 春の柔らかい太陽の光を爛々と反射させる青く美しい海、そこを自由に海鳥が飛び回り、潮の香りが鼻を通り抜け体を満たす。


 そんな美しい光景を一望できる岸で、まだ小学生ほどの男女が二人で元気に走り回っている。


「お兄ちゃん! 見てみて!」


 少女は腹這いになって崖の下を覗き込み、興奮した様子で兄を呼ぶ。


「ん、なんだなんだ?」


 兄と呼ばれた少年は、ほぼ垂直に切り立った崖に恐怖の色を見せながらも、好奇心の入り混じった表情で恐る恐る端へと近づいていく。


「あれ!」


 隣まで来た兄に興奮の源を指さす少女。その先には、潮風に揺らされながら懸命に咲く一輪の水仙があった。


「きれいだねー。」


 ため息のようにうっとりと呟く少女。それを見た少年は自身の勇気を振り絞って言葉を紡ぐ。


「よし、兄ちゃんが採ってきてやるよ!」

「え、危ないよお兄ちゃん!」


 目を見開いて兄を止める少女。しかし、一度言ってしまった手前、情けない姿を見せらない思ったのか、少年が止まることはなかった。


「へーき、へーき。兄ちゃんはこの家の次期後継者だぞ! このくらいは何てことないって!だって俺はお前のヒーローだからな!」

「もう、その話はしないって約束でしょ!」


 顔を真っ赤に染めて大声を出す少女。


 根拠などまるでないが、兄の勢いに乗せられてしまった妹は止めるのをやめ、崖を慎重に下っていく様を見守り始める。


 崖に張り付きながら小さな足場へと慎重に足を運ぶ少年。ゆっくりとではあるが、確実に水仙へ近づいていく。


落ちれば命は助からないであろう崖を下ると選択できたのは、自身の身体能力への自負もあったためだろうか。


「あ…あともう少しで…。」


 気が付けば、手を伸ばせば届くという所まで来た少年は、慎重に最後の一歩を踏み出す。


「よし! 採れたぞ!」

「お兄ちゃんすごい!」


 手に取った水仙を見えるようにぶんぶんと振り回す兄を見て感嘆する少女は、羨望の眼差しになる。


 しかし、少年が妹のいる崖上に戻ろうとしたその時、強い潮風が少年の体をさらう。


「うわああああああああああああ!」


 少年の恐怖の叫びが辺り一面に響き渡る。慈母のように美しく優しい輝きを放っていた海がまるで暗い海の底へと引きずり込むかのように激しく波を立てる。


「お兄ちゃああああああん!」


 少女の叫びは空しくも波と風によってかき消され、少年は無残にもその体を暗い海に呑まれて行くのだった。



「はあ…はあ…。」


 布団を跳ね除けるように起き上がる。体は冷や汗でべったりと湿り、心臓は全速力で走りぬいた後のように鼓動している。


 滝上椿姫は整った顔を歪ませて自身の見た夢を、いや、過去の自分を呪った。


 二度とあんな夢見たくない――そう思いつつ、ベッドから出て、白と黒の道着に着替えると敷地内に建てられている道場へと足を運ぶ。


 彼、いや、兄はあの後五時間に及ぶ捜索と、医師たちの懸命な治療により、奇跡的に一命を取り留めた。


しかし、体の傷は酷く、滝上家の後継者としての彼の将来は絶たれてしまった。


何よりも酷かったのは記憶の問題で、記憶喪失になってしまった彼が事故に遭う以前に持っていた記憶は現在でも失われたままである。


(私がもっと強く兄さんを止めていたら、あの花を見つけていなかったら、今頃は…。)


 一連の出来事によって、滝上椿姫は兄である隆一に対して負い目を感じてしまい、壁を作っている。


また、兄のそんなことは存在しなかったかのような振る舞いは椿姫の心に深い亀裂を生みだしてしまっていた。


 それに対して隆一がどう考えているかは椿姫にはわからないが、少なくとも兄が自分に対して何かしらの負の感情を持っていると椿姫は思っていた。


だが、それは自分のしたことから当然のことだとも思っている。


 日課の鍛錬も今日は冴えがなく、父であり師でもある、滝上隆源にも今日は早めに終わると言われてしまうほどだった。


 鍛錬が終わり、使っていた竹刀などを片付けているときのこと、珍しく父が声を掛けてきた。


「何かあったのか?」


 街中を歩けば不良ですら道の脇へ避けるほど強面の父が、心配といった表情でこちらの様子を窺ってくる。


「あの事故のときの夢をみてしまって…。」

「そうか…。だが、昔のことだ。…気にしてもどうすることもできない。」


 起伏のない声色だったが、こちらを気遣ったようだった。


「お風呂で汗を流してきます…。」


「…そうするといい。お前も今や立派な魔狩師、先代以前の頃とはそのあり方は変わってしまったが、人を救うという事に変わりはない。その体は自分のものだけではないということを肝に銘じておきなさい。」


 顔を俯きがちに道場を後にする椿姫。


 魔狩師、異世界より来訪する害をなす異形、幻獣から人々を守ってきた私たちの家、滝上家はそう呼ばれてきた。


人々が幻獣からの脅威を忘れ、魔狩師という言葉が風化した今でもこの仕事は続いている。


 幼少期から兄は魔狩師における才能で目覚ましいものを持っていた。


自分はそんな兄を尊敬していたし、将来は兄が継ぐものと思っていた。それを支えて行こうとも。


きっと、父も気づいているんだろう、私が兄ほどの資質はないことに。


気が付くと既に風呂場の前まで着いていた。


 服を脱ぎ、浴室に入ると湯が張ってあり、椿姫は湯船に手をつき、湯に映る自身を見る。


そこには、今にも泣き出す寸前の子どものような顔があった。


「お兄ちゃん、あたしは…。」


 声と手が震え、足は今にも崩れ落ちそうだ。


 だが、泣き言は言っていられない。この世界を守るには、私たちの力が必要なのだから。戦えなくなった兄の分まで自分がやらなくては。


「私が、頑張らなきゃ…。」


 迷いを洗い流すかのように頭から湯を被る椿姫。その表情には先ほどまでの愁いを帯びた瞳はなかった。


 湯浴みを早々に切り上げ、制服に着替える。椿姫は、稽古ですっかり空腹になった腹を満たすために居間へと向かう。


腹が減っては戦はできぬ。父がいつも言っている言葉だ。


 廊下の向こうから兄の足音が聞こえてくる。


 夢のことがあり、たかが挨拶にも拘わらず妙に緊張する。冷静にならなくては。


 椿姫は、周りに聞こえない程度に息を整えた。


「兄さん、おはようございます。」


 いつも通りの『私』だと思う。

 兄は何か考え事をしていたのか、突然妹が角から出てきたことに驚いたのか、少し反応が遅れる。


「っ! ああ椿姫か、おはよう。今日も稽古か? 跡継ぎは大変だな。」


 世間話でも振るかのように滝上家の話題を出すなんて、まったく、この人は。―――隆一の何気ない言動が、椿姫を呆れさせた。


(私がこんなにも悩んでいることを、そんな簡単そうに…。)


 いや、これでいいのか。家を継がなければ平和に過ごせる。兄に何かを背負わせる必要はない。私がすべてを背負えばいい。それが最良だ。


 椿姫は、風呂場で固めた自身の決意を思い出す。


「兄さんは…気にしなくても大丈夫です。私は…滝上家の跡取りですから、これくらいは当然です。」


 これでいいのだ。余計なことを気にする必要はない。


 知れば隆一は無理をしてでも首を突っ込んでくるに違いないと、椿姫は長年共に過ごしてきた経験からそう考えた。


「兄さんこそ、こんな朝早くからどうしたんですか?」


 話題の矛先を兄へ逸らす、我ながらスマートな手並みだと思う。


 当の二人は気づいていないが、残念なところはよく似た隆一と椿姫であった。


「ん、俺か? 俺はちょっと用事があってさ。」


 そう言いながら目を泳がせる隆一を見て、用事というのは確実に女絡みの事だと椿姫は瞬時に気づいた。


 滝上の兄のほうが、最近、クラスメイトの美人転校生に夢中だという噂が椿姫の耳にも入ってきていたためである。


 今日の用事というのは件の女生徒だと、隆一の普段より整った髪や見慣れない仕草、そして、女の勘から椿姫はほぼ確信した。


「あのクラスメイトの方ですよね? あの方と遊ばれるようになられてから帰りが遅いですし、お母さんも心配していました。こういうことは、お節介だと思いますが、友好関係を見直されるべきでは…。」


 昔から、女性との交友関係はからっきしだった兄に、初めて見染めた女性が現れたことは椿姫としても喜ばしい事だったが、何分その相手が悪い。


 兄が惚れた女というものが気になり、友人と共にこっそり兄のクラスへ行ったとき、椿姫はソレを一目見て、兄に良くないものをもたらすようなナニカを感じたのだ。


しかし、勘に頼って暴走するほど椿姫は感情的な人間ではなかった。そのため、遠回しに釘を刺すのみに留めるのだった。


「心配なのは分かるけど、別にいいだろ…。」

「ですけど…。」


 尚も変わる様子のない兄の雰囲気を見て、かなり惚れ込んでいるとみた椿姫は言葉を押しとどめる。


「本当に分かってるよ…。家の名前が大切なこと。それに、ここに居ても俺ができることってあんまりないし、せいぜい迷惑になることはしない。」


 不貞腐れたような声をしながら、悲しそうな目をする隆一。


(しまった…。もう少し言葉を選ぶべきだったわ…。)


 兄なりに家の事について悩んでいることに気づいた椿姫は、過去の自分の発言を悔やんだが、後の祭りである。


そのまま隆一は居間に向かっていたであろう行く先を変えた。


「俺の友だちに関しては自由にさせてくれよ…。ごめん、もう行くわ。」


(トモダチね…まあ、人の恋路を邪魔するものは何とやらともいいますし…。)


 それ以上椿姫は何も言わず、玄関の方へと向かっていく隆一を見届けた後、居間へと向かう。


 居間に着くと母の滝上美冬とマチさんが食卓へ朝食を並べていた。


そのすぐ近くに座布団を敷いて座る父は、テレビと手元のタブレット端末に視線を交互させている。


「どうかしたのか? そういえば隆一はどうした? 一緒だったようだが…。」


 障子扉の前で止まっている椿姫に気づき声を掛ける隆源。


「…。」


 喧嘩したというほどではないものの、兄と気まずい空気になりました。

と言う気にはなれず、かといって、女友達との用事でもう出掛けました。


とも言う気にはなれず、椿姫は視線を逸らし、中へ入る。


「そうか…椿姫お前に後で話すことがある。」


 そう言ってタブレットを座布団に置き、立ち上がった隆源は、そのまま椿姫の横を通り過ぎて玄関へと向かう。


 ばれたか――そう思いつつ用意の済んだ食卓で母たちと先に食べ始める。堅物な父だが悪いようにはしないだろう…多分。


「この魚おいしい。」


「このさわらは獲れたものでね! マチさんの旦那さんがくださったのよぉ。隆一も食べればよかったのにねぇ…。まあ気になる娘との約束なら仕方ないわねぇ。」


「そっか、ありがとうマチさん。」


「いえいえ、この家ではよくしていただいてますから。そうですか、坊ちゃんもそんなお年頃になられたんですねぇ。」


 朗らかな笑顔を浮かべるマチ。三人は世間話を交えながら箸を進めた。


「最近は物騒ねえ…。」


 テレビのニュースを見てぽつりと呟く美冬。そこには現場の映像を背に座るアナウンサーが映し出されている。


『今朝、滝山市、滝元川にて変死体が見つかりました。滝山市で起こっている変死事件はこれで四件目、警察はこれらを連続事件として捜査を進める方針を明らかにしました。』


「…椿姫。」

「お父さん…なんでしょう。」


 いつの間に居間に入ってきていた父に内心驚きながらも平静を保つ椿姫。重々しい空気を纏った隆源は美冬の正面に座り、重い口を開く。


「隆一に好きな子が出来たらしい。」

「…知ってます。それよりも私に話って…?」


 天然な発言を無視し、そう言うと父はマチさんに目配せをする。それに気づいたマチさんは既に空になった食器を片付け始めた。


 マチさんが扉を閉めたのを確認すると、隆源は食事前に見ていたタブレット端末を椿姫に見せる。


 そこには濃い藍色の鈍い光沢を放つ鎧とそのカタログが映し出されていた。


鎧といっても機械的な印象が強く、全身を隈なく覆う装甲や人工筋肉、電子部品、それらを制御する機器など、ざっと目を通しただけでも分かるほど高い技術の結晶らしい。


強化服やパワードスーツとったほうがニュアンスが近いだろう。


「まずはこれを…。今朝、隆次郎から送られてきたものだ。」


 隆次郎とは父、隆源の実の弟で、隆一や椿姫の叔父にあたる人物である。


椿姫はいつも仕事に追われている姿しか見た覚えがなく、多忙な人という印象だけ持っていた。


若い奥さんと八歳になる娘さんの三人家族で、そちらは度々飼い犬を連れて家に遊びに来るためよく知っている。


 滝上重化学工業、介護用ロボットを始めとしたパワーアシスト機器や義肢などを主に開発・生産しており、隆次郎はそこで、ある部門の主任を務めている。


「滝上重工第3倉庫に行ってほしい。すぐにでもお前に合わせた調整を行いたいそうだ。」


 そう言ってテレビに映った変死事件ニュースに目をやる隆源。


詳しいことは分からないが、父の口ぶりからするとあの事件は普通のものではなく、人ならざる者が関わっているという事なのだろう。


「わかりました。では、早速行ってきます。」

「すまない、学校の方はどうする?」


「とりあえず、体調不良で休むとでも言っておいてください。」

「分かった。」


 食器を片付け、部屋を後にする椿姫。何としてもこの事件を自身の手で解決を導きたいという思いを胸に家を後にするのだった。


「椿姫ぃー! お弁当忘れてるわよ!」


 何とも締まらない。

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